9 私の想い
月明かりが差し込む部屋の中、マーヤはベッドに寝転がって、帰らない彼を待つ。
昼間のことが、頭から離れなかった。
改めて相応しくないといわれ、そうよね、と心が肯定を返す。
ここに来てから、自分はそこそこ磨かれたのだろうと、思ってはいたけど。やはり、生粋の貴族令嬢から見れば、まったくなっちゃいないことを思い知らされ、痛いほどに感じていた。
悔しくないといえば嘘になる。
自分なりにがんばってきたのに、まるでダメだったのがわかったのだから。
その努力を知らない第三者に、ああも言われて、腹も立つ。
だけど、仕方がないと諦めてもいる。できたつもりだったものは、結局ただの付け焼刃のようなもので、パっと見はちゃんとなっていても、実際は全然だったわけなのだから。
――ここから出してもらえるよう、頼もう。
あんなに教育を施されてもダメだったのだから、これから何をしたってダメだ。そこまでの手間隙をかける価値は、自分にない。もっと別の誰かに、それは使われるべきなのだ。
それはたとえば、あの令嬢のような……。
「マーヤ」
かちゃ、と部屋の扉が開く。
廊下から明かりが漏れ、入ってきた。
「王子」
「……名前では、呼んでくれないんだね」
寂しそうに笑う姿も、見たくないと思う。
思うのに、マーヤはかたくなに彼を『王子』と呼び続ける。名前を呼べば、余計に離れがたくなってしまうからだ。夢を見てしまう。都合のいい、自分だけが幸せになる夢を。
「僕が好きなのは君だよ、マーヤ」
カーライルはベッドに近づき、マーヤに触れた。髪から頬へ、指先が移る。
「他の『誰か』は要らない。ずっと君だけを見ていた。君だけを想っていた」
「でも、私は結局ダメでした。こんなのじゃ、王子が笑われます」
「マーヤは充分だよ。立派な女性だ。だから何も怖くない」
怖くなんて、と言いかけて、マーヤは彼から目をそらす。
そう、怖いなんて少しも思っていない。何を怖がればいいのかさえわからない。令嬢の嫉妬は見慣れてしまっているし、昼間のあれを越えるほどのものは、きっと存在しないと思う。
それに、ここで開放してもらえれば、一生知らずにすむことだから。
マーヤは何も見えない、ということにする。
何も見えないし、気づくこともない。
たった一言、この半年間、慈しむ指先だけで触れてくる彼を。
「もう、いいんです」
そんな言葉で、跳ね除けて、拒絶するだけでいい。
ここで、いい夢を見てきたと思う。だからもう充分だった。別に、王族に仕えるようになってから嫉妬やら何やら向けられ、そういうものには慣れているつもりだからいいけど。
自分のせいで、誰かに何かがあるのはもう耐えられない。
あの領主は決して、親類に屈し妹を犠牲になどしない人物だとわかっているけど。
じゃあ、目の前の彼はどうなるのか。
身分がちゃんとした人を娶ることを期待され、それが当然だと思われている人だ。そこに自分のような存在がくっつけば、どこからか必ず反対の声が上がって、面倒なことになる。
――私の夢は、私の夢で終わらせないと。
不穏分子をあぶりだすためのエサという都合のいい設定のまま、終わらないと。
同類だと思って親近感を抱き、実は全然違ったと絶望して怖くなって。自分を追い詰める存在でしかないのだと、そういうことになったままですべてを終わらせてしまわないと。
この感情は、こじれた憧れ。
恋とか愛とか、そういうものではない。
だから、マーヤは彼を拒絶しようとしたのに。
「誰に何を言われたのか、大体の察しはつくけど……僕は、そんなに弱くない。最愛の人の最愛の家族を守れないほど貧弱でもない。大丈夫、何もされないから、僕が守るから」
ぐい、とマーヤを抱き起こし、カーライルは腕の中に収める。
