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亜麻色の彼女  作者: 藍月ゆう
5/11

一週間の日記

五月一日(水)


 今日から新しい元号が始まった。四月の発表時、菅官房長官が持った額縁には大きく「令和」と書かれていた。

 れいわ。れいわ。れいわ。

 改めて三度ほど呟いてみた。いい響きだと思った。

 三十年と数ヶ月続いた平成が終わった。私が生まれ育ち、働いて心を病んだ時代が終わったのだ。

 まったく何も実感が湧かないまま時代だけが、時間だけが流れていく。今日は彼と会う日だったのに、私の体調不良で中止になった。最近忙しいなか、わざわざ時間を作ってくれたのにも関わらずだ。

 自分の病と不甲斐なさが悔しい。私が元気なら、彼にも、職場にも、なんの迷惑もかけなかったのに。

 天皇陛下は上皇陛下になったそうだ。皇后さまは上皇后さまと呼ぶらしい。皇太子さまが新しく天皇陛下に即位されたのに、不思議なくらい違和感がない。

 街やテレビでは新時代到来、記念セールと沸いている。私の心だけが暗いまま。ずっと地を這っている気がする。

 彼は今、何をしているのだろう。一人でコンビニ弁当を食べながら、ビールを飲んでいるんだろうか。

 彼に申し訳ない気持ちになったので眠ろうと思う。亜麻色の髪を撫でる。明日は元気になっていればいいな。



五月二日(木)


 朝から起きられなかった。起きようと思っても身体が言うことを聞いてくれなかった。

 死にたい。死にたい。死にたい。

 何度も心の中でつぶやいた。医者が処方してくれた薬を飲まなきゃならないから、仕方なくもぞもぞと菓子パンを食べて、ぬるま湯で飲んだ。

 再び横たわり左胸に手を当てる。心臓の鼓動が聞こえた。

 止まれ。止まれ。止まれ。

 何度も胸を掴み、念じた。鼓動はおさまらなかった。

 夜になると急激に空腹を感じた。料理をする気力がなかったので、近所のスーパーで簡単なお弁当を買ってきて食べた。

 美味しくも不味くもなかった。私にとってこのお弁当は、薬を飲むためだけの栄養食であり、それ以外の何物でもないと思ったからだ。

 世間は十連休らしい。私はかれこれ一年近くも毎日が日曜日なので、十連休と言われてもピンとこない。彼は連休が取れなかったと嘆いていたので、きっと今も職場にいるのだろう。

 今年は例年よりも、ずっと早く桜が咲いたと報道されたのを思い出した。

 彼とお花見に行きたいな。

 明日は金曜日だからいつものバーに行こう。きっと彼も来てくれる。あそこへ行けば、なぜだか気持ちが安らぐ。



五月三日(金)


 今日は朝から気分がよかった。コーヒーを淹れて飲むことができたし、トーストも上手に焼けた。

 連休の浮かれた感じがテレビから伝わってくる。隣の部屋に住む若い男性がバタバタと掃除をする音が聞こえた。恋人を招くのだろう。

 中島公園の桜はそろそろ散り始めているのだろうか。お昼過ぎに近所をお散歩をしたが、街路樹の桜は既に葉桜に変わりつつあった。

 自分だけ置いてけぼりにされている気がした。桜前線はあっという間に道東方面へと足を延ばしているらしい。

 何もせず、何も生み出さず、ただただ自堕落な生活を送っている。

 夜になって、いつものバーへ行った。マスターにはいつもの順序でお酒を出してもらった。

 彼が来店したのは二十時を回った頃だった。今日は仕事をしていたらしい。「連休中にご苦労様です」と、マスターが労っていた。

 彼と私はこのお店で知り合った。一番最初に彼を見たのは、確か去年の年末だったように思う。私がいつものようにマスターへ近況を話していると、珍しく私以外のお客さんが来たから、二人して一瞬目を合わせた記憶がある。

 それから毎週、私が通うのと同じ金曜日に彼はやってきた。彼が来ると私とマスターの会話は途切れた。どんなに話の途中でも、そこで会話は打ち切り、あとは押し黙って静かにお酒を楽しむのが定番になっていた。

