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亜麻色の彼女  作者: 藍月ゆう
29/30

覚悟(1)

 北国の短い夏が過ぎ去り、秋を迎えていた。九月十九日の木曜日である。

 真夏日なんてものはまるで観測されなくなり、夜になると秋の虫たちが鳴き始めていた。

 日はすっかり短くなってしまい、外出時は長袖の服装でなければ、朝晩の冷え込みに耐えられない。

 自宅アパートから発寒中央駅方面へ向かう、ぎんなん通りを南へ歩けば見える手稲山の木々の色は、徐々に緑から黄色や橙へと変化し始めているように感じた。初雪はまだ先にせよ、秋が到来しているのである。

(あーあ。今年の夏も休職して終わっちゃった。一体いつになったら戻れるのかしら……)

 時刻は十七時過ぎ、上下グレーのスウェット姿で愛用のラヴィに向かいながら、柴原は心の中で愚痴をこぼした。兄をモデルにした物語「IF」は執筆を始めて一ヶ月が経過したが、なかなか進まなかった。

 何しろ自分がルールをほとんど理解していない野球について書かなければならないので、図書館へ出向いて野球の漫画を読んでみたり、テレビで中継されているファイターズ戦を観てみたりいろいろと頑張ってはいるのだが、どうにも覚えられない。

 ゴロとか浅いフライとか単純な打球なら観ていても分かるのだが、どうしてもライナー性の当たりが飛ぶと、アウトになる角度でも「抜けた!」と思ってしまうし、単なる犠牲フライを「ホームラン!?」とか思ってしまう。

 自分に野球は向いていないんだなあ……と、柴原は自信を失っていた。

(そもそも物書きのセンスがないんだわ、私には。だって書くセンスがある人なら、何も無いところからでも物語を作って、ちゃんと書けるはずだもん。私はお兄ちゃんっていうモデルがいて、私というモデルがいて、野球という題材があるのに、ちっとも話が進まないんだから、センスがない。そうに決まってる。はあ。これじゃ智ちゃんに読ませられないわ……)

 つい先日もボークというルールを知り、調べてみたが意味がチンプンカンプンで、IFの主人公ワタルはショートだからピッチャーの心理を細かく描く必要はないにせよ、例えば満塁のピンチでどう失点してしまうのかを書き進める場合、押し出しの四球なのかタイムリーなのかなんて考えていたら、ボークなんて単語が出てきて柴原は閉口した。

(野球ってすんごく難しいのね……。でもボークって、かなり曖昧な気がするルールなのに、どうしてみんな「あれ?」って顔をして、審判の人は「ボーク」と判定できるんだろう。私だって中継はちゃんと観てるつもりだけど、ピッチャーがボークをしたかどうかなんて、そこまで分からないわ)

 はあ、とため息をついた。窓越しに鈴虫の声が聴こえた。ああ、秋なんだなあ。復職もできず、一体自分は何をしているんだろうと思った。

 小説を書くという趣味を持ってから、柴原のうつ病は見る見るとまではいかないが、確実に回復しており、書いている時は夢中になれたし、二週に一度だった診察は、先日とうとう一ヶ月に一度になった。次の診察は十月七日の月曜日だ。しかしそれでも復職の許可は下りなかった。

 こんなに元気になったのになぜかと伊藤先生に抗ったが、「状態が良いのを一ヶ月以上持続できなければ、復職させるわけにはいきません」と優しく諭されてしまった。

 言われてみれば、確かにあれから体調が良くなったのは感じているが、時々心が沈み込みどうにもならないことがある。

 朝に起きられる日もムラがあり、ちゃんと通勤時間に間に合う時分に起きられる日もあれば、起きてみればもう十時を回っている日もあった。確かにこんな状態で復職しても、一週間やそこらで音を上げてしまうだろう。

(まだまだ先は長い。そんなに焦ってはいけない)

