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亜麻色の彼女  作者: 藍月ゆう
9/11

ささやかな誕生日(3)

『いよいよ明日だね。あんまり気を遣わないでね』


『大丈夫。ちゃんと準備できてるから』既読


『もし具合が悪くなったりしたら言ってね』


『ありがとう。でも、大丈夫だと思う。最近ずっといいから』既読


『うん。それならいいんだけど。梨恵は時々沈んじゃうから』


『ボートじゃないんだから、沈むなんて言わないでよ』既読


『ごめんごめん。とにかく、無理はしないでね。明日の6時にお邪魔するね。おやすみなさい』







 六月一日、土曜日。遂に当日を迎えてしまった。

 柴原の体調は良好だった。寝坊こそしたものの、何とかこの日まで体調管理ができたことは、自信になった。

 前日、金曜の夜にいつものバーで会った時、青木は心配そうにしていたが、柴原は「大丈夫だから」と彼を安心させるため、笑顔を見せていた。

(今日さえ終えれば明日から死んだように眠りこけても大丈夫。部屋の掃除もしたし、クッションもちゃんと二人分あるし、料理も順調。ミネストローネはお昼過ぎにできたし、クリームパスタもあとはホワイトソースを作って仕上げるだけ。サラダは冷蔵庫に入ってる。ケーキもちゃんと受け取った。細心の注意を払って歩いてきたから、たぶん崩れたりはしてない。大丈夫、大丈夫。落ち着け、落ち着け)

 柴原は自分を落ち着かせながら、そわそわと時間が経過するのを待った。

 十七時を回った。約束の十八時まであと一時間を切った。ホワイトソースを作る準備を始めようかと立ち上がった際、チャイムが鳴った。

 彼が来るには早すぎる。そっと覗き穴から窺うと、知らない中年のおじさんが立っていた。どうせ、NHKか新聞勧誘だろう。居留守を決め込むことにした。

 ピンポン、ピンポンと二度チャイムが鳴らされた。うるさい。早く帰ってくれ。

 もう一度、外の様子を窺うと、おじさんは既に立ち去っていた。一応郵便受けを確認したが、空っぽだった。

 時刻を確認すると十七時半を回っていた。いけない、早くパスタを仕上げなければ。







 青木は十八時ぴったりにやってきた。まるで時間になるまで外で待っていたかのようだったが、それよりも柴原を笑わせたのは彼の服装だった。

 いつもの、濃紺の背広を着ていたからである。それもご丁寧にワインレッドのネクタイも締めて、これではお祝いされる側なのかお祝いする側なのか分からない。

 「いらっしゃい」と彼を招き入れた後、柴原はしばらく大笑いした。青木は少しむっとした様子で、「何を着ていけばいいのか分からなかったんだ」と言い訳した。


「何を着ていくのか分からないにしても、そんなかっちりとスーツを着られたら、こっちもやりにくいじゃない」


「社会人の私服はスーツって習ったからさ……なんか、ごめん」


 拗ねて見せる青木が可笑しくて、可愛く感じた。

 柴原はグレーのロングTシャツワンピースに、青いデニム姿だった。彼女なりに一生懸命頑張った格好だが、背広姿の青木にすべて持っていかれた気がした。


「狭くて散らかってるけど……どうぞ」


 柴原は玄関から洋室へ青木を招いた。白い木製のガラステーブルと、焦げ茶の丸いクッションが二つ、対面に並んでいた。

 テーブルの上には既に料理が並べられており、出来立てのパスタは湯気を上げ、ミネストローネは輝いていた。トマトとアボカドのサラダが丸い皿に盛り付けられ、フォークとスプーン、そしてビールグラスが準備されている。


