ノンケ友達を諦めるためにレンタル彼氏とデートしてみた
好きな人がいる。片思いが始まって一年が経った。この恋が実ることがないのは、最初からわかりきっていた。
「トキオ、聞いてくれよー」
「なに宵、また彼女とケンカでもした?」
「週末合コン行ったのヤマ達から聞き出したらしくてビンタされた」
「それは宵が悪いねぇ」
「いやでもただの付き合いで参加しただけでお持ち帰りとかしてねえし」
「アウトでーす」
「セーフだろ!」
「あははっ、残念でした」
「セーフだって~」
時生の好きな人は、よくこうやってその時々の彼女との惚気話や愚痴を言っている。時生がそれをいつも平気な顔を装って聞いていると、大抵、宵は最後に時生の肩に腕を回してこう言った。
「なんだかんだいって、結局トキオと一緒にいるのが一番落ち着くわ」
その一言がどれだけ時生を浮かれさせて、どれだけ傷つけるのかも知らないまま、宵はシトラスの香りを振り撒いて笑う。
羨ましいな。
宵が他の子と遊んだことに怒れることも、ヤキモチを堂々と表に出せることも、何もかも羨ましい。ただの友達の自分では許されないことを許されている宵の彼女の、何もかもが。
ただ笑い飛ばすことしかできない俺の恋の、なんと惨めなことだろう。
「宵?」
今日はビンタの憂さ晴らしにパーッと宅飲みしようぜ、と時生のアパートになだれ込んできた宵がベッドにもたれて動かなくなったことに気付いて、時生は半端に中身が残っている缶チューハイをテーブルに置いた。そっと躙り寄ると、宵の微かな寝息が聞こえてきた。アルコールで火照った頬に赤い一筋の小さな傷がある。ビンタをした彼女の爪が掠めたのだろう。時生は無造作に垂れる青みがかった前髪の隙間から宵の目を窺った。それがしっかりと閉じられているのを確認してから、そっと頬の傷に唇を寄せて――寸でのところで、思い留まった。
こんなことしてちゃダメだ。
寝てる相手にこんなこと。それもヘテロの友達に。
時生は軽く頭を振って酔いを覚まし、ベッドからタオルケットを手繰り寄せて宵に掛けた。すやすやと眠る宵を眺められるのは、宵が俺を友達として信頼してくれているからだ。その信頼を裏切ることはできない。したくない。
もう、これ以上、この恋を育ててはいけないのだ。
時生は宵を起こさぬように静かにベランダに出た。秋の冷たい夜風が首筋をひやりと撫でる。微かに光る遠い星を見上げて、時生は小さく息を吐いた。
「よし」
入力漏れなし。間違いもなし。
トンッ――『お申し込みが完了しました』
「……予約、しちゃった。はぁ〜……」
時生は二時間睨み合ったスマホを投げ出してベッドに寝転んだ。慣れないことをして疲れた。ものすごく。
「明日、楽しめるといいな……」
自分が同性愛者と自覚したのは小学生の頃だった。
友達はみんなどの女の子が可愛いだのどのアイドルが好きだのと盛り上がっているのに、時生はちっとも共感できなかった。それどころか、いつも目を引かれるのは同じ男の子で、はっきりと恋を自覚した相手もクラスで一番足が速い男の子だった。けれど同時に、『それ』は明かしてはいけないこともまた、わかっていた。みんなと違うことがバレたら仲間から外される。絶対に、知られてはいけない。
ずっとずっと、恋を隠して押し殺してきた。
だから、例え金でレンタルしたものだとしても、これが正真正銘、初めてのデートなのだ。
「こんにちは、はじめまして。トキ君……で、合ってる?」
「あ、は、はいっ!はじめまして、トキです。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね。ツキです」
「ツキ、さん」
「トキとツキ、似てんね」
時生が昨夜葛藤の末にレンタルをした彼氏――ツキは人懐っこく笑った。
ツキは、レンタル彼氏の店のホームページに掲載されている写真通りの整った顔立ちで、背が高い。歯並びがいい。色も白い。煙草は吸っていなさそう。ピンクグレージュの髪は派手だけど、彼の雰囲気によく似合っている。口調はゆっくりと穏やかで、少し低めの声が心地良い。
「今日はどうしよっか」
「えっと……お喋りメインとかでもいいですか?」
「もちろん。じゃ、とりあえずカフェとか入ろっか」
自然と繋いでくれた手のひらは大きくて、時生の心臓は一気に跳ねた。
そっか。この人には隠さなくていいんだ。手を繋いでもいいんだ。……泣きたくなるほど嬉しくて、安心して、時生はツキの骨張った手をやんわりと握り返した。
