CHIMAIRA
我が家は平凡だった。
絵に描いたように優しい母親と、威厳を持った強い父親。そして、才色兼備で何でも器用にこなし、誰からも好かれる姉。
平和な住宅街の一角で、僕ら四人は暮らしていた。ごく一般的な家族。
その中にいる、異質な存在。それが僕だった。
目の前のことをどうにかすることで精一杯になって、他者を思いやることができない。感情が昂る度に周りの物へと当たってしまって、自分中心な考え方暴力者。そして何より、姉と違って汚い容姿と不出来な頭。
両親の悪い部分を集めて作った失敗作。姉の残り物で出来た怪物。
それが僕だ。
「あのお宅の弟くんは、どうしてあんなに悪い子に育ったのかしらね。」
「お姉さんの方は良く出来た子なのに、不思議だわ。」
近所を歩けば、非難の目線や陰口が僕に纏わりつく。僕はずっと、優秀で綺麗な姉と対比させられていた。それが本当に苦痛だった。何故なら、彼らの吐いた言葉が全て、僕の心を抉るから。
両親は初めから、僕に期待なんてしていなかったと思う。特に父。最期まで父は、僕に対して期待どころか興味すら持っていなかった。父は、姉を誰よりも溺愛していた。姉の欲しがる物、全てを与えた。そして僕をいない物として扱った。僕には、誕生日を祝われた記憶すらない。誰もが主役になれる、年に一回の特別な日なのに。
「またテストで先生から褒められたんだってな。流石、俺の自慢の娘だなあ。」
「それに比べて、アンタって子は。もう少しお姉ちゃんを見習ってほしいわね。」
姉が父に褒められると、僕は自分事のようにとても嬉しくなって、けれどもその度、母からの溜息混じりの皮肉が僕の身に冷たく降りかかる。
母はまだ、僕に興味を持ってくれていたのだろうか。少なくとも、僕はそう信じていた。母の中には、僅かながら希望が見えた、そんな気がしたから。だから僕は架空の期待に応えようと、躍起になって頑張った。結果、空回ってしまった僕は、間違えた方向に努力をして、挙げ句の果てには大罪を犯した。
ああ、きっと母も僕を見捨てたのだろう。
「いつまでそこに立っている。」
冷たい眼差しの両親が、僕を見下している気がした。いつまで経っても、抉られた心の苦しみが、殴られた身体中の痛みが消えてくれない。
僕は彼らを見下ろしながら、大切な人のことを思い出していた。
暗い日々の中、唯一僕を照らしてくれた光があった。姉だ。
姉は、とても素晴らしい完璧な人間だった。自身の美貌を振りかざし驕ることなく、万物に隔てなく平等に接し、その上努力家で常に向上心を忘れない。
姉に嫉妬する奴らは姉を「八方美人」と揶揄した。
けれど彼女は僕にとって、確かに「良い人」であった。僕と違って、「良い人」であった。勿論、姉と自分を比べられ、嫌な思いをしていたのは事実である。しかしその度に、姉の「良い人」さが際立つことが、僕はとてつもなく嬉しかった。
僕は昔から社交性に乏しく、仲の良い友達がなかなか作れなかった。小学校ではいつも独りぼっち。たまに話しかけてくれる子はいたが、やはり上手く馴染めなくて話すことがなくなる。そうして次第に、僕の周りには誰も寄り付かなくなり、僕はまた独りぼっち。
