嘘をつけない公爵令嬢は、それでも嘘をつくか?
目の前で、愛する王太子ルーカス・アーデルハイト殿下の命の灯が消えようとしていた。
「ノーラ……」
ルーカス殿下が私の名を呼んだ。
私の本名はエレオノーラ・アルヴェーンだが、殿下だけは私を「ノーラ」という愛称で呼ぶ。
「君と出会えて本当に良かった。君のおかげで、僕の人生はすばらしいものだった」
私は泣きたいのをこらえて、殿下に微笑みかけた。
「これからも、私は殿下と楽しい思い出をたくさん作りたいです」
殿下が寂しそうに、力なく微笑む。けれど、何も仰ってくださらない。
それを最後に目を閉じようとする殿下を見ていられず、私は立ち上がり、殿下の寝室を飛び出した。
医師や王妃陛下がルーカス殿下の名を必死で叫ぶ声が部屋から漏れてくる。
やっぱり、どうしても殿下には生きていてほしい。
——たとえ大切なものを失うとしても。
※
私は嘘が嫌いだった。
それは決して誠実でいたいとか、正直者でありたい、という美しい動機ではない。
小さい頃から、嘘をつくと、何か世界が歪んだようにひどく気分が悪くなり、激しい頭痛に吐き気を催すほどになった。
だから、私は嘘をつかなくなった。ただ自分が苦しい思いをしたくないがために。
そしてもう一つ、私にとって決定的な事件があり、それ以降、嘘をつかない、という決意はより強くなった。
あるとき、妹のリリアーナが公爵家の庭園で、何者かと密会しているのを目撃され、騒動となった。
そのとき、私は自室にいて、激しく扉をノックする音を聞いた。
驚いて扉を開けると、今にも泣きそうな顔をしたリリアーナがそこにいた。そのことにまた驚いて、慌てて妹を部屋に入れ、扉を閉めた。
「お姉様……。助けてください」
リリアーナはそう言って泣き出した。
「何があったの?」
「アーヴィン殿下に呼び出されて、お庭でお会いしたら、大騒ぎになってしまったんです……。私、何が何だかわからなくって……」
リリアーナは世間知らずで、人に騙されやすいところがあった。それがかわいらしくもあったのだが、たびたびこうした問題に巻き込まれることもあった。
そのとき、再び扉をノックする音がした。
「エレオノーラ、入るぞ」
お父様の声だった。そう言うや否や、扉が開いた。
「リリアーナ、やはりここだったか」
「お父様……」
リリアーナの顔が真っ青になった。
「リリアーナ、おまえ、なんてはしたないことをしてくれたのだ」
「違うのです。お父様。私はアーヴィン殿下に呼び出されただけで……」
「しかし、アーヴィン殿下の言い分は違うぞ。おまえにたぶらかされて、公爵家の屋敷にやって来たと……」
私は、アーヴィン殿下がどういうつもりなのかはわからなかったが、嘘をついていることはすぐにわかった。リリアーナはまだ幼く、考えが足りないところはあるが、そんな嘘をつくような娘ではない。
それに何より、私のかわいい妹が理不尽に責められることがいたたまれなかった。
「お父様……。違います。アーヴィン殿下とお会いしていたのは、私です。王家の一員として、有力貴族のアルヴェーン公爵家と結びつきを強めるために、私と無理やり婚約を取り付けようと、弱みを作ることが狙いのようですわ」
つい私の口からそんな嘘が出ていた。
するとすぐに頭痛が来た。頭痛は吐き気を催したが、私は唇を強く結んで耐えた。
私の頭に何かが流れてくる。
それは、今日起きた出来事の記憶だった。
公爵家の侍女から、アーヴィン殿下からの「今夜、公爵家の庭でお会いしたい」という伝言を受け取った。私は不審に思いながらも、夜、告げられた時間に屋敷の庭園に出た。
そこにアーヴィン殿下がおり、「ご招待ありがとう、エレオノーラさん」と言った。自分から呼び出しておいて何を言っているのだろう、と首を傾げると、そのとき、「何をされているのですか」と声がした。その声の主は公爵家の執事の一人だった。暗がりの中、私をリリアーナと間違えたのか、そもそも私が密会などすると思われていなかったのか、リリアーナが誤って疑われたのだった。
