宇宙の碕に腰かけて
(ああ、まただ……)
麗しいロングの黒髪をかき上げつつ、クールな表情で電話をしている女性がいる。
彼女は、抜けるほど白い肌、赤い唇。大きな瞳に長いまつげ。そこへスタイル抜群と来たものだから、欠点が見受けられなく、若干近寄りがたい印象を人に与えるのかもしれない。
社内は制服が無い。今日の彼女は薄桃色のブラウスに、清楚なベージュのプリーツスカートを履いている。
「はい……ええ、お客様。その点は承知いたしました。ですが、申し訳ございません。先ほどの者が申しました通り、試着済みの下着類の交換は出来かねますので、ご理解くださいませ。……はい。はい、ええ。仰る通りでございます、お客様。あ、はい。厳しく先ほどの者には注意をいたし、社内全体でこの度の問題を共有し、改善に努めさせていただきます」
月家薫子は一瞬ムッとした顔をし、固定電話の受話器を見たが、すぐ気を取り直したよう静かに受話器を置いた。どうやら先方がガチャリと急に電話を切ったらしい。
薫子は29才で、ここ『リレーネショッピング』コールセンターのオペレーター歴が10年近いやり手だ。
そばにつっ立っているのは、池原宙弥・40才。外食業界からこの会社へ転職して来て5年。1度離婚歴のある、独り暮らしの男性だ。おしゃれな七三分けにした髪。スーツを綺麗に着こなしている。
だが、彼は容姿に不釣り合いな態度だ。非常にオドオドしている。
ついさっきのお客からのクレームは宙弥が最初に受けたものだった。しかし、なんとも饒舌にはしゃべれなく、度々クレーム対応にてこずる宙弥。胃薬が手放せない毎日だ。
「月家さん、す、すみません。お客様にうまく説明できなくて……」
「そうね、池原さん。前にお伝えしたはずです。お客様が話されている時に、焦って言葉を挟まないこと。プライベートでもそうですよ? 人と会話をする時は相手が話し終わるまで、最後まで聴き、受け止めてから自分が話し始めるのが礼儀じゃないですか」
この自分より十も年下の先輩のアドバイスは、宙弥にとっていつも、グサグサと胸に刺さる。しかし彼女が言うことはもっともだと感じるので、不思議なことに、きつい口調で言われる時も全く嫌だと思わない。
「はい。月家さん、申し訳ございません。以後、改めて気を付けて参ります」
「ええ、お分かりになられたのならもう良いのです。デスクに戻ってください」
薫子は宙弥にだけは甘い。しかし、甘いと言っても、彼女は元々ストイックで人にも自分にもかなり厳しい。声を荒げることなど決してしないが、上司にも平気で疑問点は……そうだ、ズケズケと物申す。
薫子のきつさに耐えかねて会社を辞めた人間は数知れない。それもほとんどが男性社員だ。
きょうび、この国も男女平等と謳ってはいるが、なかなか女性の地位は低い位置に追いやられ、物も言いづらい現状が現場では見受けられる。
女性社員達は、人付き合いの悪い薫子、その上冷酷な印象を与える薫子を疎ましく感じており、陰で「あれじゃ男も寄り付かないわ」「欲求不満なんじゃない?」「月家オカルト」などと酷い言葉でヒソヒソと囁き、クスクス笑っている。
冷蔵庫へ飲み物を取りに行くため、給湯室へたまたま行き、薫子の悪口を聴いては胸を痛めているのが宙弥だ。
(月家さんは一生懸命なだけなのに……オレ、月家さんの悪口を言う女性社員を叱り飛ばせるぐらいデキる男になんなきゃな)
――――ある日、宙弥は、お客との通話内容のシステムへの入力という作業が山ほど貯まっており残業をしていた。
どうやら薫子も残業中のようだ。
オフィス内に間仕切りはあるが、オペレーターのために1つ1つ独立した電話ボックスのようなものがある訳では無いので、向こうに薫子の艶やかな髪の毛が動いているのが少し見えるだけだ。
(月家さんも残業か。彼女に認められるようオレも頑張るぞ!)
