枯れない花輪
あるところに、一人の女がおりました。
女は代々とある高貴な一族に仕える家系の生まれで、他の血縁の者がそうであったように、女もまた従者として主家筋の若君に仕えておりました。
その若君というのがこれはまた素晴らしい若君で、神が心を配ってお造りになられたであろう輝ける美貌に冴え渡る頭脳を持ち合わせた、先が楽しみだと世間の注目を集める方でした。
女はそんな若様にお仕え出来ることをこの上なく誇りに思い、少女の頃から男の服に身を包み、誠心誠意若君にお仕えしておりました。若君も幼い時分よりお側にいたそんな女を従者として厚遇し、いつしか女は若君の側近とみなされるようになりました。
女は、しあわせでした。
若君が長じて後、国の要職に就き忙しく毎日を過ごされている時も女は苦労はあれどもしあわせでした。女にとっては若君が世間から賞賛され栄誉を受けておられることが己の何よりの幸福であったからです。
若君のことを他の誰よりも何よりもお慕い申し上げている、という想いを決して口には出さずに若君のよりよき結婚を願いそのために動くくらいに、女は若君のことを想っておりました。
だからこそ。
女は珍しく酒に呑まれた若君の一夜の過ちを己のちょっとした欲望のために許容してしまったことを悔やみ、過ちの果てに己に宿ってしまった命を諦めることが出来ないことを嘆き、誰よりも愛した若君の迷惑にだけはならないようにと姿を消すことを決めたのです。
使用人に手をつける貴族など珍しくもありませんが、世間でも誉れ高い若君にそのような汚点を自分が付けることなど女には我慢出来ませんでした。かといって、女には愛する若君の血をひく子供を殺してしまうことも出来そうにありません。
悩んだ末に女が導き出した答えが、行方不明になるというものだったのです。
蒸発してしまってはこれもまた若君が使用人に逃げられただとかそんなろくでもないことをほざく人間が出てこないとも限りません。だから女は、事故に見せかけて姿をくらますことを思いつきました。
事故死したことにしてそのまま遠く異郷に移れば、若君は単に幼い時からの従者を不幸な事故で亡くしただけです。このことで何か中傷されるようなことは考えにくいでしょう。誰が見ても不幸な事故にすればいいのです。
お側で若君を支え続けられないことは残念なことでしたが、女はそれしかないと思いました。
若君は冷静な判断を下される方で、今までお仕えしていた女を一通りは探すことがあっても必要以上の人員をそこに割くことはないでしょう。昔からお仕えしてはいましたが、決して自分は若君にとって替えの効かない部下ではないと女はよく分かっていました。
いずれは女の穴を誰かしらが埋め、若君の栄光に満ちた日々は長く、それこそ命が終わる時まで続き、死して後墓標に刻まれるだろう墓碑にはきっと、名政治家にして大貴族である若君に相応しい流麗な文言を添えられるに違いないのです。
そう確信して女は誰にも気付かれないように姿を消す準備を始めました。
早く実行しなければいずれ腹が出て、女が子を宿したことが周囲に知れてしまうでしょう。どこの誰とも分からない男との間に子供を作った身持ちの悪い女が、若君の部下であってはいけないのです。
不自然に思われないように少しずつ私物を整理しているうちに、女は昔若君に頂いた花輪を荷物の奥に見つけました。勿論瑞々しい生きた花ではなく、枯れ果てた花輪です。けれど女はそれを手に取れば昨日のことようにその在りし日の姿をありありと思い出すことが出来ました。
その花輪は昔若君が女人には優しくするものだという教えを受けた日に、女に与えたものでした。側近となるべく引き合わされたとはいえ使用人に過ぎない女に与えられた花輪が分不相応なものだというのは承知していましたが、女はずっとそれを取っておいていました。
その花輪は給金でもなく褒美でもなく、若君から贈られた唯一のものだったのです。
けれど今若君の下を去ろうとしている自分がこれを持っていくことは出来ないと、女はそっと花輪を元の場所に戻しました。
衣服と、本と、書類と。女人が使う部屋にしては殺風景に過ぎるような部屋でしたが、使用人としてはきっと鑑のような部屋がそこにはありました。よほど処分に困りそうなものや、とても人には見せられないものはもう処分し終わっていて、後は女がこの部屋を出るだけです。
もう二度と帰ることのないだろう部屋を見渡して女はそっと、溜息を一つ、つきました。
若君の使いで単身地方へと向かっていた従者の行方不明の報が、屋敷に届けられたのはそれからしばらくした頃でした。
季節が巡って、のどかな山里で一人の女がふと手を止めて空を見上げました。腕の中に抱かれた、目鼻立ちの整った赤子もつられて空を見ます。
しばらく空を見ていた女はふと笑うと我が子の額に、口づけを一つ、落としました。