ツキの迷いのない足取りに連れてこられたカフェは大通りから一本裏に入ったところにあった。道路に面した壁は一面ガラス張りで明るく開放的だが、奥まった席は死角になっていて人目につきにくい。その慣れた誘導に、こういう時の定番の店なのだろうな、と察しがついた。
「いらっしゃいませ、ご注文お決まりでしたらお伺いします」
「俺アイスコーヒーで」
「俺は……カフェオレでお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
まだ出会って十五分。それがもう、手も繋いだし、カフェで向かい合って座ってるし、まさに怒涛の進展。己で招いた状況とはいえ、平常心ではいられない。
「緊張してる?」
そわそわしているのを気取られたのだろう。ツキの指摘に、時生は素直に頷いた。
「し、してます」
「敬語じゃなくていいよ。名前も呼び捨てでいいし。同じ歳くらいでしょ?」
「二十歳です。あ、二十歳だよ」
「俺の方が歳上だ。二十一」
ツキはやや垂れた目尻を和らげて笑った。切れ長の目の宵の笑い方とずいぶん違う。
とりとめもなく雑談しているうちにカフェオレとアイスコーヒーが運ばれてきた。緊張でいつもより乾く喉に甘いカフェオレが優しく流れ込む。
「トキ君ほんとに恋人いないの?こんなに可愛ければ、レンタル彼氏使う必要なんてないと思うけど」
おもむろにツキが言った。
時生は小さく笑顔を繕った。
「いるわけないよ。ずっとゲイだって隠して生きてきたんだから」
「そっか」ツキは短く、少し淋しげに頷いた。
言ってもいいかな。言ってもいいか。どうせ二時間だけの、魔法が解けたら二度と合わない人だ。
「……好きな人がいるんだ」
「うん」
「ごめんね、仮にもデートなのに、こんな話して」
「気にしないで。なんでも話して。全部聞くよ」
テーブルの上に置いていた手に、ツキの手が重なった。こんな時まで、この手が宵のものだったら、なんて考えてしまう。
「その人は人気者で、途切れなくいつも彼女がいるし、俺のことを友達として大切にしてくれてるから、俺も友達として側にいたいのに、たまに一線を越えたくなるんだ。感情のままに全部壊してしまいそうになる自分が怖くて、もう、この恋は忘れなきゃ、普通の友達にならなきゃダメだって思って……。その、とにかくその人以外でときめいて気持ちを忘れたくて、今回お店を利用させてもらいました」
「俺も身に覚えがあるよ。ノンケを好きになるのは、つらいよね」
同性愛者としての苦しみに、生まれて初めて、共感してもらえた。
ずっと誰にも言えなかった気持ちを吐露するだけで、こんなにも気持ちって軽くなるんだ。
「トキ君は素敵な人だよ。いつかきっと、幸せになれる」
「……そうだったらいいな」
時生の手を握るツキの手に力が籠もる。どうして、君の方が泣きそうな顔をしているんだろう。
カフェを出た後は、また手を繋いでブラブラと街を散策した。公園のベンチに並んで座ると、肩がちょっとだけ触れ合った。こういうさりげないスキンシップはさすがプロの彼氏だな、なんて感心しつつ、しっかりとときめかせてもらう。けれど、やっぱり最後は、これが宵だったらなと思ってしまって、まだまだこの恋を手放す道のりは長いと痛感した。
「今日はありがとう。とっても楽しかった」
「こちらこそありがとう」
別れ際、時生はお礼を言って、契約通りの金額を包んだ封筒をツキに手渡した。
これで短い仮初の恋はおしまい。
笑って別れて、あとはただの赤の他人――「?」
なかなか立ち去らないツキに、時生は首を傾げた。見送ろうと思ったけれど、これはもしかして自分が見送られるべきだっただろうか。それとも金銭の受渡しに何か不手際が……と時生が不安に駆られていると、唐突に、ツキの人差し指が時生の人差し指に絡まった。
「……また会いたい」
ツキが言う。たった指一本分の体温が、いやに熱い。
「今度は、お金抜きで」
リップサービスだ。
客を次に繋ぐための、世間にありふれた口説き文句だ。
そうわかっているのに、見つめてくる目に微塵も嘘がないように見えて、時生は何も言えなくなった。
*
リップサービスだろう、と思った最後の一言は本気だったらしい。
交換した個人の連絡先からメッセージが届いたのは翌日。再会したのは六日後。もちろん、金銭のやりとりはない。
「暁」
「え?」
「俺の本名」