他にも数名、残業中の社員がいた。
すでにお客からの問い合わせ時間は終了しているので、電話は掛かって来ない。静かな室内のそれぞれのブースから、パソコンのキーボードを叩くカタカタという音が響き渡る。
「お先です!」
「お疲れ様でした」
「フー、終わった。お先に失礼しま~す」
「お疲れ!」
そんな風に残っていた数名が帰って行き、気づくと宙弥と薫子だけがオフィスに残り、熱心に手元の仕事をやっつけていた。
――――時刻は夜7時20分。
「ンー、疲れる!」
伸びをした宙弥。
「ええ、とても疲れますね」
左斜め向こう、ブース5つ分離れた薫子の席から、少し大きめの声が返って来た。
「コーヒー、飲まれますか? 池原さん」
「あ、恐れ入ります。いや、あの、私がやりますよ、月家さん」
「いいえ、いつも頑張っていらっしゃるから。わたし、丁度コーヒーを淹れようとしたところですし」
「あ、はい……」
十も年下の薫子は瑞々しく、陽が落ちた時間帯、その上妖艶に感じられた。
(オレ、なに考えてんだ。オレみたいなどん臭い男が若い女子に相手にされる訳無いじゃないか、目を覚ませよ! オレ)
給湯室へ向かうのかと思いきや、こちらへやって来る薫子。
黒い大きな瞳を伏し目がちにしながら歩くので、長いまつげが下を向く。まるでスノードロップの花びらのようだ。
目を丸くしてつばを飲み込む宙弥。薫子の体のライン、靡くような髪の毛、女優のような顔立ちから目が離せない。
ここまで薫子が歩いて来る時間はスローモーションのように感じられた。
髪をかき上げる所作、動くたびに波打つスカート、揺れる……豊かなバスト……。1つ1つの映像がどうしたことか、永遠のように緩やかだ。
なんと、宙弥は薫子の美貌に魅了され鼻血を出した。めまいを起こしデスクに突っ伏す宙弥。
「……池原さん……池原さん」
遠くから声がするような気がした。
いや、間近に薫子の顔がある。心配そうにしゃがみ込み、宙弥をのぞき込んでいたのだ。宙弥は一瞬気を失っていたらしい。
「これを」と白いレースのハンカチを薫子が差し出した。
「え?」
「鼻血が出ていらっしゃいます」
「あ、ああ! 失礼。ティ、ティッシュを持って……あれっ?」
慌ててスーツのジャケットのポッケに手を突っ込むが見つけられない宙弥。
黙ったまま澄んだ瞳の薫子は、左手で中弥の右頬をそっと支えつつ、半ば強引に自分のハンカチを宙弥の鼻にあてがった。
「あ、ああ……! デ、デスクにボックスティッシュがあるんだった、すみません」
宙弥は薫子の魅力にドギマギし、目の前にあるティッシュに気づけなかった。
そして良い匂いのする薫子に触れられたことで、欲情した。
「大丈夫ですか?」
気を取り直す宙弥。
「大丈夫です。私は大丈夫です。それよりも月家さんのハンカチを汚してしまい申し訳無いです。クリーニングしてお返しします」
薫子のレースのハンカチをポケットにそっとしまう宙弥。
すでに、宙弥の鼻の中には短めのコヨリ状にしたティッシュがギューギューに詰められている。
「そんなことお気になさらないで。洗濯すれば大丈夫です。今は血液もよく落ちる有能な洗剤があるのですよ」と薫子が言う。
「は、はい」
「じゃあ、わたし、コーヒーを淹れて来ますね」
「はい」
二人きりだ。今夜、恐らくもう誰も会社に戻って来やしないだろう。先ほど沸き起こった男の感情を持て余す宙弥。
(いけない! オレはなんて不純なことを考えているんだ。いけない! 先輩のお色気にムラムラしているなんて)
――――と、その時だ。
ズズズズズズ……。ズズズズ、ズズズズズズズ……。
給湯室のほうからなにか奇妙な音がする。
聴いたことのない音だ。
強いて言うならば、誰かが汁物でもすすっているかのような?