 彼は入り口から二つ目の席にいつも座っていた。私はいつも一番奥の席だった。

 会話もなく、黙ってお酒を飲む私たちと、お酒を作るマスター。静かなバーにはよく似合う光景だと思っていた。

 そんな静けさが終わったのは二月の中旬頃だったろうか。一番しばれる季節に、彼から唐突に白ワインを贈られた。

 なぜ急にワインを……と思ったが、人の好さそうな顔に惹かれるものがあった。正式に交際が始まったのはもう少し先のことだったと思う。

 今は三人で、いろんなことを話すようになった。とても静かだったバーに、ほんの少しの活気が出た。

 毎週欠かさず通う私たちを、マスターはいつも温かく迎えてくれる。

 これ以上をあそこに求めてはいけないと思う。

 今日はちょっと飲みすぎたかもしれない。早めに眠ることにする。



五月四日(土)


 朝から怠かった。昨日のお酒が残っていたのかもしれない。

 彼と久しぶりに会えて嬉しかったからだろうか。バーで飲むと、その夜は必ず彼と愛し合うようになっている。

 彼の住むアパートは桑園発寒通り沿いの賑やかな場所にある。物静かで気弱で内気なのに、私を愛する時だけはちょっとだけ強気になる彼が、とても愛おしく思えた。

 一人暮らしの男性の部屋をあまり知らないが、彼の部屋は無駄な物が一切なく、白い小さなテーブルとベッド、小さなタンスとノートパソコン、部屋に備え付けのクロゼットとテレビ台に、あまり使っていないという液晶テレビが置いてあるのみだった。

 彼の部屋へ行く度に我が家が酷く汚らしく感じ、羞恥心を持つ。

 愛し合っても、泊まったことだけは一度もなかった。

 何かお互いに、家に泊まるという行為は避けている気がした。私の家に彼を招いたことも、まだ一度もない。

 散らかっているからというのもあるが、生活感のない彼の家に比べ、我が家は雑然としすぎている気がするからだ。

 うつ病など他人に伝染するはずがないのに、私の家に入った途端、彼も生気を失ってしまうのではないかと恐怖がある。

 辛いのは私だけで十分なんだ。私が苦しんでいる時、いつも傍に寄り添って、手を握ってくれる彼がとても好きだった。

 気分が悪いと言えば背中を擦ってくれて、元気が出ないと言えば手を握ってくれる。私には勿体ないくらい、優しすぎる人だと思う。

 今日は薬を飲むためだけに食事を摂り、薬を効かせるためだけに横になった。

 大型連休はもう少しで終わるらしい。



五月五日(日)


 こどもの日だ。

 朝起きて、ふと思った。コーヒーを淹れてトーストを焼いた。今日は気分が悪くない。

 端午の節句になるといつも思い出す。私には三つ上の兄がいた。

 まだ幼かった頃、お父さんが大きな鯉のぼりを家に立てて、道行く人から羨ましがられた記憶がある。

 私の兄は、私が小学二年生の時に事故死した。夏の暑い日、野球をしに行ったきり、二度と帰ってこなかった。

 まだ小さかった私は兄が死んだことを実感できず、兄の帰りをいつまでも待っていた。

 お母さんに聞いても、お父さんに聞いても、兄は帰ってこなかった。

 ある日ふと、兄の持っていたプロ野球選手のサイン入りボールを手に取ってみた。

 「柴原康太くんへ」と書かれたボールを見て、私はなぜか急激に兄がいなくなったことを悟り、わんわんと泣いた。お兄ちゃんが死んじゃった、お兄ちゃんが死んじゃったと、お母さんに泣きつくと、お母さんも一緒に泣いた。

 サインボールは、中学を卒業してから引っ越した厚別にある私の実家に、今も飾られている。

 久しぶりに雨が降った。せっかくの祝日なのに勿体ないと思った。

 夕飯はカレーライスを作った。食材が尽きてくるとカレーを作るのはいつもの習慣だった。これで三日は持たせられる。

 もしかすると、私は遠い昔に失った兄の存在を、彼に感じているのかもしれない。愛情以上の何かを。彼と兄は雰囲気が似ていることに気が付いた。

 野球が上手だった兄は、普段は偉そうにしていたのに、実はちょっと内気で、それでも心を開いてくれるととても優しくしてくれた。

 彼はなんとなく、似ている。顔は似てないけど。



五月六日(月)