映画の鑑賞後、唐突に明かされた名前と急激に縮まった距離感に驚きながら、時生はなんとか口を動かした。
「俺は時生……」
「トキオ。いい名前」
それから暁はいろいろなことを教えてくれた。時生とは違う大学の三年であること、レンタル彼氏はアルバイトであること、住まいは時生の最寄り駅から二駅離れたワンルームであること。
今日はレンタル彼氏でもなければ、もちろん本物の彼氏でもないので、手を繋ぐことはなかったけれど、暁はさよならの代わりにまたねと手を振ってくれた。ひらひらと泳ぐ指の長い手が、妙に印象的だった。
講義の合間、宵はこまめにスマホを操作している。どうやら無事、彼女とは仲直りをしたらしい。
「もう潮時かなーと思ったけど、別れたくないって泣かれてさ。俺も別に嫌いになったわけじゃないし、じゃあもうちょい続けよっかって」
「そうなんだ。仲直りできてよかったじゃん」
じくじくと胸が痛む。けれど、笑って、時生は言った。
宵はどちらかといえば恋愛に対して淡白なところがある。だが絶対に決定的な浮気はしないので、見切りをつけるタイミングが難しい。人一倍目立つ容姿も、彼女が彼を簡単に手放したくない要因に違いない。
でも、宵の良いところは、魅惑的な顔だけではなくて――
「トキオ、寝不足?」
「あ、うん。昨日レポートやってたら遅くなっちゃって」
「マジかー。じゃあ数分でも寝とけ、ほら」
「うわっ」
「時間になったら起こしてやるから」
時生の肩を抱き寄せて強制的に凭れかけさせた宵が笑う。
こうやって自然体で人を気遣える宵の優しさは出会った頃からずっと変わらない。だからいつまで経っても叶わぬ恋を引き摺って、抜け出せない。これは沼だ。底なし沼だ。
宵の香りと温もりに意識がとろけて、時生は瞬く間に眠りに落ちた。
「お、宵じゃん。今度の集まりさぁ」
「トキオが寝てるから静かにしろ」
「うおっと」
宵の横目に睨まれて、山口は慌てて口を噤んだ。時生の瞼が開かないことを確認してから、小声で続ける。
「トキオお疲れちゃん?夜遊びしたん?」
「お前と一緒にすんな」
「へーいへい……っとに、トキオに対して過保護だね〜、お前は。彼女より甘やかしてんじゃね?」
「それが悪いか?」
「もういっそ付き合えよ。そうしたらその分俺に女の子回ってくるし」
「お前がモテねぇのと俺は無関係だろ」
宵は山口に薄く笑う傍ら、肩に凭れて寝息を立てる時生の髪に指を絡めた。
*
地面に落ちた紅葉を転がす北風に、時生は思わず身震いした。ついこの間まで秋だったのに、気が付いたら冬がずいぶんと近づいていたらしい。
「服装間違えた……」
「曇ってきたからよけいに冷えるな」
「もう一枚羽織ってくればよかった」
薄手の長袖の上から腕を擦る時生を見て、宵は上着を脱ぐと、小さく震える肩にそれを掛けた。
「えっ」
「着てろよ」
「……でも宵が寒いじゃん」
「俺はお前より筋肉あるから平気なの。ほら、腕通せ」
宵は時生の腕を取ると、かいがいしくそれを袖に通してくれた。逆の腕も同じように通して、最後に上着のファスナーを一番上までしっかりと閉める。サイズがだぼだぼの上着に着られている時生を見て、宵はニッと口角を上げた。
「ほんと沼!」
暁と待ち合わせした居酒屋で、時生はぐっと酒を呷った。
この沼からいっこうに抜け出せない。なりふり構わず速やかかつ強引に脱出せねばならないというのに。
「トキオ君、そんな飲み方して大丈夫?」
「大丈夫……」
「お水飲む?」
暁の優しい声が沁みる。時生は涙が滲んだ目を擦った。
「俺、そんな優しくしてもらえる資格ないよ」
「そんなことない。俺はトキオ君だから優しくしたいの」
「だって、だって……俺は全然優しくできない。せっかく宵が彼女と仲直りしたのに心から喜べないんだ。建前だけの『よかったね』を言って、本心ではイヤだって思ってる。ほんとはちゃんと一緒に喜びたいのに、どうしてもできなくて、ツラい。それなのに優しくしてもらって浮かれちゃうし、どうしようもないよ。暁君にも甘えてこんな愚痴ばっかり……暁君ごめん。ごめんね」
「謝らないで。トキオ君は何も悪いことしてないんだから」
「ううぅ〜……」
情けなさからたまらず突っ伏してしまった時生の肩を、暁はそっと抱き込んだ。耳元で、もう一度優しい声が囁く。トキオ君は何も悪くないよ、と。
*