「月家さん? 大丈夫ですか?!」
宙弥は薫子のことが心配になり、給湯室へ行った。
そこでは、ドリップコーヒーに熱湯をゆっくりと注いでいる薫子がいた。
「あら。どうかされましたか? 池原さん。鼻血は止まりましたか」
「あ」
宙弥は不可思議な音に気を取られ、鼻血を出していたことをすっかり忘れていた。しかしどうやら、鼻血は止まったらしい。
給湯室にあったボックスティッシュから新しいティッシュを1枚取り出し鼻の下にあてがいつつ、詰めていた鼻のティッシュを抜いた。血は殆ど付いていなかった。
「もう止まったみたいです」
「そう。良かった」
どうしても先ほどの変な音のことが気になり、宙弥は薫子に訊いた。
「月家さん、さっきなにか音がしませんでしたか?」
するとキョトンとした表情をする薫子。
「音……ですか? どんな音?」
「ああ、私の聴き間違いかなー。『ズズズズズ~』というような音です」
「いいえ、わたしにはなにも」と薫子から返って来た。
それにしても、こうして近づくと尚イイ女だ。宙弥はなにか起きてしまいそうな気がして、否、なにか起こしてしまいそうな気がして……急いで自分のデスクへと戻った。無論、薫子の色香に参り、自分がなにか起こしそうなのだ。
少しすると豊かなコーヒーの香りをお盆に載せ、薫子が宙弥のもとへ行った。
彼女は、無人となっている宙弥の右隣の席の椅子を引っぱり出し、宙弥の椅子にピタッとくっつけた。
「つ、月家さん、どうして……」
「どうしてって、なにがかしら?」
その言葉に横を見ると、薫子のルビーのような唇が目に入った。眩しいほどにセクシーだ。
しかし、会社で先輩を誘惑するなどしてはいけないと自身に言い聞かせる宙弥。
相変わらず間近にいる薫子からは甘い香りが漂ってくる。重めの艶やかな香りだ。どうやら胸元辺りから匂っている。
チラリ、と薫子の胸元につい目をやった時、宙弥はハッとした……。第3ボタンまで開け放たれたブラウス。
首にはシルバーの上品に輝くネックレス。たぶんプラチナだろう。ダイヤがさりげなくペンダントトップに施されている。
ムズムズし、火照って来る宙弥の魂。
(誘われているのか?!)
それでも、こんな場所でいけない……と、宙弥はなにか薫子に話をしようと、必死で気分を変えた。
「月家さん、私、なかなかお客様対応が旨くできないんですよね。月家さんがアドバイスくださった『お客様の話を遮らない』これは頑張れそうです。それにしても、暴言を吐くお客様なんかが結構いらして、正直辛いです。委縮してしまうんですよ」
薫子は「ンー」と上を向いた。返事を真剣に考えている。
自分の欲情を押しとどめようと試みた宙弥であったが、薫子がいくら真面目な顔をしたって色っぽいものは色っぽい。返事を待ちつつも宙弥は今、自分の男の部分にほとほと困っている。
「感情的にならないこと。かといって弱腰な態度を取らないことです。お客様が怒るのはなにも、わたし達のせいではないわ。お客様自身が……うーん、はっきり言って大人げ無いのです。だから、バカにするという意味ではなく、半ば相手は子どもなのだな~と広い心で毅然とするのよ」
薫子の親身なアドバイスを聴いているうちに、気分が落ち着いて来た宙弥。
「そうですかー。なるほど! お客様は恐らく自分にイライラしているかも?」
「そう、それもあります。だから我慢強くなだめて差し上げましょう、わたし達は」
薫子がニコッと宙弥の目を見て微笑んだ。
(あ、月家さん……こんなに可愛らしい表情もするのか)
その時宙弥は思った。
(この笑顔を見たことがある社員はきっとオレだけだろうな)と。
女性社員の皆が言うような冷たい人間ではないのだな、と改めて薫子を尊敬する宙弥。
そして、とても自分より十も若い人間だとは思えぬほどタフでしなやかな大人だと薫子のことを思った。
その後も二人の話は弾み、プライベートな内容にまで及んだ。
なんと、宙弥と薫子の自宅最寄り駅は同じだということが判明。
「そうだったんですねー。ねえ、池原さん、今度あたしの行きつけのスナックにお誘いしたいわ。駅前なのよ」
あらゆる妄想が膨らみ、宙弥はときめいている。
もちろん二つ返事でオーケーした。
「まだ残業されるの? 池原さん」
「いえ、今日はもうこれぐらいにしておきます」
「そう、じゃあ一緒に電車に乗って帰らない? あ、もちろん、ご迷惑でなければの話ですよ」と薫子が言う。
宙弥にとって、夢のような話だ。あまりもの美女なのでいささか気後れはするが、正直言って嬉しい。
「はい。ではそういたしましょう」
「分かりました。ではあたし、コーヒーカップを洗って来ます」
「あ、恐れ入ります」
薫子が立ち上がると、再びフワッと優しく強い香りが鼻を突いた。
宙弥はうっとりとした。
薫子が洗い物をしている間、デスク周りの書類を片付けて行く宙弥。
(え!? まただ……。オレ、耳の具合が悪いのか?)