 昨日とは打って変わって良い天気だったので、今日は朝からお散歩をした。

 ぎんなん通り沿いの焼鳥屋さんの軒先に、ヒナがいた。

 ヒナは黒と白のぶち模様を持つ雑種の野良猫で、日向ぼっこが好きだからヒナと呼ばれていた。以前、餌をあげていた店主のおじさんが教えてくれた。

 「おはよう」と挨拶したが、こちらをじろりと睨んだだけで、うんともすんとも言わなかった。せめて「にゃあ」くらいの愛想を振りまけばいいものを、ぶすっとした態度で可愛げがなかった。そんな姿が愛らしいと思った。

 喫茶ロマンで昼食を摂った。サンドウィッチとコーヒーを頼み、読みかけだった小説を読了した。先日、ここで中学時代の同級生とばったり会ったことを思い出した。

 岡本くん。名前も存在もすっかり忘れていたのに、声を掛けられた途端、記憶が戻ってきた。

 決してイケメンとは言えない。太い眉毛と一重まぶたとふっくらした頬は恵比須さまのようで、昔から「福耳がない恵比寿さま」と呼ばれていたのを思い出した。

 そんな彼が今はJR北海道で働き、北海道新幹線の仕事をしているらしい。途方もなく遠い駅の名前を口にしていた。奥津軽……なんだっけ。

 青森県に住んでいて、奥さんも青森で知り合った人だとか。娘さんもいると話していて、私くらいの年齢なら別に不思議なことでも何でもないのに、クラスメイトだった彼が親になったのは、どこか不思議に思った。私よりもずっと大人に感じる。

 別れ際に「幸せになってくれ」と言ってたっけ。帰宅途中の高校生も沢山いたのに、恥ずかしかった。

 夜、昨日の残りのカレーを食べてから、彼と電話した。彼は仕事だったらしく、世間とはあべこべで明日から三連休らしい。具合はどうかと聞かれたので、最近は調子がいいと答えたら嬉しそうにしてくれた。明日、会うことになった。



五月七日(火)


 ダメだ。身体が全く動かなくなってしまった。鉛のように重い。

 夜明けの時点で頭痛が酷かった。悪夢を見た。職場で怒鳴られる夢。

 何度も何度も同じことを繰り返し言われ、堪らず私も言い返すのだが、ますます上司を怒らせてしまう悪循環としか言えない、そんな夢だ。

 この病気になってから何度も何度も同じ夢を見る。黙ってやり過ごすことができない自分の短気が恨めしい。

 朝に彼へLINEを入れた。


「ごめん。具合が悪い。明日にして」


 少しすると既読が付いた。


「なんもだよ。お大事に」


 彼からの返事はそれだけだった。

 寝込む私を気遣って短いメッセージにしてくれたのかもしれないが、もしかして見捨てられたかと思った。薬を飲む元気もなかった。朝食用のパンも切らしていた。何もかもダメな一日になる。そう思った。

 玄関のチャイムが鳴った。出る気はなかった。今日は一人にして欲しい。宅急便でもNHKの集金でも、新聞の勧誘でも、無視を決め込もうと思った。

 死にたい。死にたい。死にたい。消え去りたい。この世から消え去りたい。

 もう何もかも捨てて、あの世にいる兄に会えたら幸せになれるだろうか。

 処方されている二週間分の睡眠導入剤を全部飲めば、安らかに死ぬことができるのだろうか。

 そんな無益なことを考える。睡眠導入剤ごときで死ねるはずがないのに。

 トイレで用を足す以外、何もする気になれなかった。トイレすら、こっちに来いと思った。

 ベッドでうずくまる。常に何かから追われているような、そんな焦燥感がある。

 耳鳴りがした。ピーと電子音のような音が右耳だけに鳴り続けた。耳に手を被せて音を遮蔽しようとするが、耳鳴りは中から響く。

 ふと、ヒナのことを思い出した。

 私はヒナになりたいと思った。焼鳥屋さんの店主から餌をもらい、そこら辺で日向ぼっこをし、眠りたい時に眠り、適当に発寒中央駅付近をうろうろする。

 書いていて、自分もヒナと同じではないかと思った。

 毎日が日曜日。休職中の私は、傷病手当金で食い繋ぎ、駅付近をうろうろし、彼に寄生するように交際し、週末はバーでお酒を飲み、二週に一度だけ伊藤心療内科で診察を受ける。

 野良猫がいるのなら、私は野良人間だと思った。

 彼に飼われている、のかもしれない。

 ダメだ。早く死んでしまいたい。

 彼の顔と、兄の顔が心に浮かぶ。今日は眠るとしよう。

 もしも夢で会えたなら、どんなに幸せだろうか。

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