ささやかな誕生日(3)
『いよいよ明日だね。あんまり気を遣わないでね』
『大丈夫。ちゃんと準備できてるから』既読
『もし具合が悪くなったりしたら言ってね』
『ありがとう。でも、大丈夫だと思う。最近ずっといいから』既読
『うん。それならいいんだけど。梨恵は時々沈んじゃうから』
『ボートじゃないんだから、沈むなんて言わないでよ』既読
『ごめんごめん。とにかく、無理はしないでね。明日の6時にお邪魔するね。おやすみなさい』
六月一日、土曜日。遂に当日を迎えてしまった。
柴原の体調は良好だった。寝坊こそしたものの、何とかこの日まで体調管理ができたことは、自信になった。
前日、金曜の夜にいつものバーで会った時、青木は心配そうにしていたが、柴原は「大丈夫だから」と彼を安心させるため、笑顔を見せていた。
(今日さえ終えれば明日から死んだように眠りこけても大丈夫。部屋の掃除もしたし、クッションもちゃんと二人分あるし、料理も順調。ミネストローネはお昼過ぎにできたし、クリームパスタもあとはホワイトソースを作って仕上げるだけ。サラダは冷蔵庫に入ってる。ケーキもちゃんと受け取った。細心の注意を払って歩いてきたから、たぶん崩れたりはしてない。大丈夫、大丈夫。落ち着け、落ち着け)
柴原は自分を落ち着かせながら、そわそわと時間が経過するのを待った。
十七時を回った。約束の十八時まであと一時間を切った。ホワイトソースを作る準備を始めようかと立ち上がった際、チャイムが鳴った。
彼が来るには早すぎる。そっと覗き穴から窺うと、知らない中年のおじさんが立っていた。どうせ、NHKか新聞勧誘だろう。居留守を決め込むことにした。
ピンポン、ピンポンと二度チャイムが鳴らされた。うるさい。早く帰ってくれ。
もう一度、外の様子を窺うと、おじさんは既に立ち去っていた。一応郵便受けを確認したが、空っぽだった。
時刻を確認すると十七時半を回っていた。いけない、早くパスタを仕上げなければ。
青木は十八時ぴったりにやってきた。まるで時間になるまで外で待っていたかのようだったが、それよりも柴原を笑わせたのは彼の服装だった。
いつもの、濃紺の背広を着ていたからである。それもご丁寧にワインレッドのネクタイも締めて、これではお祝いされる側なのかお祝いする側なのか分からない。
「いらっしゃい」と彼を招き入れた後、柴原はしばらく大笑いした。青木は少しむっとした様子で、「何を着ていけばいいのか分からなかったんだ」と言い訳した。
「何を着ていくのか分からないにしても、そんなかっちりとスーツを着られたら、こっちもやりにくいじゃない」
「社会人の私服はスーツって習ったからさ……なんか、ごめん」
拗ねて見せる青木が可笑しくて、可愛く感じた。
柴原はグレーのロングTシャツワンピースに、青いデニム姿だった。彼女なりに一生懸命頑張った格好だが、背広姿の青木にすべて持っていかれた気がした。
「狭くて散らかってるけど……どうぞ」
柴原は玄関から洋室へ青木を招いた。白い木製のガラステーブルと、焦げ茶の丸いクッションが二つ、対面に並んでいた。
テーブルの上には既に料理が並べられており、出来立てのパスタは湯気を上げ、ミネストローネは輝いていた。トマトとアボカドのサラダが丸い皿に盛り付けられ、フォークとスプーン、そしてビールグラスが準備されている。
「おおー……これが、梨恵の部屋か……。すごいね、これ、全部作ったの?」
青木は感心した。料理もそうだが、柴原の家の中はまるでミステリーだったからだ。青木の家と造りはそれほど変わらない。
あまり広くはないフローリングの洋間。白い壁際にテレビが設置されているのも一緒だ。テレビ台の中には旧式だがブルーレイレコーダーが設置されている。少し羨ましかった。
テレビ台の横に、ジェンツーペンギンとキングペンギンの置物があった。三十センチほどの大きさで、リアルにできていた。
「梨恵、ペンギン好きなんだ?」