そんな僕を見かねたのだろう。姉は、わざわざ同級生の輪から抜け出し、一緒に校庭の隅で遊んでくれるようになった。遊びと言っても、花壇の水やりや飼育小屋の掃除、時々図書館で本を読むくらいではあったが、僕にはそれで十分過ぎた。他者と分かり合えない僕が、共に時間を過ごせる相手は姉しかいない。そんな姉は、学校の人気者。傍目でクラスメイトを見、優越感に浸る。僕には優しくて綺麗なお姉ちゃんがいるのだ、お前らがどんなに望んでも得られない程素晴らしい姉がいるのだ、と。
僕がクラスメイトから虐められて困っていた時も、姉は颯爽と僕たちの前に現れて、一瞬で僕を助けてくれた。
「お前なんか、死んじまえ。」
集団による無視や陰湿な噂話も、最初から全部なかったことにしてくれた。学校に行きたくなくて泣いた日も、姉がいたから毎日通えた。姉が僕を守ってくれたから、日々を生きられたのだと思う。姉は、僕にとってヒーローのような存在だった。
姉の行動は、全て僕への同情だったのかも知れない。それでも尚、僕は嬉しいと思ってしまう。姉と一緒に居た時間は、いつだって輝きに満ちていたから。
そんな平和な日々も、そう長くは続かなかった。
姉は持ち前の頭脳で、県内トップの高校に首席で合格をしたのだ。両親は姉が誇らしいと喜び、幸せそうな表情を浮かべていた。我が家にとって、一番めでたい出来事だった。僕以外の家族にとっては。
姉と、離れ離れになる。漠然とした不安感が、僕を襲う。
今までの小中学校は、家から徒歩十分程度の距離に隣接していた。だから姉が先に中学校へ進学してしまっても、大して差はなかった。窓の外を見れば、姉が側にいる感覚になれたから。
では、姉が次の春から通うことになる学校は?
もう一緒に登校することは難しくなるだろう。朝起きる時間も変わってくるだろう。部活も本格的にやり始めて、放課後は友人と出かけたりして帰りも遅くなる。僕に構っていられる時間なんて、殆どなくなってしまうだろう。
僕の不安を読み取ったのか、姉が僕の方にやって来て言う。両親にも聞こえるような、大きな声で。
「何かあったら、ちゃんと私に相談してね。いつだって私は味方だから。だから、絶対に無理しちゃ駄目だよ。」
ああ、姉はどんな時だって僕を気にかけてくれる。お姉ちゃんはどうしてこんなに格好良いのだろう。どうしていつも僕の味方でいてくれるのだろう。
真っ暗だった目の前に、一筋の光が差したような気持ちになった。
僕は最低な弟だから、姉の不合格を心の底から祈ってしまった。姉が合格したと分かった時も、僕は素直に「おめでとう。」が言えなかった。
姉はやっぱり「良い人」だ。
ずっと僕の存在を無視し続けている父や、蔑んだ目で僕を見つめる母と違って。
しかし、僕には姉のいない毎日は難しかった。守ってくれる人が隣にいないだけで、僕は生きる意味を失ったような感覚に陥ってしまった。弱い弟。
僕が学校に行きたくない、と初めて溢した時に母が言った。
「アンタはお姉ちゃんや、他の子たちと違って頭が良くないの。だから、せめて学校にだけは行きなさい。でないと、このまま社会に出ることになって、痛い目を見るのはアンタなんだからね。」
母は、あの時と同じ目を僕に向けている。まるで、姉に纏わりつく寄生虫を眺めているかのような、恐ろしい目。
父は相変わらず僕を見ない。どうしてそんなに、僕を見ない?
