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亜麻色の彼女  作者: 藍月ゆう
8/11

ささやかな誕生日(2)

『こんばんは。今、時間大丈夫?』既読


『うん、大丈夫だよ。なしたの?』


『急だけど、今週の土曜日って空いてる?』既読


『空いてるけど』


『じゃあ、夜の6時に私の家に来てくれる?』既読


『え、なしたの急に』


『お誕生日パーティをしようよ』既読


『それはありがたいなあ。分かった。6時ね』







 六月一日の土曜日が、青木の誕生日だった。柴原はスマホでメッセージを送りアポを取ると、急いで身支度をした。

 今日は五月二十七日の月曜日。あと五日でプレゼントの用意と、当日のメニューを決めて、この忌々しい部屋の片付けをしなければならない。

 まず、プレゼントは何がいいか思案した。

 そうだ、ネクタイだ。彼はいつも濃紺や黒の背広にワインレッドのネクタイを締めている。似合っていたけれど、少し地味だとも思っていた。思い切ってブルーのネクタイなんかどうだろうか。

 ネクタイだけだと少し物足りない気もした。何がいいだろう……。

(男の人って、何を使うのか分からない。マグカップ……うーん、ちょっと違う。安すぎる。文庫本とか? もう読んでいたら取り返しがつかない。さっきより安いじゃない。ブックカバー……これもなんか違うわね。お財布……予算オーバー。何かもっと使いそうなやつ。そうだ、彼はよく他の会社の人と会うって言ってたから、名刺入れなんてどうかしら。うん、ぴったり。名刺入れなら、ネクタイと一緒に贈っても自然だし、使ってくれるかどうかは別にしても邪魔にならない。そうだ、そうしよう)

 柴原はトイレでぼんやり考えながら、ネクタイと名刺入れを買うことに決めた。便秘気味なのはいつものことだった。

 このアパートは狭いが新しいので、世界に冠たる日本の技術の結晶・ウォシュレットが完備されていた。ウォシュレットの有無でアパートを選んだと言っても過言ではない。

 どんなに散らかしても風呂とトイレは清潔でなければならない。柴原家の家訓であった。







 発寒中央駅から札幌駅まで、僅か十分足らずで到着した。

 まっすぐ南口方面、大丸札幌店へと向かった。六階の紳士服・紳士雑貨フロアを見渡す。

 いろいろなネクタイがあった。黒っぽいやつ、赤いやつ、緑のも紫のも、どうしてこんなに種類があるの?と聞きたくなるくらいだった。

 一本のネクタイが目に入った。青地に紺の水玉模様。シルク百パーセントの上物だった。

(そうだ。これにしよう。ちょっと可愛すぎるかもしれないけど、智ちゃんの顔立ちに似合う気がする)

 値段はそれなりだったが、「長く使えますよ」とラッピングをしながら店員が補足を入れてくれた。

 次に名刺入れだ。これは迷った。メタルのもあれば、皮のもある。

 智ちゃんはどんなのが好きなんだろう……と考えてもよく分からなかった。青木が使う財布は茶色の折り畳みだったが、名刺入れなんて見たこともなかったし、そもそも持っているのかすら定かではなかった。

 迷った挙句、黒の本革にした。光沢のある本革に、青い刺繍がされている。ネクタイの色と合わせたつもりだった。可愛すぎただろうか。

 やはり店員が「これは長持ちしますよ」と、ラッピングが終わってからにこやかに言ってくれた。

 柴原は自分が長生きするかは別にして、自分が生きた証として、自分が死んでしまった後も彼がこれを使い続けてくれたら、とても幸せだと思った。

 その後は、久しぶりに街へ出てきたので、ヨドバシカメラで最新家電を眺めたり、紀伊国屋書店で文庫本を漁った。今は4Kテレビという技術があるらしい。今使っているパナソニックの三十二型液晶テレビよりずっと大きく、もっと薄く、映像は遥かに美しかった。

 世の中はどんどん進歩しているんだなあと、何だか老人になったかのようだった。

 思えばうつ病で休職してから、世の中の動きというものから、置き去りにされている気がした。置き去りにされたのではなく、自ら歩むことをやめてしまったのかもしれない。立ち止まっている場合ではないのに。

 世界中にいろんな国や物があるけれど、時間だけは、正確に、確実に、残酷に、刻一刻と過ぎていく。

 札幌駅に戻ると中国人団体の観光客がやかましく騒いでいた。北京語なのか上海語なのか知らないが耳障りだと思った。身なりを見ればすぐに彼らは分かる。日本人の服装と中国人の服装は、何かが決定的に違う。具体的に何かまでは、柴原も答えられないが。

 帰宅したのは十四時頃だった。そんなに長居したわけでもないのに、酷く疲労を感じた。人混みに呑まれてしまったのかもしれない。

 うつ病が一番酷かった頃は、こんなものではなかった。動悸が激しくなり、立っていられなくなった。

 今ではそんなことは起こらない。ずいぶん良くなったはずなのに、心療内科の先生はまだ復職の診断書を作ってくれない。休職期間だけが長引いていく。

 玄関でシューズを脱ぐと、今度はめまいを覚えた。壁に手を突き、暫しじっとする。めまいにはこれが一番良いと柴原が知ったのは、つい最近であった。

 部屋で何度か倒れたことがあった。その後学習し、めまいが襲ってきたときはぐっと手に力を込め、壁に寄り掛かる。すると少し時間が経てばめまいは消える。うつ病になってから、こんな知識ばかりが増えた。