「え? あ、ああ……うん。好きなのかも……あんまり意識したことがなかったけど」
意識したことがない割には、ベッドの枕元にはペンギンのぬいぐるみが置かれ、テレビ台の上にもピングーのフィギュアがいくつか飾られていた。
部屋の中は清潔そのものだった。いつも彼女が「散らかってるから……」とか「汚いから……」とか言うのとは、正反対だと思った。
「あんまりまじまじと見ないで。恥ずかしいじゃない」
「ふふ。ごめんね」
「もう。智ちゃん、ビールでよかった?」
「ああ。嬉しいな。最近は発泡酒しか飲んでなかったから」
青木は、もう智ちゃんでも何でもよかった。緊張していたからだ。
「缶ビールで申し訳ないんだけど」と前置きしたうえで、柴原はビールグラスに生ビールを注いだ。ビールは金色に輝き、ちょうど見栄え良く泡立った。
「上手だね」
「そう?」
慣れた手つきで柴原は自分のビールにもグラスを注ぎ、奥の窓側のクッションに座った。
「さ、智ちゃんも座って座って。そんな、かしこまらないでよ。足を崩して。そうそう。胡坐かいて。それじゃ、お誕生日おめでとー。乾杯!」
キンと小気味いい音を鳴らし、グラスが躍った。
グイっと飲む。たまらない。ついつい、ぷはーっと声が出そうになるのを青木は堪えた。
「どうぞ、召し上がれ。うまくできてるといいんだけど」
「では、いただきます」
二人はクリームパスタを口に入れた。ホワイトソースの優しい味がした。実家で食べたパスタよりもずっと美味しいと、青木は思った。
「美味しい! すごく美味しいよ! 梨恵、お料理上手だね」
「ふふふ。ありがとう」
ミネストローネもサラダも美味であった。
旨い飯を食えば酒が進む。青木は緊張も解れ、ビールをお代わりした。
柴原も続いて飲んだ。三百五十mlの六缶パックがあっという間になくなった。
「ごめんね。五百にすればよかったかしら?」
「なんもだよ、十分さ。ご馳走さまでした」
ひとしきり食べ終え、買っていた酎ハイにも手が付いたところで、柴原は詫びた。青木は十分に満足していた。
旨い飯を食えた上に、久しぶりの生ビール。それも愛する人と一緒に。こんな幸せがあるだろうか。
「あのさ」
「ん?」
食器を流しに片付けた後、柴原が言った。
「あの、一応……ケーキとか、プレゼントとか、準備してるんだ。いま出すね」
柴原が冷蔵庫から小さな箱を取り出す。ぼんやりと、少し酔った青木がそれを見守る。
テーブルの上に乗せられた箱が開かれたとき、可愛らしい小さなデコレーションケーキが出てきた。
上にはイチゴが四つと、ホワイトチョコのプレートが置かれていた。アルファベットで何か書いてある。TOMOMIだけは理解できた。
「ちっちゃくてごめんね。どんなのが良いのか分かんなくて」
「いやいや、可愛くて良いじゃないか。ところでさ……これ、なんて書いてあるの?」
「えっ」
「ほら、これ、このプレート。TOMOMIは分かるけど、その前さ」
「……ないの」
「……ん?」
「分かんないの。私も。店員さんに三度も聞いたのに、聞き取れなかった……」
一瞬の静寂。そして二人とも、同時にぷっと吹き出した。大笑いだった。ハッピーバースデーとでも書いてあると思ったのに、書いてあるのはJから始まる見知らぬ言葉。
肝心の柴原すらなんて読むのか分からないなんて、酔った勢いもあって青木は涙が出るほど笑った。
「分かんないって、そりゃないでしょ、梨恵」
「だって、分かんないんだもん。グーグルで調べて、読み上げてもらったけど、やっぱり分かんないんだもん」
ケラケラと笑う青木に柴原も続いて笑った。
「ちなみに、意味は?」
「フランス語で、お誕生日おめでとう」
「へえ、フランス語。この間のは、それね」
ふむふむと、先日メッセージでやり取りしたフランス語の件を青木は思い出した。
「では、あけまして……じゃなかった、改めて! お誕生日おめでとうございます……」
また二人で大笑いして、青木は「ありがとう」と満面の笑みを浮かべた。