 自分に言い聞かせるが気持ちは焦る。傷病手当金とて永久に支給されるわけではない。このままずるずると復職できずに休職期間ばかりが長引けば、今の保育園に在職し続けることだって難しくなるかもしれない。

 うつ病にせよ双極性障害にせよ、同じように焦りは生じる。社会は自分の母親ではないのである。

 そんな悩みや不安を抱いている柴原は、IFを書くため、気晴らしも兼ね昔住んでいた西野の街を散策したりしていた。

 懐かしい閑静な住宅街だったが、新しいマンションが建っていたり、古かった一軒家が新築のアパートになっていたり、子供の頃はとても広く感じた小学校のグラウンドが、大人になると狭く感じたりと、確実に街は変化しているのを実感していた。

(私だけ何も変わってない。私だけ病気と向き合えてなくて、私だけ仕事に戻れない……きっとこのまま戻れないんだ……)

 考えれば考えるほど柴原は暗くなった。うつ病の患者が陥りやすい負のスパイラルである。そしてこれは目に見えないから、他人からすればいたって普通に過ごしているように見える。

 だからこそ恐ろしい病なのである。真に自分が今どれだけ苦しい思いをしているのかを発信しない限り、誰からも「具合が悪そうだ」とか察してもらえない。孤独な病だ。

 柴原の容態は良くなったし、書く行為に生き甲斐を感じ「死にたい」と念じることもなくなってはいたが、だからといって「健康になった」とは言い難い。本人からしても周りからしても、なんとも難しい状態だった。

(ああ私はきっと、永久にうつ病と向き合わなければならないんだわ。だってそうよね、もっと早く治る人だっているだろうし、こんなに長々と続くなんて、呪いでもかけられたのよ、きっと。誰からかしら。お兄ちゃん? まさかね。お兄ちゃんはそんなことしないわ。誰かしら。私のことを殺したいくらい恨んでいる人なんて、いるのかな。そんなことしたっけ。分かんない。分かんないけど怖い。誰かから呪われてクルマとかに撥ねられて死ぬなら、私はそれでもいいのかもね……)

 柴原は胸の中で何度も何度も無益なことを考え、亜麻色の髪を持つ頭を抱えた。

(そうだ、まずは部屋を片付けた方が良いんだわ……。こんな汚い部屋に住んでいるから、私の心も散らかって、悪いイメージを持ったり、話が全く書けないんだわ。だってワタルの部屋は散らかってる設定じゃないし、妹のミカだって私みたいに雑な人間じゃないもん)

 IFは主人公である野球少年ワタルが、三つ下の妹ミカと普段の生活を過ごしながら、徐々に成長し、話はワタルが中学に上がろうかという場面に来ていたが、中学の野球部にワタルが入部するのを決心するところで筆は止まっていた。そもそも中学の野球部がどんなもので、何をしているのか分からなかったからだ。

 漠然と野球だけをしているのだろうと思ったがそんなことはなく、グラウンドの整備をしたり道具の片付けや管理だってしなければならない。

 柴原は中学時代から部活に所属したことがなかったので、具体的にどんな活動をして、何時頃になったら帰るのか等をいちいち調べなければならなかった。

 それに中学の部活と言えど、他校との練習試合や合宿、大会だってある。柴原は知らなかったが、世の中には硬式野球と軟式野球があり、やっている内容は同じ野球だが、使っているボールの素材が違い、試合展開はまるで変わるのだから、元々野球音痴な彼女にとって、もはや野球の物語を書くのは諦めようかと思い始めたくらいである。

 一応、IFの主人公ワタルはプロ野球を目指すので、柴原は調べていく内にプロ野球は硬式と知ったため、ワタルは硬式野球部へと進む道を決心したのだが、それからが難しい。何度も書いては消し、書いては消しで、ワタルはなかなか部活動をさせてもらえない。

(ワタルが可哀想だわ……)

 柴原はがっくりとした。この調子ではいつまで経ってもワタルは少年のままで、ミカは少女のままであろう。プロ野球どころか中学も卒業できない。いや、そもそもやっと入学したところである。