「おおー……これが、梨恵の部屋か……。すごいね、これ、全部作ったの?」


 青木は感心した。料理もそうだが、柴原の家の中はまるでミステリーだったからだ。青木の家と造りはそれほど変わらない。

 あまり広くはないフローリングの洋間。白い壁際にテレビが設置されているのも一緒だ。テレビ台の中には旧式だがブルーレイレコーダーが設置されている。少し羨ましかった。

 テレビ台の横に、ジェンツーペンギンとキングペンギンの置物があった。三十センチほどの大きさで、リアルにできていた。


「梨恵、ペンギン好きなんだ?」


「え? あ、ああ……うん。好きなのかも……あんまり意識したことがなかったけど」


 意識したことがない割には、ベッドの枕元にはペンギンのぬいぐるみが置かれ、テレビ台の上にもピングーのフィギュアがいくつか飾られていた。

 部屋の中は清潔そのものだった。いつも彼女が「散らかってるから……」とか「汚いから……」とか言うのとは、正反対だと思った。


「あんまりまじまじと見ないで。恥ずかしいじゃない」


「ふふ。ごめんね」


「もう。智ちゃん、ビールでよかった?」


「ああ。嬉しいな。最近は発泡酒しか飲んでなかったから」


 青木は、もう智ちゃんでも何でもよかった。緊張していたからだ。

 「缶ビールで申し訳ないんだけど」と前置きしたうえで、柴原はビールグラスに生ビールを注いだ。ビールは金色に輝き、ちょうど見栄え良く泡立った。


「上手だね」


「そう?」


 慣れた手つきで柴原は自分のビールにもグラスを注ぎ、奥の窓側のクッションに座った。


「さ、智ちゃんも座って座って。そんな、かしこまらないでよ。足を崩して。そうそう。胡坐かいて。それじゃ、お誕生日おめでとー。乾杯!」


 キンと小気味いい音を鳴らし、グラスが躍った。

 グイっと飲む。たまらない。ついつい、ぷはーっと声が出そうになるのを青木は堪えた。


「どうぞ、召し上がれ。うまくできてるといいんだけど」


「では、いただきます」


 二人はクリームパスタを口に入れた。ホワイトソースの優しい味がした。実家で食べたパスタよりもずっと美味しいと、青木は思った。


「美味しい! すごく美味しいよ! 梨恵、お料理上手だね」


「ふふふ。ありがとう」


 ミネストローネもサラダも美味であった。

 旨い飯を食えば酒が進む。青木は緊張も解れ、ビールをお代わりした。

 柴原も続いて飲んだ。三百五十mlの六缶パックがあっという間になくなった。


「ごめんね。五百にすればよかったかしら?」


「なんもだよ、十分さ。ご馳走さまでした」


 ひとしきり食べ終え、買っていた酎ハイにも手が付いたところで、柴原は詫びた。青木は十分に満足していた。

 旨い飯を食えた上に、久しぶりの生ビール。それも愛する人と一緒に。こんな幸せがあるだろうか。


「あのさ」


「ん?」


 食器を流しに片付けた後、柴原が言った。


「あの、一応……ケーキとか、プレゼントとか、準備してるんだ。いま出すね」


 柴原が冷蔵庫から小さな箱を取り出す。ぼんやりと、少し酔った青木がそれを見守る。

 テーブルの上に乗せられた箱が開かれたとき、可愛らしい小さなデコレーションケーキが出てきた。

 上にはイチゴが四つと、ホワイトチョコのプレートが置かれていた。アルファベットで何か書いてある。TOMOMIだけは理解できた。


「ちっちゃくてごめんね。どんなのが良いのか分かんなくて」


「いやいや、可愛くて良いじゃないか。ところでさ……これ、なんて書いてあるの?」


「えっ」


「ほら、これ、このプレート。TOMOMIは分かるけど、その前さ」


「……ないの」


「……ん?」


「分かんないの。私も。店員さんに三度も聞いたのに、聞き取れなかった……」


 一瞬の静寂。そして二人とも、同時にぷっと吹き出した。大笑いだった。ハッピーバースデーとでも書いてあると思ったのに、書いてあるのはJから始まる見知らぬ言葉。

 肝心の柴原すらなんて読むのか分からないなんて、酔った勢いもあって青木は涙が出るほど笑った。


「分かんないって、そりゃないでしょ、梨恵」


「だって、分かんないんだもん。グーグルで調べて、読み上げてもらったけど、やっぱり分かんないんだもん」


 ケラケラと笑う青木に柴原も続いて笑った。


「ちなみに、意味は?」


「フランス語で、お誕生日おめでとう」


「へえ、フランス語。この間のは、それね」