あれから何度、春を迎えただろう。
姉はもうとっくに高校を卒業して、第一志望だった一流大学で立派に学んでいる。医者だったか弁護士だったか、何を目指しているって言っていたのか、もう忘れてしまったけれど、とにかく姉は頭の良い学部に進学した。毎日姉は、朝早くから講義を受けて、夜遅くまで研究をしていた。
一方、僕は。
一度学校を休んでしまうと、二度と外に出られなくなった。そんな僕は今日もまた、部屋に一人籠って、誰とも顔を合わせない日常を送っていた。
叱られた後に僕を慰めてくれて、僕が泣いたらそっとハンカチを差し出してくれた。僕のことを決して悪く言わず、いつも気にかけてくれた、大切な姉。
姉にすら、会えない。
僕はどこにも行けない。
「あの家の弟は、素行が悪くて嫌になっちゃうわ。」
「今、学校に行けてないって息子から聞いたわよ。ほら、周りに馴染めなくて浮いているらしいの。」
「いつまで学校を休むつもりなの?」
「お前なんか、死んじまえ。」
「アンタはただでさえ馬鹿なんだから、言うこと聞いてくれないと困るわよ。世間体だってあるのに。」
「お姉さんが可哀想だわ。」
僕が誰とも話せなくなった日、部屋から出られなくなった日、僕は人間になろうとすることを諦めた。諦めざるを得なかった。
『怪物』
こんな僕にも一つだけ、家族の良い思い出というものがある。
それはまだ僕が幼くて、僕ら家族がまだ平凡だった頃の話。
昔一度だけ、皆で海へ出かけたことがあった。家からは遠く離れた場所にあるその浜辺に、僕は非日常の物珍しさを感じて気持ちが昂まっていた。エメラルドグリーンに輝く海は、とても静かに凪いでいて、美しい空の模様を映し出していた。僕はその光景に魅了されて、砂浜から一歩も動けなくなってしまった。
「綺麗だな。」
すると父が後ろからやって来て、僕の頭を大きな片手で包み込み、「なんだ、この海がそんなに気に入ったか。」と僕に話しかける。母が傘の作った日陰の中から「あんなに海を眺めて、どうしたのかしら?」と声をかけて来て、僕は振り返る。父は「こいつは海が好きみたいだ。」と笑って答えながら母の方に踵を返す。
僕の隣には姉がちょこんと座っていて、退屈そうに砂を弄っていた。
「きれいだね。」
僕が呟くと、姉は海を一瞥して
「そう。」
と姉が雑に返す。
海からの反射光に照らされた姉の横顔が、奇妙なくらい美しく見えた。
どれほどの時間を、姉の隣に立って過ごしていただろうか。気がつけば太陽は傾き始め、両親が僕らを呼ぶ声がした。僕らは声のする方へ、必死で砂浜を駆け抜けた。途中で転びそうになった姉の腕を、間一髪で僕が掴む。そして両親の腕に飛び込んで、父と母は僕らを、目一杯抱きしめた。
かつて僕らは、確かに幸せだった。
何故両親は僕に冷たくなったのか、周りから他人が消えてしまったのか、ハッキリと僕は覚えていない。いつからこんな目に遭っているのか、僕には分からない。姉が僕に優しくする理由も。何もかも。どうしても記憶が曖昧で。
僕の成長が周りの子よりも遅いと分かった時だろうか。簡単な足し算引き算が全く解けなかった時だろうか。授業に集中できないから、皆とは違う教室で勉強することが決まった時だろうか。
いや違う。
僕が弱いばっかりに虐められて、お姉ちゃんに迷惑をかけた時か、学校に行きたくないって、我儘言ってお母さんを困らせた時か、お父さんの大事にしていた物を、暴れて壊してしまった時か。
それとも、学校のウサギを殺してしまった時か?
「お姉ちゃんは、なんでそんなに強くてかっこいいの?」
僕は姉に投げかける。ああ、これは夢なのだと、すぐに理解する。
それは僕が現実世界で、姉に聞きたくて聞きたくて、でもどうしても聞けなかった質問だった。
「それはね、アンタから自分の身を守るためよ。」
夢の中の姉は、険しい表情をしていた。どこか遠くを眺めているその瞳には、あの時の海が映り込んでいた。
目の前の言葉は本音か、建前か。
「どうして僕の味方なんかするの?」
僕は声を絞り出す。
目の前の姉と、母親とが重なり合う。
「それはね、アンタが心底嫌いで、怖いからよ!」
僕にとって最悪の夢は、姉の怒号とともに終わりを告げた。
夢の中の姉はようやく僕の方を向いて、
「アンタなんか、死んじまえ。」
姉が死んだのは、普通の日の朝だった。
自殺だった。
自分の部屋で、首吊りをしたらしい。小さな窓枠に、細いマフラーを括って。しかも、死んでからもう何日も経っているって話。
何で死んでしまったの?