(そうだ。智ちゃんは部活とかやってなかったのかな? 智ちゃんに相談したいな)

 ふと思いついた。そう言えば青木が部活をやっていたとか、そういう話を聞いたことがないし、そもそもどこの中学や高校を出ているかも知らなかった。

 考えてみれば、青木は白石のソフト会社で働いているが、彼の経歴など聞いたことがない。

 彼自身、自ら経歴なんかを話そうとするタイプでもないし、自分の経歴だって短大を出て保育園で働いているくらいしか説明していない気がした。

 やっとJRさん向けのアプリがまともに動くようになったよ!

(智ちゃんは嬉しそうに、先日会った時にそう言っていた。なら少しは暇になったのかしら? 電話とかしても大丈夫かな? あ、でもまだ五時半とかだし、仕事中よね。もう、ダメね。世間ではみんな働いてるのに、私ってば進みもしない小説相手にうじうじ悩んで、ダメダメだなあ……)

 ふぅーっと息を吐いて思い切り伸びをした。ローカル番組ではファイターズの情報について報道していた。苦戦しているが、ファイターズも一生懸命野球をしているらしい。それはきっと青木だって一生懸命働いているだろうし、このニュースを読み上げているキャスターだって一生懸命だろう。

 自分はこの書くという行為に対して、一生懸命になれているだろうか。単なる趣味として緊張感に欠けてきていないだろうか。柴原は考えた。

 そもそも一生懸命に何かをするとは、一体どういう意味を指すのだろう。一生懸命。文字にすれば、自分の命を懸けて何かに取り組む様を意味する。

 私は命を懸けてまで、このIFを書くことに取り組むほどの覚悟を持っているのだろうか……柴原は、はたと気付いた。

 彼女に足りていないのは「覚悟」だった。一生懸命、何かをする覚悟が足りていないのだ。

(智ちゃんはJRのアプリを開発して、時間は掛かったけどやっと試験が成功し始めている。それはきっと智ちゃんと、高取さんって上司の人が一生懸命頑張って、JRの人も一生懸命協力してくれて、みんなで頑張った成果だろう。その成果を生み出すためにみんな働いてたはずだけど、「働く」という行為に対して、みんなそれぞれ「覚悟」を持ってたから成し得たんじゃないだろうか。智ちゃんにせよ高取さんにせよ、JRの社員さんにせよ、みんな「成功させるんだ!」って覚悟を持って挑めてたから、やっと形になってきたんじゃないだろうか。それに比べて私は何をしてるんだろう。確かにIFを書くのは生き甲斐と言えるかもしれない。でも、私はこの物語に命を懸けて取り組んでいます!とは言い難い。これは私の趣味であり仕事ではないからだ。誰かから強制されたわけじゃないし、IFが書けなければご飯が食べられないだとか、智ちゃんと会えなくなるだとか、そんな危機感というか、緊張感は持ってないと言える。だって趣味だから。好きで書いているんだから。IFがある程度書けたら智ちゃんに読んでもらいたいと思う。それはきっと人から認められたいっていう「承認欲求」で、無意識のうちに「褒めてもらいたい」だとか、そういう風に思っている。だけど本来仕事というものは、認めてもらうためや褒めてもらうためではなく、生きるためにすることであり、一生懸命働いて初めて他人から認められて褒められる。私は今、働いてない。つまり他人から評価される資格なんてないんだ)

 柴原はしばらく一人、物思いにふけっていた。うーんと唸り、足りない胸の前に腕まで組んで考え込んでいた。

 気が付けば十八時になっていた。カーテンを閉めていない窓から見える景色は夕闇に呑み込まれ、虫の音が響いている。

 道行くクルマのヘッドライトが一瞬部屋を照らし、そこで初めて自分は電灯も点けず、カーテンも閉めず、ぼけーっとラヴィに向かっていたことを柴原は知った。

 慌てて人間らしい環境にしたものの、灯りを点けると途端に露呈するのが小汚い部屋である。

 部屋のあちこちにごちゃごちゃとペットボトルの空だの、読み掛けのファッション雑誌だの、ボールペンだのが床に散らばっており、テレビ台の上のピングーのフィギュアは埃を被り、脇に置いてあるジェンツーペンギンとキングペンギンのビニール製のオブジェは、どこかくすんで見えた。