アーヴィン殿下は気づくと姿を消しており、私が部屋に戻ると、リリアーナが部屋にやって来たのだった。
そして、それが、私のもう一つの記憶となった。
「そうなのか? 確かにここのところ、王家からの接触は多くなってはいた。そういうことなのか……。リリアーナ、疑ってすまなかったな」
私の話を聞いて、お父様がリリアーナに謝った。子どもの頃から決して嘘をつかない私の言葉であれば、お父様も信用するのだ。
その後、アーヴィン殿下から、私に伝言を届けた王宮からの使者や、伝言を受けた侍女の証言も確認され、公爵家側に非がないことが認められた。
すべて私の嘘のとおりだった。
そのとき、私ははっきりと自分の特別な力を認識した。私の嘘には、その嘘のとおりに辻褄を合わせるように、世界を歪めてしまう力がある。
私は恐ろしくなり、二度と嘘をつくまい、と心に決めた。
※
気づくと、私は誠実で清廉な公爵令嬢として、社交界でも有名になっていた。
それは王家からの、アルヴェーン公爵家への覚えをよくし、改めて縁談の申し出が来た。それは第二王子アーヴィン殿下との縁談ではなく、王太子ルーカス殿下との縁談だった。
私はアーヴィン殿下が以前、私が嘘をつく前、リリアーナにしたことが忘れられず、王家に対して強い疑念を持っていたので、その縁談には乗り気ではなかった。
とはいえ、公爵家の立場もあるため、すぐにお断りをせず、回答を保留していた。
ある日、王太子ルーカス殿下が病に倒れたとの報せが公爵家に届いた。
縁談の話の返事はしていなかったものの、王太子が倒れたとあっては、私はお父様と、殿下のお見舞いに行かないわけにはいかなかった。
後から思うと、ルーカス殿下がこのとき倒れていなければ、結局縁談はお断りしていただろうと思う。
お父様と王宮を訪れ、ルーカス殿下の寝室に入ると、病床のルーカス殿下は苦しそうにしながら身を起こし、私たちを迎えた。殿下は、透き通った肌に整ったお顔の美青年だった。
「アルヴェーン公爵、わざわざお越しくださり、ありがとうございます。エレオノーラさんも来てくださったのですね。縁談の答えが来ないので、僕のことは嫌いなのかと思ったよ」
ルーカス殿下は、苦しみをこらえながらも笑顔を見せ、冗談っぽく私にそう言った。
「お会いしたこともないのに、好きも嫌いもないですわ」
私も思わずそんな答えをしてしまう。
「それもそうだね」
そう言ってルーカス殿下は笑った。とてもすてきな笑顔だった。
何だか、とてもお優しそうな方。それが私の最初のルーカス殿下の印象だった。
「とてもお美しいお方ですね。世間ではこの上なく誠実な方だとも伺っていますよ。何だかどうしても婚約していただきたくなりました」
ルーカス殿下はそんなことを言うので、何だか恥ずかしくなった。
「でしたら……もし殿下が、病に勝って、元気になられたら婚約をお受けします」
私の口からついそんな言葉が出た。
ルーカス殿下が驚いたように、目を見開いて私を見た。
「本当に?」
「私が嘘をつく者だと聞いたことがございますか?」
私が尋ねると、殿下は首を横に振った。
「何だか元気が出てきたよ」
殿下がそう言って笑顔を見せると、何だかおかしくて私も笑ってしまった。
それから、私はたびたびルーカス殿下を訪ねるようになった。
病床のルーカス殿下とおしゃべりして過ごすことがほとんどだったけれど、殿下はたくさん書物を読まれていて、とても博識で知性的な方で、やはりとてもお優しい方だとわかった。
殿下も私にとても楽しそうにお話し、私の話に耳を傾けてくださった。
そうしているうちに、ルーカス殿下は少しずつ元気になっていった。
やがて、王宮の庭園をお散歩できるようになり、王宮の外にも出られるようになり、公爵家にも訪ねて来られるようになった。
お茶会や夕食をともにし、ついには夜会にもいらっしゃるようになった。
夜会でルーカス殿下は私の手を取り、二人で踊った。