 その日はもう何もする気にならなかったので、夕方にシャワーを浴び、簡単な夕食を済ませると早めに眠った。久しぶりにぐっすりと眠れた。







『プレゼントを選ぶのって難しいのね』既読


『そんな気を張らないで』


『うん、ありがとう。今日、買えたよ』既読


『なんも気を遣わなくていいのに』


『いいの。私が買いたかったから』既読


『ありがとうね。土曜が楽しみだな』







 翌日、柴原は近所の洋菓子店ポミエへ向かった。

 フランス語でリンゴの木を意味するらしい。可愛いリンゴの看板が目印だった。


「いらっしゃいませ!」


 自分より若そうな女性の店員が元気良く挨拶した。

 曖昧に会釈を返し、「誕生日ケーキの予約ってできますか?」と柴原は尋ねた。店内は生クリームの良い香りが広がっていた。


「はい! 承っております! どのようなケーキをご所望ですか?」


(ごしょもう。ああ、どんなのがいいかってことか。難しい言葉を遣うのね)


「ええと、普通のでいいんです。あんまり甘ったるくない、普通ので」


 思えば青木がどんなケーキが好きか、柴原は知らなかった。無難に生クリームとイチゴが乗ったケーキにすれば間違いはあるまい。

 これを嫌いと言う人に会ったことがないし、彼が甘党なのは知っていた。よく職場でどら焼きなんかを食べているらしい。ドラえもんみたいね、と笑ったのを思い出した。


「では、イチゴの乗ったデコレーションケーキでよろしいでしょうか? サイズはいかがなさいますか?」


「はい。それでお願いします。サイズは……ええと、一番、ちっちゃいので。大人二人が、ちょうど食べ切れるくらいのを」


「かしこまりました! では三号ですね」


 三号がどの程度なのか知らなかったが、数字の若さから小さいんだろうなというのは伝わった。

 「蝋燭は?」と聞かれたので「要らないです」と答えた。なんとなく、小さなケーキに蝋燭は不釣り合いな気がしたし、照れてしまったのだった。


「では、三号のイチゴのデコレーションケーキを、六月一日の土曜日に、ですね。メッセージは何と書きましょうか?」


 えっ、と柴原は躊躇った。

 メッセージ。そうだ。誕生日ケーキにメッセージは付き物ではないか。全く考えていなかった。無難に英語でハッピーバースデーがいいだろうか。日本語でお誕生日おめでとう……これはちょっと、アンバランスかな。


「フランス語でお誕生日おめでとうは、なんと言うのですか?」


 ポミエがフランス語だと思い出し、柴原は聞いた。


「Joyeux Anniversaireですね」


「えっ?」


「Joyeux Anniversaireです。お名前は?」


「あ……智実です。その……」


「Joyeux Anniversaire TOMOMIですね。承知しました」


 店員が何と言ったのか全く聞き取れなかった。

 流暢なフランス語で何か早口で言われたが、三度聞いても三度とも理解不能だった。とりあえずお誕生日おめでとうなんだろう。

 ちょっとオシャレに……とフランス語をチョイスしたのは間違いだっただろうか。店員がメモを取っている。


「あの、お会計は……」


「ああ、当日にお願いします。何時頃にいらっしゃいますか?」


「えっと、じゃあお昼の三時くらいに」


「かしこまりました。ありがとうございました!」


 最後まで店員は元気だった。

 柴原は何とか先ほど店員が披露したフランス語を暗唱しようとしたが、何度試してもふにゃふにゃと猫の言葉みたいな音が出るだけで、結局何と言っていたのか不明なままだった。







『ねえ、フランス語って分かる?』既読


『いや、さっぱり』


『だよねえ。私も分かんない』既読


『なんだよこの話題は笑』


『何でもないの笑 明日、お買い物に行くね』既読


『うん、気を付けてね』







 五月三十日。木曜日。柴原は近所のジェイ・アール生鮮市場で買い出しをしていた。

 明後日の献立は決まっていた。ほうれん草とベーコンのクリームパスタと、ミネストローネと、トマトとアボカドのサラダ。

 レシピはすべて、スマホで確認した。普段イタリアンなど作ることは滅多にないし、食べることも少ない。

 この献立にしたのは材料費があまり掛からなさそうだったことと、案外簡単に作れること、そして見た目がちょっぴりオシャレ。これに尽きる。

 青木と初めてデートした日もレストランでイタリアンを食べた。あの時ほど美味しいものは作れないが、ほんの少しでも彼が気に入ってくれたらと思った。

 お酒は……と思い、彼はワインが苦手なのを思い出した。

 柴原の中でイタリアンといえば、ワインである。なのにワインが苦手なら、どうしたものか。

 彼はビール党だった。ハイボールや焼酎も好きだし日本酒も好きだった。なんか、ラズール・モヒートとかもバーで飲んでいた気がする。自分と飲んでいる内に、前よりお酒が好きになったと言っていたのを思い出す。

 ラズール・モヒートは造り方が分からなかったので、悩んだ挙句、結局缶ビールと酎ハイにした。どこか貧乏くさい気がしたが、好きな飲み物とケーキとプレゼントがあればきっと喜んでくれる!と自分に言い聞かせた。

(準備はできたと思う。あとは、ここまで順調に来ている体調と、お料理が上手にできれば。あ、あとケーキも取りに行かないと。料金がいくらなのか聞いていなかった。二千円もあれば足りるのかな)

 柴原は不安になったので、念のため最寄りの北洋銀行でお金を下ろし、帰宅した。

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