 ファッション雑誌だのボールペンならまだしも、若い男性の独り暮らしでもあるまいにペットボトルの空が転がっているなど、まったく呆れ果てて、柴原自身、何も言えなかった。

(いい年して何やってんだろう、私……)

 仕方なくペットボトルを片付けながら、柴原は思った。

 彼女には特技と呼べるものがなかった。掃除だとか料理だとか、これから嫁入りするのなら何か一つでも特技を持っていた方が良いのだが、そう呼べるものは何もなく、単純に小説を書くのが趣味なだけの、だらしないうつ病患者である。

 彼女の場合、うつ病だから片付けられないのではない。うつ病でも片付けが得意な人もいるし、片付けることによって快感を得て、治療に繋がる人もいるだろう。

 だがこの柴原という女は、片付けとか潔癖と言った言葉とは無縁で、柴原の実家はそんなに汚くないのに、彼女の狭いアパートは台所には使った食器が置きっぱなしにされ、玄関の靴も揃っておらず、綺麗好きな青木が入れば卒倒しそうである。

(智ちゃんを迎え入れることは、もう二度とないかもね……)

 柴原は乾いた笑いが出た。こんな部屋を見せてしまえば、間違いなく幻滅される。

 生まれつき直毛の髪はぼさぼさになりにくいが、全くセッティングしていないから寝ぐせがついているし、そんなに化粧に興味はないけどすっぴんだし、上下スウェットでまるで色気はないし、ついさっきクルマのヘッドライトに照らされなければ、未だに電灯も点けず、カーテンも開けっぱなしで、ラヴィを何となく眺めながらぼんやり過ごしていただろう。

 テレビはファイターズの内容からコンサドーレに変わり、コンサドーレから道内のローカルニュースについて流れていた。札幌市内の某所で殺人事件が起こったとか、交通事故で怪我をした人がいるだとか、柴原は「可哀想だな……」とは思うが、そんな報道を観てもIFの話はまるで浮かばなかったし、ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げるだけなので、それほど感情移入もできなかった。

 文字や声で流れるニュースに対し、「気の毒だなあ」とか「可哀想だなあ」とか呟くだけで、そのあとに流れるお菓子のCMを見て「あ、これ美味しそう!」とか言っちゃって、すぐにさっきのニュースなど忘れている。

(智ちゃん、そろそろお仕事終わったかなあ。ああ、智ちゃんに会いたいなあ……。でも今日はこんな格好だし、今から突然来られても困るし、絶対に家には上げられないなあ……)

 何となく青木の顔が目に浮かんだ。青木に会いたかった。

 JRの列車追跡アプリが上手いこと成功し始めたので最近は残業も減り、だんだん暦通りに休めるようになってきたと言っていた。

 しかし青木に会ったとして、会って何をしようか。柴原は思った。こんな状態では会えないし、仮に化粧とかをして会ったとして、何をすればいいんだろう。

 ほとんど白紙同然のIFを読ませても「続きは決まってるの?」と聞かれるだろうし、そこで「全然決まってないの」と言えば「梨恵らしいなあ」と笑われるだろう。それは恥ずかしい。

(ダメだ。もっと、ちゃんと話のプロットというものを考えないと、IFは座礁する。座礁と言うか、沈没するだろう。いや、そもそもまだ海に浮かんですらいないんじゃないか。船を造り始めた段階と言える。さて、続きをどうしよう……)

 柴原は考えた。自分にはプロットを作る技術がないと呆気なく諦めたので、とにかく思うがままに、いつも通りキーボードを叩いてみようと思ったのだ。

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