 ふむふむと、先日メッセージでやり取りしたフランス語の件を青木は思い出した。


「では、あけまして……じゃなかった、改めて! お誕生日おめでとうございます……」


 また二人で大笑いして、青木は「ありがとう」と満面の笑みを浮かべた。

 ケーキは丁度半分に切って、二人仲良く食べた。チョコのプレートは青木が食べた。口に運ぶ直前、改めて解読を試みたものの、何と発音するのかさっぱり分からなかった。







「あ、いけない、忘れるところだったわ。プレゼントがあるの」


 少しして、ケーキを食べるのに使った食器を片付けた後、柴原が言った。


「プレゼント! 買ってくれたって言ってたよね」


「うん。気に入ってくれるといいんだけど……」


 恐る恐るという感じに、ベッドの脇にある小さなチェストの中から柴原は袋を取り出した。青いラッピングがされた袋と、緑のラッピングがされた袋が出てきた。


「二つも? そんなにいいのかい?」


「う、うん。よかったら、開けてみて」


 開けていいのなら、是非と思い青木は青い袋から先に開けた。

 白く細長い箱が出てきた。さらに中を開けると、青地に紺の水玉が入ったネクタイが出てきた。


「わあ、青いネクタイか。とてもオシャレだね」


「ありがとう。もう一つも、どうぞ」


 続いて緑の袋を開ける。黒い小箱が出てきた。開けると、黒く艶のある本革の名刺入れが出てきた。青い刺繍が可愛らしかった。


「おおー。今度は名刺入れ! 梨恵は気が利くなあ。こんなに素敵なプレゼントを、どうもありがとう」


「よかったら」


 青木が礼を言うと、柴原が続いた。


「そのネクタイ……締めてみて。あなたの手で締めるところを見てみたいの。あ、タグとか付いてるよね。ハサミ……ええと、あった。はい」


 言われるがまま、青木はネクタイを取り出し、小剣通しに付いていたタグを切り落とすと、おもむろに自身が締めていた古いワインレッドのネクタイを解き、新しいブルーのネクタイを結んだ。


「ど、どうかな?」


「うん! すっごく似合ってる! 智ちゃんにぴったりだわ」


「ありがとう……」


「ううん。私こそありがとう。ネクタイを解いたり、結んだりする姿を見るの、すごく好きなの。だからそれをやってもらいたくて、無理を言っちゃった。ありがとね」


 お酒を飲んで紅潮し、てへっと笑う柴原が愛らしく、青木は頭を撫でた。亜麻色の髪はサラサラと美しかった。


「智ちゃんがスーツを着てきてくれたおかげね。さっきは笑っちゃってごめんなさい、ちょうど良かった」


「そうだね。偶然だけど、ちょうど良かった」


 青木は同意した。そっと名刺入れを撫でた。つるつるとして、長年使っても持ちこたえてくれそうな頼もしさがあった。


「梨恵、今日は本当にありがとう。人生最高の誕生日だよ。本当に嬉しい。その……そっちへ行っても、いいかな?」


 礼を言い、青木は少し照れながら柴原に尋ねた。隣に座りたかった。


「いいけど……あの、ごめんね」


「ん?」


「今日、生理中なの」


 二人はまた盛大に笑った。

 青木はよいしょと立ち上がると柴原の右隣に座り、そっと彼女の身体を抱き寄せた。シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。







 梨恵。今日は本当にありがとう。人生最良の日だよ。

 ほんとだよ。こんなに嬉しいことってないよ。この世でいちばん好きな人が、僕のために料理を作ってくれて、ケーキやプレゼントも準備してくれて。

 今日はスーツなんかで来ちゃって恥ずかしかったけど、結果的に良い方向へ進んだね。

 最近、具合はどう? そう。良い感じなんだね。良かった。

 なかなか復職できなくて、辛いよね。早く戻りたいんだろうなって気持ちがとっても伝わるし、今日のために梨恵が一生懸命準備してきてくれたんだと思うと、嬉しくて嬉しくて堪らないよ。

 僕は君が苦しい時、なにもできなくてとっても歯がゆく思ってる。

 起き上がれないくらい苦しい日があるって言っていたよね。そんな時、傍にいられれば、ほんの少しでも役に立てるかもしれないのに、それができなくてごめんね。

 この間、ゲームを見る君がとても新鮮に思えた。そういうものとは無縁だと思っていたから。

 マリオは知ってるんだ? ぷよぷよも。へえ。懐かしいね。マリオ、僕はちょっと自信あるよ。幼稚園の頃からずっとやってたから。今は鈍ってるけど、ちょっと遊べばすぐ戻るさ。