隣の部屋に篭っていたくせに、何ですぐ気づかなかったのか。沢山の事を一気に警察にも親戚にも問い詰められて。
僕に何を尋ねたって無駄なのに。
「お前が彼女を追い詰めたんだ。」
「お前さえいなかったら今頃あの子は……。」
「どうせお前が殺したんだろう。」
「死んだのが姉じゃなくて、弟の方だったら良かったのにな。」
「最低の、人殺し。」
ああ、僕はいよいよ本格的にこの地で暮らせなくなってきた。
他人の罵倒が怖いから?
人殺しと呼ばれるのが嫌だから?
僕に何を言ったって無駄なのに。
だって今の僕はもう、人間じゃなくて、『怪物』になったのだから。
姉からの最後のプレゼントを噛み締めて、僕は思う。
さあ、どこへ行こうか。脳裏にあの波の音が響いた。
◆ ◆ ◆
私の弟は昔から鈍臭くて、周りの皆よりも少し成長がゆっくりだから、私が守ってあげなくてはならないのだ、とずっと思っていました。彼はお世辞にもお利口な子供とは言えず、その気難しい性格のせいか、対人トラブルに巻き込まれてしまうことも多々ありまして、昔からかなり手を焼かされた記憶があります。
そんな弟にも、一つだけ他人より秀でているものがありました。
「観察眼」
彼は、自分が気になった物や気に入った人物を人一倍観察し、対象の長所を見つけることにとても長けていました。
私が弟の能力に気づいたのは確か、彼が小学生に上がったばかりの頃。あの頃の彼は、私が甘やかしすぎたせいでしょうか、極度の人見知りで友達も出来ず、休み時間はずっと一人で過ごしていました。始めは弟の成長を想って、あえて話しかけたりはしませんでした。しかし、私は駄目な姉ですね。一人寂しそうに花に水をやる弟を見て、つい弟の元へ行ってしまいました。周りの制止を振り切って。
それからというもの、私たち姉弟は毎日一緒に休み時間を過ごすようになりました。
考えてみれば、この時に結末は決まっていたのかもしれません。
二人で過ごすうちに、私は彼の行動に違和感を覚えるようになりました。私の弟は、簡単な足し算も出来ない程勉強が苦手です。じっと机に向かって文字を書くことすら難しい。それなのに彼は、自分が興味を持った植物や動物について、とても詳しく話すのです。私も知らないような、専門用語さえ出てくることも。自分の好きなものについて熱く語る弟の目は、今まで見たことがないほど生き生きとしていました。
弟が特に気に入ったのが、小学校の裏にある飼育小屋の、小さくて茶色い斑点模様のウサギでした。
彼は毎日のようにウサギに会いに行って、餌やりから掃除まで勝手にやって、何度も先生に怒られていました。怒られると、弟は大泣きして大暴れして。
「ウサギさんがおなかすいてるって言ってたんだもん!」
「お家が汚いと、ウサギさんがかわいそうだよ!」
私のような普通の人間からすると、何の変哲もないいつも通りのウサギ。でも、彼の目から見るウサギは、毎日何かしら違うようで。
とうとう先生の方が折れて、弟は特別にウサギ小屋へ入る権利を得ました。それからというもの彼は、私が嫉妬するほどにウサギに熱中するようになりました。
その執念深さにも驚きましたが、私は彼のウサギに対する「観察眼」に脱帽しました。
そこでふと、昔家族で沖縄へ行った時のことを思い出しました。
あの時、美しいエメラルドグリーンの海に見惚れていた弟も、まったく同じ目をしていた、ということを。砂に足を取られた私を、救ったその手を。
両親は、担任の先生からの「お宅のお子さんは、周りの子に比べて成長が遅い。」という説明に落胆していました。
そこで、私は気づいたことを両親に説明しました。弟は決して頭が良くないのではない、興味があるものに対しては尋常じゃない記憶力を発揮するのだ。他の子と同じ学び方では一向に芽が出ない、だから弟が特別支援学級で学ぶことが出来るようにしてくれ。