大学の空き時間、足りなくなったルーズリーフを買いに立ち寄ったコンビニの陳列棚にあったのは、いつだったか宵がハマっていると言っていたガムだった。きっと欲しがるだろうな。持っていってあげよう。渡したら、これこれ!って喜んでくれるはず。
時生はガムを一つ手に取り、宵を探して店内を見渡して――棚からコンドームの箱を取る彼の姿に足を止めた。
途端に、手にしたガムが虚しくなった。
現実を思い知らされる。
俺はこんなものしか宵と共有できない。
こんな些細なものしか……。
「お、トキオ。買うもの決まったか?」
「うん」
笑え。傷ついた顔をするな。
時生は本心とともにガムをルーズリーフの下に隠した。
ああ……惨めだ。
俺の恋は、本当に惨めだ。
――ブー ブー ブー
いつの間にか眠っていた。逃げるようにして帰ってきた真っ暗な部屋の中、床に放りっぱなしだったトートバッグから半分飛び出したスマホが震えて光っている。時生は蹲っていた布団からゾンビの如く腹這いで抜け出して腕を伸ばした。
光るスマホの画面には、暁の名前が表示されていた。
「もしもし……?」
『トキオ君、ごめんね急に。今大丈夫?』
「うん、大丈夫」時生は腫れぼったくなった重い目を押さえた。「何か用事?」
『ううん。ただトキオ君の声が聞きたくて』
孤独だった。
あのコンドームの箱は、もう開けられただろうか。宵が彼女と体温を分け合っているだろう夜、ひとり泣いている自分。俺はあの箱を開ける宵を見ることはない。あの箱の中身を使う熱っぽい宵を見ることはない。絶対にない。
こんな独りの夜に、暁の声はあまりにも優しすぎた。
「……暁君」
『トキオ君?……どうしたの?』
「独りでいたくないよ」
『今どこ?』ガサガサ、バタン、カンカンカン。暁の声の後ろに物音が響く。
「部屋にいる……」
『住所送って。すぐに行くから』
暁は嘘を吐かなかった。あっという間に駆け付けてくれた彼は泣き腫らした時生を見るなり抱き締めた。大きくて温かいぬくもりに、安堵と罪悪感がぐちゃぐちゃに混じって、わけのわからない涙が零れ落ちる。
「ごめん、俺また……」
「トキオ君は何も悪くないよ」
暁は痛みを吹き飛ばすおまじないみたいに優しく言った。
「俺がトキオ君を抱きしめたかったんだ。呼んでくれてありがとう」
時生の体を抱く暁の腕に力がこもる。時生もおずおずと、暁の背中に抱きついた。暁の体温が、力が、香りが、時生が独りではないと教えてくれる。
「俺も、ありがとう……」
「笑ってくれた」
暁の指が時生の口端を掠める。今更ながら、暁の顔との近さに羞恥心が湧いてきて、時生は頬を赤らめた。
「ねえ、今日はこのまま泊まっていい?」
「え、俺は全然いいけど……逆に、いいの?うちお客さん用の布団とかなくて……」
「二人でベッド使おうよ。朝までぎゅってしててあげる」
「えっ!?」
「大丈夫、それ以上は手出さないから」
「あ、いや、あの、別にそんな心配は……」
「してないの?……俺が言うのもなんだけど、心配した方がいいと思うよ?」
「もー!なんにもしないんでしょ!?」
「しないしない。でも全く意識されないのも寂しいなーと思って。……えいっ」
「うわっ」
暁に腕を引かれて、そのまま二人でベッドに雪崩れ込む。頭まで布団を被ると、子どもみたいに笑いあった。
「顔は出さないと苦しいって」
「いいじゃん。頭まで暖かいし。二人っきりの世界みたいで楽しいよ」
誰かが隣にいてくれることがこんなにも心強いのだと、時生は知らなかった。線が細く見える暁だけれど、くっついている体は厚みがあった。思い切って抱きついてみると、間髪入れずに抱き返された。
「おやすみ、トキオ君」
「……おやすみ、暁君」
暁はどうしてこんなに優しくしてくれるのか、訊きたかったけれど、訊けなかった。臆病な自分が、心底嫌になった。
夢を見た。
大きなハートを抱えていた。それはふかふかと柔らかくて温かかったけど、いたるところに傷がついていて、ぼろぼろだった。
もう捨てなくちゃ。
ずっと大事にしてきたけど、もうさよならしなくちゃ。
もう、いいよね。頑張ったね。
泣きながら、そっと、手放した。
ハートはゆっくりと浮かんでいって、はるか高く、消えていった。空っぽになった腕が寂しくて、涙が溢れた。でも、これでよかったんだ。
もう一度ハートが消えた頭上を見え上げて、気が付いた。なんだか辺りが赤っぽい。温かい何かが俺をすっぽりと包みこんでいる。
とても大きな、大きなハートが。
時生は目を覚ました。
「おはよう」