ズズズズズズズズズ。ズズズ……。ズズズズズズズズズ……。
(まさか、あの綺麗な薫子さんがコップの水を吸っている音? な訳ないよな)
宙弥が、音の正体を確かめに行こうと立ち上がった瞬間、微笑みながら薫子が給湯室から出て来た。
「帰りましょうか、池原さん」
「は、はい」
薫子に変だと思われたくないので、不思議な音について宙弥はもうしつこくは言わずにおいた。
会社から会社の最寄り駅までは徒歩5分だ。
「ネオン街は夜も眠らないですね~」と宙弥。
少々夜通るには華やかすぎ、ドキドキする通りだが駅への近道だ。
「そうね、池原さんはここら辺のお店で呑むの?」
「いえ、私は、なんと言いますか、こういう……濃厚なサービスのあるお店は苦手です。最近は専ら家呑みですよ」
クスッと愛らしく薫子が笑った。
残飯を入れるダストボックスの近くに野良猫がいるのを宙弥が見つけ「あいつらもおなかを空かせているんでしょうねー」と猫のほうを指さしつつ薫子に話した。
薫子の返事がない。
どうしたのかと宙弥は思い、隣を歩く薫子の顔を見た。
薫子の表情が豹変していた。
(なぜだ?!)
少し気味悪くなる宙弥。
猫へ向ける薫子の目は爛々と輝ていた。
「ど、どうかしましたか? 月家さん」
すると薫子は「あたし、猫ちゃんが好きなんです」と言う。
それにしても先ほどの瞳の輝きから異様なものを宙弥は感じ取った。なにかは分からぬが。
駅へ着き電車に乗る二人。時刻は21時もとっくに過ぎていた。
人も結構乗っているし、二人は黙って立っていた。
(さっきのあの目はなんだったんだ……?!)
宙弥はしばし考え続けていた。しかし答えなど出ない。もしかしたら、人知れず彼女は精神の病んでいる部分があるのだろうか? などと思いつきもした。
そこへ向けて電車のカーブで急にバランスを失った薫子が宙弥の体に倒れ掛かってしまった。
柔らかいものが思いっきり宙弥の右腕に当たった。薫子の豊満なバストだ。
「キャ! ごめんなさい!」
顔を赤らめ口にする薫子。
電車の衝撃とともに、さっきの宙弥の薫子への疑問と恐れはどこかへ吹っ飛んで行ってしまった。
もうすぐ30才の誕生日なのだと、コーヒーを飲んだ時話していた薫子だったのだが、恥じらう薫子は、とてもアラサーには見えない。18~19の娘さんのように見える。
抗えない彼女の魅力。いつもはあんなに冷静に仕事をこなしている薫子のあたふたとする様子がなんとも、宙弥には愛おしく思われた。
「だ、大丈夫ですか? 薫子さん。ハイヒールですものね」
「ええ、大丈夫」
俯く薫子のしおらしさに、宙弥は体がカッカと燃えて来た。
やがて二人の自宅の最寄り駅に到着した。
「あ、今度お誘いしたいお店の場所、丁度通るから言っておくわね。って、あ……あたしったら、自分の帰り道のことしか考えてなかった」
「あ、いや、良いですよ。教えてください」
宙弥は、はっきり言ってこのまま送り狼になりたいぐらいなのだから。
人もまばらな駅前商店街を少し行く。
「この路地を入って行くの」
「ああ、ここですか。わたしがたまに行く居酒屋さんのある横丁ですよ」と宙弥。
「そうだったの」
「はい」
そうして二人は再び路地を引き返し商店街へ出た。
(どこで別れるのだろう? いや、ここでオレが[では、失礼します]と言うべきなのか?)