ケーキは丁度半分に切って、二人仲良く食べた。チョコのプレートは青木が食べた。口に運ぶ直前、改めて解読を試みたものの、何と発音するのかさっぱり分からなかった。
「あ、いけない、忘れるところだったわ。プレゼントがあるの」
少しして、ケーキを食べるのに使った食器を片付けた後、柴原が言った。
「プレゼント! 買ってくれたって言ってたよね」
「うん。気に入ってくれるといいんだけど……」
恐る恐るという感じに、ベッドの脇にある小さなチェストの中から柴原は袋を取り出した。青いラッピングがされた袋と、緑のラッピングがされた袋が出てきた。
「二つも? そんなにいいのかい?」
「う、うん。よかったら、開けてみて」
開けていいのなら、是非と思い青木は青い袋から先に開けた。
白く細長い箱が出てきた。さらに中を開けると、青地に紺の水玉が入ったネクタイが出てきた。
「わあ、青いネクタイか。とてもオシャレだね」
「ありがとう。もう一つも、どうぞ」
続いて緑の袋を開ける。黒い小箱が出てきた。開けると、黒く艶のある本革の名刺入れが出てきた。青い刺繍が可愛らしかった。
「おおー。今度は名刺入れ! 梨恵は気が利くなあ。こんなに素敵なプレゼントを、どうもありがとう」
「よかったら」
青木が礼を言うと、柴原が続いた。
「そのネクタイ……締めてみて。あなたの手で締めるところを見てみたいの。あ、タグとか付いてるよね。ハサミ……ええと、あった。はい」
言われるがまま、青木はネクタイを取り出し、小剣通しに付いていたタグを切り落とすと、おもむろに自身が締めていた古いワインレッドのネクタイを解き、新しいブルーのネクタイを結んだ。
「ど、どうかな?」
「うん! すっごく似合ってる! 智ちゃんにぴったりだわ」
「ありがとう……」
「ううん。私こそありがとう。ネクタイを解いたり、結んだりする姿を見るの、すごく好きなの。だからそれをやってもらいたくて、無理を言っちゃった。ありがとね」
お酒を飲んで紅潮し、てへっと笑う柴原が愛らしく、青木は頭を撫でた。亜麻色の髪はサラサラと美しかった。
「智ちゃんがスーツを着てきてくれたおかげね。さっきは笑っちゃってごめんなさい、ちょうど良かった」
「そうだね。偶然だけど、ちょうど良かった」
青木は同意した。そっと名刺入れを撫でた。つるつるとして、長年使っても持ちこたえてくれそうな頼もしさがあった。
「梨恵、今日は本当にありがとう。人生最高の誕生日だよ。本当に嬉しい。その……そっちへ行っても、いいかな?」
礼を言い、青木は少し照れながら柴原に尋ねた。隣に座りたかった。
「いいけど……あの、ごめんね」
「ん?」
「今日、生理中なの」
二人はまた盛大に笑った。
青木はよいしょと立ち上がると柴原の右隣に座り、そっと彼女の身体を抱き寄せた。シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
梨恵。今日は本当にありがとう。人生最良の日だよ。
ほんとだよ。こんなに嬉しいことってないよ。この世でいちばん好きな人が、僕のために料理を作ってくれて、ケーキやプレゼントも準備してくれて。
今日はスーツなんかで来ちゃって恥ずかしかったけど、結果的に良い方向へ進んだね。
最近、具合はどう? そう。良い感じなんだね。良かった。
なかなか復職できなくて、辛いよね。早く戻りたいんだろうなって気持ちがとっても伝わるし、今日のために梨恵が一生懸命準備してきてくれたんだと思うと、嬉しくて嬉しくて堪らないよ。
僕は君が苦しい時、なにもできなくてとっても歯がゆく思ってる。
起き上がれないくらい苦しい日があるって言っていたよね。そんな時、傍にいられれば、ほんの少しでも役に立てるかもしれないのに、それができなくてごめんね。
この間、ゲームを見る君がとても新鮮に思えた。そういうものとは無縁だと思っていたから。