隣で、先に起きていた暁が笑う。
「おはよう」
はにかんで挨拶を返して、時生は暁の胸に額を摺り寄せた。
それから、暁と会う頻度はますます増えた。
暁はいつもにこにこと時生の悩みを聞いてくれるし、時生の気持ちに温かく寄り添ってくれた。そのうちに時生の恋の愚痴は減っていき、とりとめのない話題が増えた。笑い声が多くなり、いつしか隣にいる時間が自然になっていた。
「鍋食べたい」
初めて会ってから二ヶ月ほど経った十二月のある日の暁の一言により、時生は暁の部屋に招かれた。
駅に近いワンルームは隅に物が積まれてはいるが散らかっているというほどでもなく、パソコンが置かれたデスクにあるディヒューザーの甘い香りが微かに漂っている。グレーのカバーがかけられた布団は暁が抜けた痕跡を残したまま、枕元には建築関係の参考書が置きっぱなしになっていた。暁が建築を専攻していることは、三回目の食事の時に聞いている。
「白菜ってどのくらいに切るんだっけ」
「あ、俺がやろうか?」
「トキオ君料理できるの?」
「凝ったものはできないけど、基本的なものはできるよ。自炊そんな嫌いじゃないんだ」
「えら。俺いっつもコンビニで済ますか肉を焼き肉のタレで焼いて米の上に乗せて終わるよ」
「それもお手軽で美味しいよねぇ」
暁の部屋には土鍋も鍋敷きもなくて、その夜は材料を煮込んだ片手鍋を古雑誌の上に乗せることにした。向かい合ってつついた鍋は美味しくて、二人は揃って顔を綻ばせた。
「うま……染みる……」
「やっぱ冬は鍋だよね」
「今度は違う味でやってみようよ。それまでに土鍋買っとくから。あと鍋敷きも」
「あ、じゃあさ、次のはお餅も入れていい?」
「なにそれうまそう。楽しみ」
暁はつみれを頬張りながら満面の笑みを見せた。初めの頃は綺麗に笑うばかりだった暁だが、ここ最近は砕けた顔を見せてくれている。彼の新しい一面を見るたび、時生は嬉しくなった。
「もーすぐクリスマスだなぁ」
「あっちこっちにイルミネーションあるよね」
「プレゼント何にするかな。ヘタなもんあげると機嫌損ねるし、毎回悩むの苦痛だわ」
スマホを弄りながらぼやく宵の隣で、時生は不思議な心地でいた。
いつもは宵が彼女の話題を口にするたびに胸が苦しくなって、無理矢理笑顔を作ってみせていたのに、最近は自然と受け止めることができるようになっている。
――ようやく宵の『友達』になれたんだ。
よかった。心からそう思った。そして、それは、優しく寄り添って見守ってくれた暁のおかげだ。
「宵が悩んで選んだものなら、なんだって喜んでくれるよ」
「そうはいかねぇよ。……お前なら、そうなんだろうけど」
「え?」
宵は真面目な顔つきで呟いてから目を逸らし、もう一度時生を見た時にはからかう笑顔を浮かべていた。
「お前物欲ないからな。変なぬいぐるみあげても喜ぶだろ」
「まぁね。好きな人が俺のために選んでくれたのなら抱きしめて寝ちゃうかも」
冗談めかして返しながら、時生の脳裏には暁が浮かんでいた。レンタル彼氏を仕事にしているだけあってロマンチストな一面がある彼ならば、ぬいぐるみにアクセサリーを付けたり、花束を一緒に渡したりしそうだな。
「あげる相手がお前なら」
徐に呟かれた宵の一言に、時生はハッと我に返った。
「欲しいものなんて何個でも思いつくから悩みなんてしねえのにな」
宵の声は怖いくらい真剣だった。時生が返事を考え倦ねている間に宵はころっと笑顔になった。
「なあ、今日夜空いてる?飲み行かね」
「……え?あ、夜……は予定ある。ごめん」
今夜は暁と約束していた二回目の鍋の日だった。講義を終えてから、待ち合わせをしてスーパーで買い物をするのだ。
「最近忙しいんだな」
「そう……かな」
「前は絶対俺の誘い断らなかったのに」
だって、前は――宵に恋をしていて、一秒でも長く一緒にいたかったから、他にどんな予定があっても宵の誘いを優先していた。
でも普通の友達は、そんなことしないよね?
これが友達として一番正しい距離感でしょ?
「次は付き合えよ」
「うん、もちろん」
喉から溢れそうになった疑問を腹の底に抑えつけて、時生は頷いた。不満気な宵の手が時生の頭を撫でる。近づいた手首からシトラスの香りがする。微かに胸が擽ったくなったけれど――いつかのような胸の高鳴りは、もうなかった。
時生は人々が行き交うスクランブル交差点の信号の下で立ち尽くしていた。