 梨恵。君は美しいよ。亜麻色の髪も、その顔も、身体のラインも、服のセンスも、何もかもが美しい。何よりも君の美しさを引き立てるのは、君の透き通るような声だよ。

 まるでハープの音色を聴いているかのようなんだ。臭い? ははっ、そうかもね。でも、本当なんだよ。

 本音を言うとね、毎日だって君の傍にいたいと思っている。いつだって、君のことが頭から離れない。恋の病かな? 三十一にもなって恥ずかしいけど、まともな恋愛ってあんまりしたことないから、こんなもんなのかなあ。

 心配で心配で仕方がないんだ。君のことが。今日はちゃんとご飯を食べたんだろうか。薬を飲んだんだろうか。眠れたんだろうか。倒れていないか、クルマに轢かれていないか、変な人に襲われていないか。

 想像力が少し、豊か過ぎるかもしれないね。でも、いつも本気で心配している。

 あのバーで出会った後、僕は君と「お互い常連」の関係のままでいようと思った。でも、ある切っ掛けで君と話すことができた。頑張れて良かったよ。本当に、本当に良かった。

 だって、そうじゃないと、君とこうして抱き合うことも、新しいネクタイを受け取ることもできなかったんだから。人生、何が自分を変えるか分からないね。

 最近、仕事帰りに発寒中央駅に立つと、君の家に向かいそうになるんだ。まるでそっちが本当の家で、いま住んでいる家は借り物みたいな。

 あはは。変だよね。アパートなんだから、どっちみち借り物なんだけどさ。

 梨恵。本当に、本当にありがとう。

 なしたの? なんで泣くの? 何かまずいこと言っちゃったかな。

 ええと、ティッシュは、ああ、あったあった。ほら、これで涙を拭って。泣かないで梨恵。

 泣かないでくれ。梨恵。もし気分を悪くさせてしまったのならごめんね。

 違う? そう……。でも、そんなに泣かれると、僕はどうしていいのか分からなくなるよ。

 よしよし。梨恵、よく頑張ってくれたね。ありがとうね。もしかすると、僕がここへお邪魔することが、君にとってはとんでもない負担だったのかもしれないね。

 もう頑張らなくていいんだよ。明日からはゆっくり休んで。君らしく生きていてくれれば、僕は満足なんだ。

 智ちゃん? ああ、いいんだよ、智ちゃんでも、なんでも。君がそう呼びたいなら、好きなように呼んでくれ。

 よしよし。ありがとう。ありがとう。僕まで泣けてきちゃうから、そろそろ泣き止んで。ね?







 どうしてあなたはそんなに優しいの。どうしてそんなに良くしてくれるの。

 私なんて、そこら辺で野垂れ死にした方がいいような人間なのに。

 どうして、どうして、どうして。

 言葉にならない気持ち。言い尽くせぬ感謝と、感激が溢れた。

 泣いてはいけない。泣いたらせっかくの彼の誕生日が台無しになる。そう思えば思うほど、涙はとめどなく流れ続けた。

 ようやく泣き終えると、彼の袖は涙で濡れていた。慌てて謝罪したが、「なんもだよ」と、いつものように返され、そっとキスをされた。下手っぴな、彼らしいキスだった。

 帰り際、彼は言った。


「いつも君と一緒にいたい。これからもずっと、ずっと。僕らが年を取って、死んじゃうまで」


 プロポーズみたいね。私は泣きながら笑う。


「いつか本当のプロポーズをさせてください」


 彼は言う。

 私は笑った。「待っているよ」と伝えた。


 彼が帰った。後始末をしなければならない。流しの食器を洗い、お風呂に入り、薬を飲んで眠る。

 それをしなければならないのに、できなかった。先ほどのクッションの上に戻る。彼のぬくもりが残っている気がした。

 私は彼と一緒になりたいと思った。在りし日の兄の姿が一瞬、まぶたに浮かんだ。


「大好きだよ。愛してる」


 普段は私から言わない台詞を、一人で呟く。

 無音の部屋にハープの音色がふっと浮かび、消えた。狭い部屋に、パーティの余韻が静かに残っていた。

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