「こんなふうに踊ることができる日が来るなんて思ってもみなかったよ」
ルーカス殿下は笑顔で言うので、私は微笑んで応えた。
私も殿下と夜会で踊るなんてまるで夢みたいだと思った。
それよりも、私は踊るのに握った手にどきどきしてしまっていたのだけれど。
「君のおかげだ」
殿下はそう言うのだけれど、私こそ殿下のおかげで、自分の人生が美しく輝くようになったのだと思っていた。
その夜はあまりに楽しくて、いつまでもこの時間が続けばいいと思った。
そうして、私たちは二人でたくさんの思い出を作った。
王宮の医師は、ルーカス殿下の回復ぶりを、まるで奇跡だと言った。
「ノーラ」
ある夜会の後に、ルーカス殿下が帰宅しようとする私を呼び止めた。
その頃には、殿下は私のことを「ノーラ」と愛称で呼ぶようになっていた。
「何ですか、殿下」
「僕はこのとおりずいぶん元気になった」
「そうですわね。本当に良かったですわ」
私は心からそう思った。
「じゃあ、いいかな」
「何がです……?」
「君が言っていたことだよ……。その……婚約のこと……」
私が初めて殿下と出会ったときの約束を思い出した。
「……もちろんです。殿下」
殿下の顔が、瞬く間に笑顔になった。
私は恥ずかしくて顔が熱くなる。
「本当に? いや、君が嘘なんてつくわけがない」
こんな日が本当に来るなんて思ってもしなかった。私は愛するこの方と、一緒になれるのだ。そう思うと、心の底から喜びが湧き出てくるようだった。
けれど、一つだけ殿下に話しておくべきだと思った。今まで誰にも打ち明けたことのない私の秘密……。
もしかしたら殿下は気味悪がるかもしれない。
それでも、私は誠実でいたかった。そうでなければ、私は心の底から幸せになれると思えなかった。
「殿下、婚約の前に、一つだけ私の秘密を聞いてくださいませんか?」
殿下の笑顔が固まった。
「秘密? 決して嘘もつかない誠実な君に秘密なんてあるのかい?」
私は頷く。
「その『嘘をつかないこと』には理由があるのです」
「嘘をつかない理由? 嘘をつく理由ならいろいろありそうだけど、嘘をつかないことにも理由があるのかい?」
「はい……。私が嘘をつくと、その嘘のとおりに世界が歪んでしまうのです。辻褄を合わせるために、いろいろな事実が歪められるのです。その歪んだ記憶が頭に流れ込んでくると、ひどい頭痛と吐き気も催して……。それが嫌で嘘をつかなくなったのです。私は本当に誠実な人間、というわけではないのかもしれません」
それを聞いたルーカス殿下は一瞬真顔になり、次の瞬間には笑い出した。
私はその様子に呆気に取られた。
「どうされました? 荒唐無稽で、冗談だとお思いですか?」
「いや、君が嘘などつかないことはよく知っているから本当なんだろうけれど……。何というか、安心したんだ。僕たちの婚約を阻むような深刻な秘密ではなかったからね。あ、ごめん。きっとノーラにとってはずっと深刻な問題だったのだろう。でも、これからは僕もいるから大丈夫。もし嘘をつけなくて、辛いことがあれば、迷わず僕に相談してくれればいい」
「私のことを気味悪く思いませんか?」
「実を言うと、絶対に嘘をつかない人間なんて言われると、ちょっとだけ気味が悪くて信じられなかったけれど、それに理由があったなら納得だよ。むしろ君のことがもっと好きになった。それに、嘘をつかない奥様ほど信頼のおける者はいないだろう?」
そう言って、再び殿下は笑顔を見せた。
この方に出会えて本当に良かった、と私は思った。
世界でただ一人、殿下は私の秘密を知る方で、それすら受け入れてくれたのだ。
私はその夜を決して忘れまい、と思った。
※
私がルーカス殿下と正式に婚約し、幸せに溢れた日々を送る中、その知らせは突然にやって来た。
王太子ルーカス殿下の病が再発し、危篤。
天国にいた私は、一気に地獄に叩き落とされ、頭が真っ白になりながら、王宮に駆けつけた。
ルーカス殿下の寝室に急ぐ私を第二王子アーヴィン殿下が呼び止めた。