信号が赤になり、青になり、人は止まって、人は進む。俺も進む。進んだんだ。宵への恋心に赤信号をかけて、ただの友達として歩む未来に進んだ。けれどあの時の宵は、どうしてあんなに寂しそうだったんだろう。
(俺達は……正しい道を進んでるんだよね)
「トキオ君」
青信号でさざめく人波の間から一際鮮やかなピンクグレージュがこちらへと歩み寄ってくる。片手を挙げた暁の笑顔が眩しくて、視界が煌めいた。
俺が選んで、進もうとする道の先にいるのは――。
「誰だよ、こいつ」
「え?」
突然肩を抱かれて驚いて振り向くと、宵がいた。眉間に皺を寄せ、眦をきつくつりあげて、暁を見据えている。どう見ても臨戦態勢な様子に、時生は慌てて宵を押し留めた。
「お、俺の友達だよ」
「見たことねえ顔だけど」
「君と面識がなきゃトキオ君と友達になっちゃダメなわけ?」
暁が宵の眼光に怯むことなく言い返す。宵の空気がますます険しくなる。ただでさえ冷たい十二月の空気が、どんどんと氷点下になっていく。
「それよりどうして宵がここにいるの?」
一触即発の緊張感をどうにかすべく、会話の方向転換を試みると、それまで暁を睨みつけていた宵の目がようやく時生に向いた。
「……たまたま通りがかった」
「そろそろいい?」
暁は時生の肩を抱く宵の手を払いのけると、すかさず時生の腰に腕を回して抱き寄せた。見上げた暁の顔は見たことがないくらいに冷淡だった。
「俺達予定があるから」
「あ?」
「俺達にかまってないで、君は彼女と楽しんでおいで」
暁の言葉に宵が怯んだ。その隙に、暁は時生を連れて歩き出す。その歩調は苛立っていたが、人通りのないところまで辿り着くと徐々に速度を落とし、やがて完全に止まった。
「暁君?」
「……ごめん、トキオ君。君の前であんなこと言うべきじゃなかった」
時生には、暁が何を言いたいのか、すぐにわかった。
時生は暁の正面に回り込んで彼の顔を覗き込んだ。暁の形のいい眉が歪んで眉間に皺を作り、唇は感情を堪えて固く結ばれていた。
「俺は大丈夫だよ。ほんとうに。もう大丈夫なんだ、暁君がいてくれたから」
時生は手を伸ばした。暁の頬に触れると、その表情から強張りが解けていく。
「もう宵は友達だよ」
「……じゃあ」
「うん」
「もう、俺がトキオ君に好きって言ってもいい?」
暁は祈るように目を伏せて、頬を包む時生の手に、自分の手を重ねた。
その温もりに、いつか夢で見た大きなハートを思い出して、時生はほろりと泣いた。
「俺に、言ってくれるの?」
「ずっと言いたかった」
暁は目を開けた。時生の目尻から転がり落ちる涙の粒を指先で拭う。
「初めて会った時から好きだった。生まれて初めて一目惚れした。会えば会うほど好きになった。でもトキオ君には好きな人がいたから……だから……言えなくて」
「待っててくれてありがとう。遅くなって、ごめん。俺も……暁君が好き」
「……キスしたいけど、部屋まで我慢する。その代わりもう一回これだけは言わせて」
暁は時生の耳に口元を近づけた。
「大好きだよ、トキオ君」
その日は人生で一番幸せな日になった。
初めて好きな人と両想いになって、一緒に美味しい鍋を作って食べて、同じベッドに寝た。暁は優しくて、時生の体を気遣って最後まではせず、お互いに触りあっただけだったけど、天にも昇る気持ちになった。
次の日は、やっぱり暁の方が先に目を覚ましていた。朝焼けにぼんやりと照らされた暁は幸せそうに微笑んでいる。
「おはよう、トキオ君」
「おはよう」
お互いに裸で目のやり場に困り、時生は枕に顔を伏せた。
「照れてるトキオ君かわいい」
「言わないで~!」
「かわいいかわいい」
――というのが、一時間前のやりとりである。
思いがけない急展開にすっかり舞い上がって大学の講義を忘れていた時生は、暁の部屋から全力疾走してくると、開始直前の講義室に滑り込み、最後尾の隅に座って息を切らした。
(う、浮かれすぎてた……)
今日はこの後二コマ空いている。その空き時間に一度アパートに戻って着替えをして、それから残りの講義に……。
ガタッ
隣の椅子が引かれた。そこに座ったのは不機嫌な顔をした宵だった。
昨日の宵と暁の諍いを思い出した時生の口が凍り付いた。
「はよ」
「お……はよう」
「昨日と同じ服着てる」
宵の指摘に血の気が引いた。
「あいつのとこ泊まったのか?」