何度も両親や学校側へ伝えました。
始め、両親は自分たちの息子が自分たちと同じでないことを認めたがりませんでした。しかし私の必死の説得の結果、両親が折れ、弟は自分のペースに合った方法で勉強出来るようになりました。
まだ上手く文字の読めない弟の為に、私は図書館で図鑑を読み聞かせしてあげるようになりました。ニコニコと嬉しそうに聞く弟の笑顔が、何より大好きでした。
そんなある日、私が弟の教室にお迎えに行くと、弟が泣いていました。
「どうしたの?」
「何かあったの?」
何を尋ねても答えません。首を振って「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」と自分に言い聞かせるように。
ただ、私には聞こえてしまったのです。クラスメイトの、弟に対する悪口が。
どうしても、許せませんでした。
悪口の大半が根も葉もない噂のようなものでしたが、私は弟のことになると理性が効かなくなるようで、コイツらをいつか殺してやろう、と決意しました。
弟には、なるべく部外者でいて欲しかったのです。だから、弟が飼育小屋のウサギに夢中になっている間にやろうと思いました。
人目の少ない場所に呼び出し、カッターナイフで刺し殺す。
しかし、いざ決行となった瞬間、私は子供一人の力じゃ達成不可能だと悟り、この計画は白紙に戻りました。小学生が集まるような場所に、大人が居ないわけがありません。
すると、飼育小屋の方から弟の悲鳴が聞こえてきたのです。
また誰かに虐められたのか?
私は不安になりました。とても頭が混乱していました。あまりに取り乱していた私は、右手に持ったままのカッターナイフに気がつきませんでした。
急いで飼育小屋に入った私は、弟の正面にいる相手が誰だかなんて気にもせず、ただ弟を守りたい一心で、その手を振り下ろしました。何度も、叫びながら。
あの、肉を切り裂く感覚を、今でも鮮明に覚えています。
右手には血塗れのカッターナイフ、私が守ろうとした弟は私の背中を涙で濡らし、二人の目の前には真っ赤に染まったウサギがありました。
私はその時、人間だったら、と思っている自分に気がつきました。よりによって、弟の一番のお気に入りを、姉である私が殺した? 大切な人の大切な存在を奪った、私は何者?
呼吸が荒くなりました。
「どうしよう、どうしたら良いんだろう。」
弟の方を向き、強く抱きしめました。何度も謝りながら。許されないことを、悟りながら。
平和な住宅街にある小学校の、小さな飼育小屋にて、罪深き泣き声が響き渡っていました。
弟はただ、ウサギに引っ掻かれて驚いただけでした。それを聞いた私は、安心してしまいました。私が殺してしまったウサギは、弟を害した罰せられるに値するアイツらと、同等の存在だった事に。
幸い、弟の傷は酷くはなりませんでした。
私はちゃんと全てを自供しました。弟の悲鳴が聞こえ駆けつけたところ、たまたま図工の為に持って来ていたカッターナイフで切りつけてしまった。殺意はなかった、と。
それを聞いた先生は、私を指差して言いました。
「あなたのような優秀な生徒が、こんな凶悪なことを平気で出来るわけありません。大事にはしないから、ちゃんと本当のことを言いなさい。本当は、弟を庇っているんでしょう?」
その時、この人の中ではもう物語が出来てしまっているのだな、と私は思いました。何回説明しても、何故だか毎回矛先が弟に向いてしまう。
加えて、弟本人が事件のショックから事件直前から直後までの記憶を失っているという好条件が、世間の考察を熱くする。