マリオは知ってるんだ? ぷよぷよも。へえ。懐かしいね。マリオ、僕はちょっと自信あるよ。幼稚園の頃からずっとやってたから。今は鈍ってるけど、ちょっと遊べばすぐ戻るさ。
梨恵。君は美しいよ。亜麻色の髪も、その顔も、身体のラインも、服のセンスも、何もかもが美しい。何よりも君の美しさを引き立てるのは、君の透き通るような声だよ。
まるでハープの音色を聴いているかのようなんだ。臭い? ははっ、そうかもね。でも、本当なんだよ。
本音を言うとね、毎日だって君の傍にいたいと思っている。いつだって、君のことが頭から離れない。恋の病かな? 三十一にもなって恥ずかしいけど、まともな恋愛ってあんまりしたことないから、こんなもんなのかなあ。
心配で心配で仕方がないんだ。君のことが。今日はちゃんとご飯を食べたんだろうか。薬を飲んだんだろうか。眠れたんだろうか。倒れていないか、クルマに轢かれていないか、変な人に襲われていないか。
想像力が少し、豊か過ぎるかもしれないね。でも、いつも本気で心配している。
あのバーで出会った後、僕は君と「お互い常連」の関係のままでいようと思った。でも、ある切っ掛けで君と話すことができた。頑張れて良かったよ。本当に、本当に良かった。
だって、そうじゃないと、君とこうして抱き合うことも、新しいネクタイを受け取ることもできなかったんだから。人生、何が自分を変えるか分からないね。
最近、仕事帰りに発寒中央駅に立つと、君の家に向かいそうになるんだ。まるでそっちが本当の家で、いま住んでいる家は借り物みたいな。
あはは。変だよね。アパートなんだから、どっちみち借り物なんだけどさ。
梨恵。本当に、本当にありがとう。
なしたの? なんで泣くの? 何かまずいこと言っちゃったかな。
ええと、ティッシュは、ああ、あったあった。ほら、これで涙を拭って。泣かないで梨恵。
泣かないでくれ。梨恵。もし気分を悪くさせてしまったのならごめんね。
違う? そう……。でも、そんなに泣かれると、僕はどうしていいのか分からなくなるよ。
よしよし。梨恵、よく頑張ってくれたね。ありがとうね。もしかすると、僕がここへお邪魔することが、君にとってはとんでもない負担だったのかもしれないね。
もう頑張らなくていいんだよ。明日からはゆっくり休んで。君らしく生きていてくれれば、僕は満足なんだ。
智ちゃん? ああ、いいんだよ、智ちゃんでも、なんでも。君がそう呼びたいなら、好きなように呼んでくれ。
よしよし。ありがとう。ありがとう。僕まで泣けてきちゃうから、そろそろ泣き止んで。ね?
どうしてあなたはそんなに優しいの。どうしてそんなに良くしてくれるの。
私なんて、そこら辺で野垂れ死にした方がいいような人間なのに。
どうして、どうして、どうして。
言葉にならない気持ち。言い尽くせぬ感謝と、感激が溢れた。
泣いてはいけない。泣いたらせっかくの彼の誕生日が台無しになる。そう思えば思うほど、涙はとめどなく流れ続けた。
ようやく泣き終えると、彼の袖は涙で濡れていた。慌てて謝罪したが、「なんもだよ」と、いつものように返され、そっとキスをされた。下手っぴな、彼らしいキスだった。
帰り際、彼は言った。
「いつも君と一緒にいたい。これからもずっと、ずっと。僕らが年を取って、死んじゃうまで」
プロポーズみたいね。私は泣きながら笑う。
「いつか本当のプロポーズをさせてください」
彼は言う。
私は笑った。「待っているよ」と伝えた。
彼が帰った。後始末をしなければならない。流しの食器を洗い、お風呂に入り、薬を飲んで眠る。
それをしなければならないのに、できなかった。先ほどのクッションの上に戻る。彼のぬくもりが残っている気がした。
私は彼と一緒になりたいと思った。在りし日の兄の姿が一瞬、まぶたに浮かんだ。
「大好きだよ。愛してる」
普段は私から言わない台詞を、一人で呟く。
無音の部屋にハープの音色がふっと浮かび、消えた。狭い部屋に、パーティの余韻が静かに残っていた。