「うん……ゴハン、一緒に食べてたら終電なくなっちゃって、それで……」咄嗟に誤魔化そうとした口が止まる。宵に嘘を吐きたくなかった。それに、暁との関係を後ろめたいもののように隠すことも、嫌だった。「……あの、さ。講義終わったら、話したいことある」
「ん」宵は短く頷いた。
せっかく間に合ったというのに、講義はほとんど頭に入ってこず、なんの実りもないまま終わってしまった。次々と周りの人々が席を立つ中、時生と宵は無言で座ったままだった。
先に立ったのは、腹を括った時生だった。
「あっちで、話そう」
「おう」
移動する間も会話はなかった。
無人の空き教室で、時生は宵に向かい合った。
「昨日の人、暁君っていって」
「……」
「今……付き合ってる。俺の彼氏」
言った。言ってしまった。時生は汗を握り締めた。
「黙っててごめん。俺、ゲイなんだ。ゲイでも……宵が気持ち悪くなかったら、これからも、友達でいてくれると、嬉しい」
もう好きな人ではないけれど、大切な友人であることに変わりはない。偽りがない、ありのままの気持ちへの反応が、怖い。宵は黙り込んでいる。壁の時計の針の音がいやに大きく聞こえていた。
「気持ち悪いとかはない」
沈黙を破って宵が言った。
「そんなことでお前と友達やめるつもりはない」
そうだ、宵は、こんな風にいつだって優しかった。
そんなところが大好きだったんだ。
「でもさ、友達だから言わせてもらうけど、そいつほんとに大丈夫か?」
「え……?」
「ずいぶん遊んでそうな見た目だったし。どういうきっかけで知り合ったわけ?」
「それは……」理由は、言わないでいいだろう。言ったところで、宵を困らせるだけだ。「俺が利用したレンタル彼氏が暁君で、それがきっかけ」
「は?レンタル彼氏?」
「うん……」
「それさあ、トキオには悪いけど、遊ばれてるんじゃねえの?」
「そんなことないよ!」
「そんなバイトしてるやつ信じられんのか?絶対って言いきれるのか?」
「言いきれるよ」
時生のきっぱりとした返事に、宵は小さく息を吐いた。
「……お前、」言いかけて、言葉を切る。前髪を掻き上げて、背中を向けた。「じゃあもういいわ。口出ししねえから」
「……心配してくれてありがとう、宵」
時生は宵の背中にぺこっと頭を下げた。
「あ、ごめん、俺一回アパート戻って着替えてくる」
「ああ」
「また後でね、宵」
時生の足音が遠ざかり、聞こえなくなっていく。
誰もいなくなった教室で、宵は壁に拳を殴りつけた。
「クソッ」
お前、俺を好きだったんじゃなかったのかよ――そんな惨めなことを言ってしまいそうだった。
いつもキラキラとした目で見てきた時生。いつも穏やかに相槌を打ってくれていた時生。一言声をかけてやれば、少し触れてやれば、それだけでとても嬉しそうにするのに、一生懸命気持ちを隠していた時生。……お前、酔って半分眠りかけていた俺に、キスをしようとしてただろ。
男なんて眼中になかったけど、時生ならいいと思った。惰性で付き合っている今の彼女と別れたら、付き合ってみてもいいと思っていた。時生なら、その時まで、待ってるだろうと……思っていたのだ。
「マヌケにもほどがあるだろ……」
すぐに言えばよかった。行動に移せばよかった。
「クソが……」
そうすればきっと、『今』が変わっていたのに。
アパートで着替えて大学に戻ると、すぐに宵がやってきた。
正直、あんなことを打ち明けたら多少なりとも距離ができることを覚悟していたが、宵はいつもと変わらない様子でとても気持ちが救われた。
「ありがとう」とこっそりお礼を言うと、宵は「……今度は俺が待つから」と呟いた。その言葉の真意がわからず訊ねたけれど、宵は時生の頬をこねくり回すだけで何も教えてくれなかった。
すべてが良い方向に進んでいた。
これから先は幸せしかないと思えるほど、すべてが。
「二十四日、会えないかな」
夜になって再び――今回はちゃんと着替えを持参して――暁のアパートへ行くと、上目遣いの暁にそう訊かれた。これまで恋人がいなかった時生でもわかる。クリスマスデートの申し込みだ。
「会える!会えます!」
「よかった」
夢にまで見た恋人とのクリスマスデート。何を着て行こう。そうだ、クリスマスプレゼントも用意しなきゃ。
「俺、昼間はちょっと用事があるから夜からでも……六時からでもいいかな?」
昼間。
用事。
クリスマスイブ。
『遊ばれてるんじゃねえの?』
宵の言葉が脳裏を過る。
遊ばれてるとは思わないけど……クリスマスなんて、レンタル彼氏にとって稼ぎ時なんじゃないか?