あれこれ考えている宙弥。
その心中を知ってか知らずか薫子が「送ってくださらない? 池原さん」と明るくお願いをして来た。
心の片隅で密やかに(チャンスか!?)などと不埒な考えが浮かぶ宙弥。
「ええ、こんな遅くに女性の一人歩きは心配です。私でよろしければお送りいたします」
宙弥は下心をひた隠しにしながら答えた。
「こっちよ、こっち」と薫子がいざなうのは、まさに宙弥の家の方向だ。
「ここ!」と、小綺麗なマンションの前にて薫子。
(え、こんなご近所さんだったのか!)と驚く宙弥。
「月家さん、私の家はあの角を曲がったマンションですよ?」
「え! そうだったんですか、びっくりですね」
薫子も驚いている。
「家まで送ってくださり、ありがとうございました。おやすみなさい」
ニッコリと笑い、振り向きもせず去って行く薫子。
柔らかいスカートが歩くたびにヒップのラインを魅せ見惚れてしまう。宙弥は何事も起こらなかったことをちょっぴり残念に思いつつ帰途を辿った。
*
翌日の昼休憩。
たまたま給湯室で二人きりになった宙弥と薫子。ほんの束の間だ。薫子がサッと宙弥にメモを渡した。
その直後課長がカップラーメンを作るために給湯室に入って来た。
『読むよ』という風に宙也は薫子に目配せをした。
デスクに戻り、温めたコンビニ弁当を食べ終わった宙弥は辺りをキョロキョロし、こっそりと薫子から受け取った丁寧に折られたメモを開いた。
『池原さん きのうはありがとうございました。早速なんですけど、わたし、今日スナック“玲於奈”へ呑みに行きます。よろしかったらいらしてね。でも、ご都合がつかなければご無理はなさらないでくださいね』
宙弥は心の中でガッツポーズをした。なんとかお近づきになりたい。もっとあの魅力的な薫子と触れ合いたい。とてもそそられる女性だ。
彼女を愛し始めていることを宙弥自身わかっていた。
――――仕事がはかどる。
宙弥はお客からのクレーム対応が上手になって来た。それもこれも皆、なにかと注意をして来てくれた先輩である薫子のお陰だ。
そして今夜の『デート』を想うとウキウキして、仕事にやる気が出るのだった。
今日は残業無しで終われそうな宙弥。薫子はどうなのであろう。周りの目もあり、親密に話をすることができず分からない。でも、薫子と一緒に会社を出るつもりの宙弥だ。彼女が残業であるなら、適当に仕事を作ってオフィスで時間をつぶす。
定時の退社時刻は18時だ。
宙弥は17時50分頃からチラチラと薫子の行動を気にしていた。書類の束を片付けている。マイカップを給湯室に持って行っている。炊事場で洗うつもりだろう。おそらく彼女も残業無しだ。
10分がとても長く感じられる。
退社直後トイレに行った宙弥。
用を足している男性社員二人が話していた内容にギクッとした。
「いったいなんの音だろうなー。お化けか?! ギャハハハッ」
「いや、マジこえぇって。笑い事じゃないぜ。『ズズズズズー』ってさぁ……」
無論、宙弥も話に加わりたかったが、薫子を待たせたくないのでトイレを出た。
退社直後だ。二人で歩いている所を見つけられてしまうといけない、と薫子も気にしているらしい。先に会社近くに出ていたが、宙弥と並んで歩こうとはしなかった。
変な噂は厄介だ。
薫子は自身が周りから疎まれていることを知っているのだろう。宙弥よりも噂の的になることを気にしているようだ。
離れて二人は駅まで歩いた。互いを見失わないように気を付けつつ。
そしてやっと駅に着き、二人は口をきいた。
「お疲れ様!」と二人の口から同時に出た。シンクロニシティだ。
今日は電車の座席に並んで座れた。
薄紫のミニのワンピースに桃色のカーディガン。グレーのパンプスを履いた薫子は乙女のようだ。
(こんな乙女が大人の女性なのか。ベッドではどうだろう……)