子供一人では、大勢の大人たちに到底太刀打ちすることはできませんでした。
そしてこの日を境に、私たち家族はバラバラになったのです。
私は今まで以上に弟に気をかけるようになりました。私は味方だ、ということを証明したかったのです。孤立した弟を守りたい。そして何より、今更弟の記憶が戻って、私が弟と同じ目に遭うのが恐ろしかった。
弟に対する罪悪感と畏怖が、私を毎晩襲いました。
次第に、彼の側にいる事が辛くなりました。
もう、この罪から逃れたい。出来ることなら一人きりで、罪を償いたい。
わざと私は、自宅から最も遠い高校を選びました。弟と顔を合わせさえしなければ、私の罪を思い出すことがなくなる、そう思いました。
けれど、それは大きな間違いでした。
姉弟の距離が広がっていく毎、私たちから現実味が遠ざかっていくのです。
弟は、学校に行けなくなりました。毎日隣の部屋からは鼻をすする音が聞こえてきました。
私は、罪の意識が大きくなりました。ウサギの死んだ表情が、私の脳裏に焼き付いて消えませんでした。
まるで化け物を見るかのような瞳、涙に溺れた弟の顔が、毎晩私の枕元に立って、訴えるのです。「お前は何者だ。」と。
そして、あの事件が起きました。
ある年の春、大学から帰宅した私は、家の中の悲惨な有様を見て、とても嫌な予感がしました。ああ、遂に私の番がやって来たのだ。今度こそ、私が役に立つ番だ、と。
リビングの真ん中で、私が殺したウサギのように、身体を赤く染めた弟が立っていました。そして私に向かって指を差し、
「怪物。」
とだけ、呟きました。
なんだか救われた気がしました。
私はずっと、自分が『怪物』であることを認めたかったのかもしれません。
その日、私は首を吊りました。精一杯の愛を遺書に込めて。大好きな弟の、幸せそうな寝息を壁越しに聞きながら。
私から貴方にできる、最期のプレゼント。
◆ ◆ ◆
姉の遺書は、僕の部屋の扉と床の隙間に挟まれていた。遺書にしては長文で、内容の殆どが僕への懺悔だった。
姉がウサギを誤って殺してしまったこと、それが弟の罪になってしまったこと、自分が死ぬことを選んだ理由と、両親を殺した経緯を書き留めて。
姉は、僕の身に起きる全ての不幸を、自分と両親のせいだと責めていた。冤罪、軽蔑、無視、暴力、父と母から被ったこれらが、僕を不幸せにしたのだ。そしてこれらを生んでしまったのが、姉自身だ、と。
最後の一文に、僕は涙を流した。
最期の日、僕は姉に『怪物』だと言った。その時の姉は、幸福に満ちた、今まで以上に美しい表情をしていた。久しぶりに見たけれど、やはり姉は綺麗な人だ。
いつでも僕を最優先に考えてくれ、図鑑を読み聞かせしてくれる端麗な姉。癇癪を起こして暴れた僕を、それでも尚抱き締めてくれる優しい姉。僕の罪も姉の罪も、全て抱えて海へ沈んだ「良い人」の姉。
だから僕は悲しかった。だって僕は、自分が不幸だなんて、一度も思ったことがなかったのだから。
僕には、強くてかっこいい姉がいるんだもの。
あの日、父と母の喧嘩する声が部屋の外から聞こえてきた。僕は父の怒号を、母の泣き声を自分のせいだと感じ、混乱し、激昂し、暴れた。たったそれだけ。
「お前の教育が悪いから、アイツは駄目になったんだ!」
「お父さんだって、事件の後からアノコとまともに話せていないじゃない!」
両親の言い争いが近所中に響き渡る。
僕は、何ともやるせない気持ちになった。恥ずかしくも悲しくも辛くもない。全てを壊して、終わらせたい欲求に駆られた。全てなくなったら、また一からやり直せるのかな、なんて考えて。
数年ぶりの部屋の外は、記憶に残る世界よりも淀んでいた。扉が重い音を鳴らして、随分と長い時間を、部屋の中で過ごしたのだと実感する。