「トキオ君?」
「あっ、うん、いいよ。夜の六時ね」
「待ち合わせしようか。駅前で」
「うん」
作り笑いがうまくてよかったと、時生は心底思った。
暁とすごすようになって二か月、彼はアルバイトをしている素振りを一切見せなかった。だからすっかり頭から抜け落ちていたが、彼のアルバイトはレンタル彼氏なのだ。仕事であれば誰の彼氏にでもなる、そんな彼に時生も救われたし、その仕事を否定するつもりは、ない。
ないけれど。
でも。
「ツラいもんはツラい……」
十二月二十四日、クリスマスイブ。午後二時。晴れて恋人ができたというのに、時生はベッドに力なく横たわり枕を濡らしていた。
暁は今ごろどうしているのだろう。どこかの誰かと手を繋いでるのだろうか。初めて会った時、時生にそうしてくれたように、優しく触れているのだろうか。
仕事だとわかっているのに割り切れない、自分の心の狭さが憎い。
時生はしばらく憂鬱な気持ちのまま怠惰にすごしていたが、そのうちにのそのそと動き出した。今日のために買った真新しい服に着替えて、髪の毛をセットする。右から見ても左から見ても崩れていないよう丁寧に仕上げてから、これもまた新しい上着を羽織る。初めてのクリスマスデート、失敗したくない。鏡の前で笑顔を作る。ちゃんと笑ってすごそう。
時生はプレゼントを入れた紙袋を持って、部屋を出た。
まだかなり時間は早かったが、部屋でじっとしているよりは外で暁を待っていたかった。約束していた駅前はたくさんの人で混雑をしていた。時生と同じく相手を待っている人、二人で歩いている人、楽しそうにはしゃいでいる女性のグループ、ケーキの箱を片手に足早に通り過ぎるスーツの男性、みんなが思い思いのクリスマスイブを迎えようとしている。
やがて日が落ちると、イルミネーションが点灯した。そこかしこでスマホを掲げ、楽しそうな声が上がる。時生は去年のクリスマスイブを思い出した。彼女とデートをする宵を見送って、一人俯いて、イルミネーションを横切った。手を繋いで歩く道行くカップルが羨ましくて、目に涙を滲ませた。あの日を思えば、十分幸せじゃないか。
「トキオ君、待たせてごめん!」
駅の改札から、暁がロングコートをなびかせて走ってやってきた。
「お疲れさま、暁君」
「早くきたつもりだったのに……いつから待ってたの?……手が冷え切ってる」
駆け寄るなり、暁は時生の両手を握り締めた。
「暁君に早く会いたかったんだ」
一分でも早く会いたかった。一秒でも早く、見知らぬ誰かから取り戻したかった。
「……トキオ君、どうしたの?」
「え?」
「つらそうな顔してるよ」
笑っていたのに、暁はそう言った。時生の頬に指を滑らせて、深刻そうに眉根を寄せる。
「頬っぺたも冷たい。ずっと外で待ってたの?」
「……」
「何か、あった?」
笑顔の下に隠すのは得意だったのに、こんな風に優しく暴かれたら、もう、隠せない。
「……暁君が誰かとデートしてるんだと思ったら、俺、じっとしてられなくて」
我慢できなかった涙が目尻から零れ落ちた。
「仕事だって、わかってるのに」
聞き分けのない子どもじみた自分が恥ずかしかった。あきれられても仕方がない。でも、どうか、許してほしい。そう願って見上げた暁は――ぽかんと口を半開きにしてフリーズしていた。
「デート?」
「デート……」
「俺が?」
「暁君が……」
「誰かと?」
「誰かと……」
「仕事で?」
「仕事で……」
オウム返しを繰り返し、しばし呆然とした後、暁はハッと気が付いた。
「まさか俺がレンタル彼氏の仕事してきたと思ってる!?」
「え……違うの?」
「まさか!」
「え、だって、クリスマスに、用事があるって言ったから、てっきり……」
「あー、ごめん、言ってなくてごめん」
暁の己の失態を呪うように頭を掻きむしってから、時生に面と向かって謝った。
「もうレンタル彼氏のバイトはやってないんだ」
「そうなの!?」
「うん。トキオ君とデートした後すぐ辞めた」
「すぐ!?」
「だって、お店の規定でキャストはお客さんと個人的に連絡取れないから」
ひとまず座ろう、と暁に促され、二人は連れ立ってベンチに座った。温もりを分けあうように隙間なくくっついて、暁が語りだす。
「この前も言ったけど、俺、トキオ君に一目惚れだったから……デートが終わってすぐ、店に辞めるって連絡したよ。その後は予約が入ってた分だけ仕事して、全部終わらせたらきっぱり辞めた。俺の全部、トキオ君に使いたかったから」
「じゃあ、今日は……」
本当にただの用事だった、ということだ。だというのに、暁を疑って、一人でやきもきして――マヌケすぎる。バカみたいだ、いや、バカだ。マヌケな早とちりの大バカ野郎だ。
「今日の用事は、これ」
脳内で自分を罵倒していた時生の前に、暁が小さな箱を差し出した。
「これ、引き取ってきたんだ」
蓋を開けた箱の中には、シンプルなシルバーの指輪が嵌め込まれていた。暁はそれを摘まんで取ると、事態に追いつけず呆けている時生の右手の薬指に通した。
「指輪……」
「うん。……一応、ペアリング」
そう言って、暁はコートのポケットからもう一箱取り出した。
時生は箱を受け取り、開いた。時生の薬指に嵌る指輪とお揃いのものがそこにあった。時生はそれをそろそろと暁の右手の薬指に嵌めた。二つの指輪は、ぴったりと吸い付くようにそれぞれの指に納まった。
「重いよな……」暁はバツが悪そうに言った。「付き合ってすぐペアリングとか。でも、どうしてもこれをプレゼントしたくて」
「……重い」
「ごめん……」
「重くて、嬉しい」
時生が笑うと、暁も安堵したように微笑んだ。
「そう、俺、重いんだ。ほんとは、すごく。ついでにもう一個自白していい?」
「うん」
「指輪の内側に二人の名前刻印してもらってある」
手で半分隠された暁の頬が、耳が、赤くなっている。それがたまらなく可愛くて、時生は照れる彼氏を両手でめいっぱい抱き締めた。
この恋は、まだまだたくさんの幸せの予感で満ちている。