「もう長くはもたないと、王国でも指折りの医師が言っている。見舞ったところでもう無駄だ」
「生きている限り、望みはあります」
私はそう言って足を速めて去ろうとするが、アーヴィン殿下は後ろからも声を投げかけてくる。
「兄上は昔から病弱だ。一時、たまたま回復したところで、どうせすぐに死ぬ運命だったのだ。公爵家が王家とのつながりを保ちたいなら、俺と婚約した方がよかったのではないか?」
アーヴィン殿下は、こうして言い寄ってくることがたびたびあった。今、こんなときにまでこんなことを言ってくるとは思ってもみなかったけれど。
あのとき、私が嘘をつかなければ、アーヴィン殿下は私に執着することはなかったかもしれない。そうすれば、こんなことを言われることもなかったのかもしれない。
何よりも、そんなことを弟君に思われてしまうルーカス殿下が哀れだと思った。
嘘で世界を歪めてしまうと、人の心まで歪めてしまうのかもしれない。
やはりそれは間違っていることなのだと改めて思った。
※
ルーカス殿下が死ぬということに耐えられず、殿下の寝室から飛び出した私は、一つのことを考えていた。
「ルーカス殿下は……。もうだめなんでしょうか……?」
血相を変えて、部屋から出て来た私を見て、外にいた執事が尋ねた。
私はどう答えるべきか悩んだ。これまでの人生で、これほど質問の答えを迷ったことはなかった。
私が苦痛を覚えることなどどうでも良かった。
ルーカス殿下の病の苦しみをこの身に受けられると思えば、むしろ喜んでそうしたかった。
ただ、問題は肉体の苦しみではない。王太子ルーカス殿下との、大切な思い出が歪められ、失われると思うと、どうしようもなく辛く躊躇ってしまう。
けれど、躊躇している間にも、ルーカス殿下は死に向かわれているのだ。
私はその執事に向けて、口を開いた。
「そんなわけがないではないですか。昔からお体の健やかな王太子殿下が、ちょっと熱を出したくらいで、なぜ皆、こんなに騒がれるのでしょうか?」
その言葉が私の口から出た途端、頭痛とともに、記憶が頭に流れ込んでくる。
王都を行進するルーカス殿下を眺め、夜会で皆の視線を集めるルーカス殿下を、遠くから見ていた。
そして、その殿下からの縁談を断った私。
何よりも大切だった殿下との思い出は消え、婚約もなかったことになった。
※
「ちょっと熱を出したくらいで、騒がないでよ」
私がルーカス殿下の寝室に戻ると、殿下は王妃陛下に向けてそんなことを言っていた。
そして、私が部屋に入って来たことに気づく。
「おや、あなたは……?」
ルーカス殿下は私の顔も忘れてしまったようだった。
それはそうだ。ルーカス殿下はずっと健やかであったのだから、私が見舞いに来ることなどなかった。
今回は、殿下が重篤な病気になったかもしれないと聞いて来たのだが、ほんの軽い熱を出したに過ぎないはずだった。
「ああ、アルヴェーン公爵家の……」
「初めまして、ルーカス殿下」
私がそう声をかけると、ルーカス殿下は私に微笑みかけた。
「初めまして……。もしかして、エレオノーラ……さん」
私たちの大切な思い出は、この世からすべて失われてしまった。
この寝室でのたくさんのおしゃべりも、庭園のお散歩も、お茶会や食事会も、あの夜会で、二人で踊ったことも。あの婚約をした夜も。
ルーカス殿下は私のことをまじまじと見つめる。
「以前、縁談を断られたから、もう会えないかと思ったのだけれど、来てくださったのですね」
そう言って、殿下は、あのすてきな笑顔を見せた。
「何だか君とは初めて会った気がしないな。エレオノーラさん……。ノーラと呼んでいいかい?」
私の目から涙が自然と溢れてくる。
大切な思い出と引き換えに、あなたは生きてここにいてくださる。
「ごめん。何だか失礼だったね」
私は溢れる涙を抑えることができなかったが、同時に笑ってしまう。
「いえ、ぜひノーラとお呼びください。ルーカス殿下」
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