薫子の太腿と自身の太腿が触れ合っている宙弥はスケベな空想が止まらない。
香水をつけているのだろうか。今日も薫子はとても甘やかで濃厚な香りを放っている。
「なにを考えているの?」
不意に顔をのぞき込み、宙弥に尋ねる薫子。
「あ、あ、はい。どんなお店かな~と」
宙也は薫子を直視できない。まるで思いを見透かされているかのようだ。
「ンフフ」
薫子は悪戯に笑って見せた。
「いらっしゃい……あら、薫子ちゃん! まあ、今日は恋人と?」
「ママ~、違うよぉ。会社の同僚の方よ」
いきなり元気なママさんに訊かれ答える薫子は、まんざらでも無さそうだ。
「こんばんは。初めまして」
「いらっしゃい。楽しんでねー」
スナックで、ほろ酔いの薫子は沢山自分のことを語った。
「あたしさ、本当は寂しいのよね。会社でも嫌われているし、友達もいない……」
「あの、私は月家さんのことを素敵だと思っています」
「ほーんとぉう?」
薫子はアルコールが回り、まっ白な肌が真っ赤になっている。胸元まで。
「ええ、本当ですよ。私は月家さんからいっぱい学んでいます」
「さっきからさ~、『月家・月家』って嫌ぁよー。『薫子』って呼んで! ネ!」
ドギマギがマックスの宙弥である。宙弥は酒に強いので滅多と酔わない。薫子の可愛らしさに酔いしれている。
「か、薫子、さん」
「やぁーだー、呼び捨てが良いのぉ~」
「薫子」
「ウフ。宙弥ぁ」
耳元で薫子に吐息で名前をささやかれた宙弥。
薫子はケラケラ笑い転げている。
「薫子ちゃん! 今日はその辺にしときな。呑み過ぎだよ」
ママさんにたしなめられた薫子。
宙弥も薫子の体が心配になって来た。
「お送りしますよ、行きましょう、薫子さ……、あ、薫子。行こう」
薫子は大人しくなり、宙弥に抱きかかえられながら店を跡にした。
薫子のマンションに到着した。
「何階ですか?」
宙弥が薫子に訊く。
「6階よ、最上階」
薫子は外の空気を浴び、ちょっぴり気分も落ち着いて来たようだ。酔いも冷めている感じだ。
しかし足元が危ういので部屋の中まで送った。ずっと薫子は甘えるかのように宙弥に身を寄せている。
薫子の部屋、605号室の玄関に着いた。
その途端、まるで二人とも待ちわびていたかのように、きつく抱き合いキスが止まらない。
しばし恍惚に身を委ねる二人。
ところが、急に「いけないわ!」と薫子が叫んだ。
泣いている。
「私のこと、好きじゃないのかい? 薫子、同じ気持ちじゃないのかい?」
充分過ぎるほど伝わって来る薫子の宙弥への愛情。
「うん、好きよ。でもいきなり愛し合うのは怖いの」
今となっては宙弥は薫子の虜だ。
彼女の気持ちが最優先事項だ。
「うん。わかったよ、薫子。今日は帰ります」
「嫌……! ただ、一緒にいて欲しいの」
「わかった」
そっと薫子を再び抱き寄せた宙弥だったが、薫子に突き放された。
「ごめんなさい、あたし……。宙弥、ソファーに座って。あたしキッチンでコーヒーを淹れて来るわ」
「うん、わかった」
ピンクを基調にした愛らしい部屋は綺麗に片付けられている。とても落ち着く部屋だな、と宙弥は感じた。
ズズズズズズズズズ……。ズズズッ、ズズズズズズ……。
まただ! ここは当たり前だが薫子の家。会社で宙弥が奇妙な音を聞いた時、残業していたのは薫子と自分だけだった。
(薫子がなにか音を立てているんだな)
ソーッと忍び足でキッチンへ向かい、目の当たりにしたものにより、宙弥は絶句した。
そこには、胴回りが80cm以上・体長5Mはあるであろう白い大蛇がとぐろを巻いているのだ。
体をくねらせるたびに床と摩擦を起こし、ズズズズズズズズ……と音を立てる。とぐろを巻くたびにも鱗がこすれ音がしている。
宙弥は逃げなかった。びっくりはしたが恐怖を全く感じなかった。
感じたのは、胸を割かれるような悲しみだった。
宙弥は再び静かにリビングへ戻りソファーで薫子を待った。