リビングに向かうと、白髪と皺が増えた両親が驚いたようにこちらを見た。両親は普通の人間と同じ様に老けてしまうという事実に、僕は少し寂しさを覚えた。
その後は一瞬の出来事だった。背中に隠し持っていたカッターナイフを振りかざし、怯え逃げる父を僕は執拗に殴りつけた。ウサギを殺した時と、同じカッターナイフで。
「やめろ、その刃物を置け。近づくな、怪物め!」
「最期までお父さんは、僕のことを無視するの?」
「無視していない、何話せばいいのかなんて分からない。だってお前は、普通の子じゃないんだから!」
「僕を見て、僕の目をちゃんと見て。僕は今、普通の人間? それとも、怪物?」
返事を求めて、僕は殴った。
母が部屋の片隅で「アンタなんか産まなきゃよかった。人殺し。そう、アンタは怪物だわ!」と泣き喚く姿が見えた。
動かなくなっても、僕は父を殴った。父に今まで殴られたのと同じ分だけ、痛い思いをして欲しかった。僕はとても痛かったのだ、と伝えたかった。僕はここに、目の前にちゃんと存在しているよ、と。
こういう時の母は決まって、見て見ぬふりを決め込んだ。僕は母からの助けが欲しかった。
原型のなくなった父を捨て、母の方を振り返る。
「お母さん、お母さんはお父さんと違って、僕を見てくれていたよね。愛してくれていたんだよね。」
いつの間にか僕の両手は、母の首を絞めていた。
「僕は怪物だって、お母さんが僕に言ったから。僕はちゃんと、怪物になるよ。今まで期待に応えられなくてごめんね。何にもできない僕だけど、僕なりにお母さんの為に頑張っているんだ。だから最期くらい、一度でいいから、僕の名前を呼んでよ。」
僕の目からは涙が溢れて、母の頬に落ちた。そこでようやく僕は、母が泡を吹いているのに気がついた。
「ごめんね、愛してあげられなくて。」
そう呟いた母の身体から、力が抜けた。母がただの肉塊に変わり果てても、僕は泣いて泣いて、神様に懇願し続けた。
僕を見て、僕を愛して。
僕は普通だよって、誰か言って。
夜が更けた。
玄関の扉が開く音がして、僕は正気に戻った。姉が帰ってきた。
リビングに近付く姉の足音。僕はこの殺人が発覚する事ではなく、姉に恐れ慄かれる事を心配した。怪物になってしまった僕を見て、姉が僕を嫌いになってしまわないか。それだけが不安だった。
でも、逃げるつもりは全くなかった。
引き戸の蝶番が軋む。姉が、まるで愛おしいものを眺めるように、僕を見つめる。
少し大人びてしまった姉の顔を見た瞬間、僕は初めて安心感を覚えた。懐かしい、優しい目線。独りじゃないという事実が、初めて僕を人間にしてくれた。そんな気がした。
二人の間に、海風が吹いた。
僕は姉を指差し、言う。
「怪物。」
二人で微笑み合ったあの季節を、僕は決して忘れたくない。
少年は、懐かしい海を一人で眺めていた。
そんな少年の隣を、少女の影が寄り添うように立つ。
「僕は、どうしたらいいのかな。」
少年は少女に尋ねる。
少女は答えない。
「私たちは、怪物だったのかな。」
少女は少年に聞き返す。
少年は答えない。
けれど、二人の表情は心なしか、穏やかで幸せそうだった。
弟を純粋に愛し、最期まで守り抜いた立派な姉は、怪物だったのだろうか。
無力な少年の悪足掻きで、大罪を犯してしまった僕こそが、怪物なのだろうか。
いや、違う。
僕らは平凡な家庭に産まれた一般的な人間で、決して怪物ではない。他人から、世間から蔑まれて良い存在なんかではない。
そう、ただの人間だったのだ。
少女は次第に、海へと溶けて消えていく。
少年は踵を返し、そして颯爽と海から立ち去った。
独りぼっちの『怪物』の泣き声だけが、砂浜に残っていた。
さあ、どこへ行こうか。




