1-6 未帰還
思わず言葉が詰まった僕に、母はゆっくりと視線を落とした。
「……それでも、行く人がいるからよ」
静かで、でもはっきりとした声だった。
「山の向こうにしかない資源がある。地図にない道がある。未確認の魔物もいる。誰かが調べなければ、次に行く人が死ぬ」
母は淡々と続ける。
「だから先に行く人がいる。
危険を減らすために、道を残すために」
「……でも死ぬかもしれないのに?」
「ええ。死ぬかもしれない。それでも行くの」
母はそこで一度、僕の方を見た。
「だから私たちは用意をするの。少しでも生きて帰る確率を上げるために」
テーブルの上の装備を見ながら、母はひとつひとつに触れていく。
「信号弾は位置の共有と救援要請。短剣は戦闘だけじゃない、ロープを切るためにも使う」
「コンパスと地図は……撤退、するため?」
「そう」
母は迷いなく頷く。
その時、遠くから別の車の音が聞こえてきた。
さっき出発した隊とは違う紋章の魔道車が、補給拠点の前に止まる。
車体の側面には、ところどころ傷や凹みがあった。
僕はその違和感に気づく。
「あれ……帰ってきた隊?」
母は一瞬だけ目を細めてから、すぐに仕事の顔に戻った。
「ライズ、下がっていなさい」
その声は少しだけ硬かった。
車の扉が開き、隊員たちが降りてくる。
……けど、人数が少ない。
行きに見送ったときより、明らかに少ない。
しかも、全員の表情が重い。
一人は肩を支えられて歩いているし、別の一人は鎧が半分壊れていた。
母がすぐに駆け寄る。
「状況を」
短い一言。
隊のリーダーらしき男性が、唇を噛みながら答えた。
「……アルド山第三峡谷にて魔物の群れと遭遇。想定外の数でした。撤退を決断……」
そこまで言って、言葉が止まる。
母は黙って続きを待つ。
「……三名、置いてきました」
空気が一瞬で冷えた。
僕は息を飲む。
置いてきた――
それはつまり。
母は一切顔色を変えずに、次の指示を出す。
「負傷者を中へ。医療班を呼ぶ。
装備の損耗状況は後で報告して
ライズ、父にこの事伝えて、直ちに救助隊の編成を要請してきて」
「……はい!」
返事をした瞬間、僕の体は勝手に動いていた。
さっきまでの“置いてきた”という言葉が、頭の中で何度も響いている。
だけど今は――動かないと。
僕は補給拠点の奥、父がいる詰所へと走った。
木の廊下を踏み鳴らしながら、息を切らして扉を叩く。
「父さん!!」
「どうした、ライズ――」
扉を開けた父の顔は、僕の表情を見た瞬間に変わった。
笑顔でも、驚きでもない。
一瞬で状況を察した顔。
「……戻ってきたか」
「アルド山第三峡谷で魔物の群れに遭遇、三名置いて撤退!母さんが救助隊の編成を要請してって!」
言い切った瞬間、父の目が鋭くなる。
「分かった。伝令は十分だ、よくやった」
父はすぐに背後の棚から一枚の板と刻印具を取り出し、机の上で素早く何かを書き込む。
「第三峡谷、群れの規模不明、三名生存可能性あり――時間制限は四時間以内」
ぶつぶつと呟きながら、次々と指示を書き連ねていく。
そしてそれを壁に取り付けられた通信盤に叩きつけるように固定した。
盤が青白く光り、低い音を立て始める。
「緊急要請だ。近隣の待機小隊を叩き起こす」
父はそのまま外へ歩き出しながら叫んだ。
「装備係!救助用装備をDー3規格で準備!医療班は三名分以上、担架二つ、凍結防止薬もだ!」
拠点の空気が一気に変わる。
さっきまで静かだった場所に、人の走る音、装備がぶつかる音、指示の声が飛び交い始めた。
僕はその場に立ち尽くす。
救助隊。
助けに行く人たち。
「……ライズ」
父が振り返る。
「お前はここから先に来るな。」
「……うん」
分かっている。
分かっているけど――
胸の奥がざわざわする。
さっきの隊長の顔。
拳を震わせていた青年の顔。
そして、まだ山に残されている三人。
その時、建物の外から怒鳴り声が聞こえた。
「俺も行かせろ!!」
振り返ると、さっき地面を殴っていた青年が、母に詰め寄っていた。
「俺の判断で置いてきたんだぞ!なら俺が取り戻しに行くのが筋だろ!!」
その声は怒りというより、叫びに近かった。
母は一歩も動かない。
「あなたは負傷している。小隊の再編も終わっていない。現時点での再出動は認められない」
「関係ない!!あいつらは俺の部下だ!!」
青年の声がひび割れる。
「俺が引かなければ、まだ――」
「――その続きを言うな」
母の声が、鋭く割り込んだ。
一瞬で場の空気が凍る。
「“あの時こうしていれば”という幻想は現実では意味がない。必要なのは“今できる最善”だけよ」
青年は歯を食いしばる。
それでも一歩も引かない。
「俺は行く」
「行かせない」
「止める権利があるのかよ!!」
母は静かに答えた。
「ある。ここはD-13補給拠点。あなたの指揮権はここでは通らない
それに…」
一歩、母が近づく。
「あなたは今、冒険者の理念を見失っている」
その言葉に、青年の肩がびくりと震えた。
「……当たり前だろ」
かすれた声。
「仲間を置いて帰ってきて、嫌わない奴がいるかよ……」
母は、ほんの少しだけ目を細めた。
「いるわよ」
「……え?」
「“置いてきた”ことを受け入れて、次に同じ状況を起こさないように考える人。そういう人が、長く生き残る」
青年は言葉を失う。
母は続ける。
「あなたは優しい。でもその優しさのまま前に出たら、次はあなたが置いていかれる側になる」
「……っ」
「だから、今は待ちなさい。」
青年の拳がゆっくりとほどけていく。
完全に納得した顔ではない。
でも――踏みとどまった。
「……分かりました」
その声は、さっきより少しだけ弱かった。
だけど、確かに“引いた”声だった。
その瞬間、外から父の声が響く。
「救助部隊、編成完了!!出発準備!!」
門の前に、別の紋章をつけた三台の魔道加速小車が並ぶ。
隊員たちは全員、救助用の装備――太いワイヤー、増設された信号機、担架を背負っていた。
さっき見送った調査隊とは、明らかに装備が違う。
母が短く指示を飛ばす。
「目標は第三峡谷南側ルート!霧の流れは北東から!足場崩落の報告あり!」
「了解!!」
救助隊のリーダーが力強く返事をする。
父が最後に一言だけ告げた。
「今回の救助部隊の総指揮を取らせてもらうロンドウォーカーだ!」
「四時間だ!
日没までは4時間!
それまでに救助に向かうぞ!」
「分かってます」
隊員たちは迷いなく魔道車に乗り込む。
魔力炉が唸り、地面が震え、車体がゆっくりと前進を始める。
僕はその光景を、ただ見ていた。
今度は“調査”じゃない。
“取り戻すため”に行く隊。
さっきよりも、ずっと重い出発。
車が門を抜け、山へと向かっていく。
その背中が見えなくなるまで、誰も言葉を発さなかった。
やがて、音も消える。
静寂。
その中で、母がぽつりと言った。
「……これが、この世界の“冒険者”よ」
僕は何も言えなかった。
ただ、強く思った。
もし自分があの場にいたら。
僕は――
引けるだろうか。