薫子は人間の姿で、コーヒーソーサーとコーヒーカップの載った花柄のトレーを持って来た。
「お待たせ、宙弥。コーヒー、飲んでね」
「うん、戴きます」
すっかり素面に戻った薫子は、宙弥に触れて来はしなかった。
宙弥は、薫子が自分と愛し合えない理由をなんとなく理解した。
*
薫子と宙弥は、互いを恋しいと感じれば感じるほどプラトニックラブに走った。
『スナック玲於奈』以来、二人は連絡先を交換したので、毎日電話で話をした。
「もしもし、薫子。好きだよ。今日も顧客のフォローすまなかったね、ありがとう。助かったよ」
『当然よ、大好きな宙弥のためだもの。ン……と、正直に言うと、あそこで困っていたのが宙弥じゃなくても助け船を出したわ。ごめんね、ロマンチックじゃない会話で。でも、仕事は協力し合うものでしょう?』
宙弥は初め、薫子のお色気と見た目に強く惹かれていた。しかしどんどんキラキラとする内面を知り、今では心底愛している。
願いは一つ。薫子と体を溶け合わせたい。
*
ある休日の前日、宙弥は電話で薫子にこう言った。
「薫子? 明日うちに来ないか。外で逢うのも良いけど、たまには家でいろんな話をくつろいでしたいよ」
『え……でも。あたし……』
「薫子、愛しているんだよ」
宙弥のその声は宇宙から届いたさだめの合図のように鳴り響いた。
胸を打たれ薫子は、震える声で「はい」と答えた。
――――そして薫子が初めて宙弥宅へ訪れた。
薫子はレースがあしらわれた純白のワンピースにレモンイエローのカーディガンと言う麗しい装いでやって来た。
目映いほどの美しさに歓びを隠し切れない宙弥。
とても、とても興奮してしまった。待ちきれずに宝石箱を取り出す宙弥。
美麗なベルベッドでできた藍色のケースを開けて見せる宙弥。
薫子は瞳に涙をため、震えている。
「良いかい? 絶対ピッタリさ」
そう言って、0.5カラットのダイヤのエンゲージリングを取り出し、薫子の左薬指にはめてやる宙弥。
「あ、あ……いけません。あたしは、あたし……」
ギュッと左手を握り、指輪のはめた薬指を愛おしがる薫子。
「知っているよ。良いんだ」
「え? どういうこと、宙弥?」
「オレは……猫になっても良い。未練などない。薫子が欲しいんだ」
「あたしの変貌した姿を見たのね?! あ、あたし……なぜかはわからないの」
その唇を塞ぎ、細い肩を抱き、黙らせた宙弥。
二人は無我夢中で互いの肌を味わった。
少しずつ体が変容していく薫子。
「宙弥っ! お願い、離れてっ宙弥、宙弥っ! 離れて――――――――っ!」
大蛇のしっぽで宙弥の背中を叩き続ける薫子が泣きわめいている。
「愛している、離れないし、離すものか! 愛してる、薫子!」
それが宙弥の最後の言葉で、宙弥の首は真っ白い大蛇と化した薫子に締め上げられた。宙弥は口から泡を吹いた。
もう動かない。薫子を抱きしめたまま死んだ。
宙弥の亡骸を飲み込んで行く巨大な白蛇、薫子。
すっかり宙弥で腹が膨れたあと、大蛇は自らのしっぽを飲み込み始めた。
巨大な白蛇が泣いている。大蛇と化した薫子の肉は千切れ、ほとんど無くなり、頭部だけ残った。
それも束の間。
『二人』は砂塵のごとく、開け放たれた窓から舞い上がり、消えた。
――――それから10年の年月が流れた。
宙弥の田舎の両親たちは、悲嘆にくれながら、ずっと必死で息子を探し続けていた。
しかし宙弥の祖母が言った。
「あの子はね、幸せだからもう待ちなさんな、あんた達」
薫子の捜索願は、薫子と宙弥が勤めていた会社社長により届け出された。薫子は孤児であり、血縁者は一人もいない天涯孤独の身だったことが判明したからだ。
現在、薫子と宙弥が良く通っていた横丁に『白蛇様の祠』がある。誰が造ったのか、誰も知らない。
その祠に恋のお願いごとをすると叶うそうだ。