「君がいなくなれば、僕はずっと一人だ。だって僕は君しかいらないのに、他なんかで妥協できるわけがなかったんだよ。……できるわけがないって、君と過ごす時間で思い知った」
「王子……」
「名前で呼んで、マーヤ。少しでも僕のことが好きなら。僕に望みがあるなら」
肩をつかまれて向かい合わせに、ベッドの上に座らされる。
至近距離で目を覗き込まれ、そらしたいのにそらせなくなった。吸い込まれそうな瞳の色に息ができない。どくどくと、心臓が跳ね上がるように高くなって苦しくてたまらない。
「わ、たし……」
言わないと。
呼べない、と伝えないと。
「カーライル……」
王子、と。
続けるはずだった言葉の最後を、カーライルの唇が吸い取る。
だめだ、これでは名前を呼んでしまったことになる。彼の望みが叶ってしまう。この上なく強引に捕まえて、無理やりに言葉を奪って。彼の願いが叶っていく。
マーヤは引きずられるだけだった。
彼の思うままに踊って、流されるばかり。自分でもがくこともせず、動くこともせず、何もかもを彼に任せているだけの生き方はとても歪に思えて、その先に何もないに違いないのに。
なのに、どこか心地よかった。
自分で決めなくてもいいというのは、とても甘美な響きがした。
離れなければいけないと、自分で決める必要がないから。
どんなことも、彼が望んでいる、という言葉一つでできるから。
何がどうなっても、全部彼のせいにできるから。
だけどマーヤはそんなこと、少しも望んでいないのに。彼は彼女にそう思うように、強いるような振る舞いばかりだ。ここにいるのも、恋のようなものを抱いたのも、ぜんぶぜんぶ。
僕が悪いんだよ、だから気にせずにいればいいよ、と。
――そう、あなたは言いたいのですか。
そんな思いを目に乗せ彼を見れば、カーライルはどこか寂しげに苦笑した。
「……そうだよ。マーヤはね、僕に流されるままでいい。僕の強引さに引っ張られ、半ば仕方なく傍にいてくれるだけでいいんだ。ただ、ほんの少しでいいから、望んでくれたら、僕は」
それだけでいい、とでも続けようとした言葉を、今度はマーヤが奪う。
彼ほど執拗ではない、触れるだけの軽いもの。
けれど、カーライルを見つめる目には、強い炎がゆれている。
「私を見くびらないでください。私の想いが『ほんの少し』ですむとでも、本気で思っているなら考え直すべきです。そんな守り方をされたって、誰も幸せになれないなら意味がない」
「マーヤ」
「私はあなたの隣に立ちたい。立つに相応しい、それに値する存在になりたい。私がそう思ったのはあなたのせいではないのです、あなたのせいにはさせない。この想いは私のものです」
だから。
「私をちゃんと、あなたの隣に立たせてください、カーライル」
マーヤは、言い切った。
結局のところ、彼女が持っていたのは憧れともいえる恋のようなもので。けれど数年前から続く彼の言動で少しずつ恋に傾いて、彼に囲われた日々で見事花まで咲いてしまったのだ。
だから自分は相応しくないと思ったし、守られるばかりの今は嫌だと思う。
ましてや自分で咲かせた花の、所有権などくれてやるものか。
この想いは自分のもの。
他の誰にも、渡したりはしない。
最初、ぽかんとしていたカーライルはだんだんと、嬉しそうに目を細め。ずっと大事に守ってきた彼女を抱きしめる。その背中に、マーヤの腕も回り、互いの身体を自分の腕に収めた。
いつも、何度も感じていた温もりだけど、今日は少し違っている。身体の奥からこみ上げるような幸福感が、マーヤの全身に染み渡った。ずっとこうしていたかったと、初めてわかる。
きっと、それは彼も同じなのに。
ちゃんと思いを通わせあったはずなのに。
それでもやっぱり、抱きしめるだけにとどめる辺り。
まじめな人なんだなとマーヤは思い、その温もりの中で眠りに落ちた。




