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亜麻色の彼女  作者: 藍月ゆう
23/30

幸せとは(1)

 清水が西野の住宅街にある松岡の住むマンションに駆け込んだのは、八月十七日の土曜日である。

 お盆が終わり、ぼちぼち夏休みも終わる頃で、実際に月曜には始業式を控えているのだが、前日の夜に涙声で「助けてくれ」と電話が入り、何事かと思った松岡は依頼内容にひっくり返ってしまった。


『数学と物理と英語と国語と電気の宿題が全然終わってないんだ! 写させてくれ!』


「お前、それはほとんど全部だろ。レポートはやったのか?」


『レポート? そんなのもあったっけか! とにかく明日お前んちに行くから、頼む!』


「俺は部活で忙しいんだ。お前の自業自得だろ。三日もあれば終わるから自力でやれ」


『ダメだ! 明後日は朝からバイトだし、もう明日しかないんだ! 頼む! 俺とお前の仲だろ?』


 自室でゲームをしていた松岡は、電話越しにやれやれと首を振った。この分では断れなさそうである。

 しかし、実際に松岡は部活で忙しかった。二十四日に迫った高等学校ロボット競技大会に向け、ロボットの仕上げに掛かっていたからである。この日も朝から学校へ出向き、仲間たちと休日返上で付き合ってくれる顧問の先生を含め、ロボットの最終調整をしていた。

 実際に動いてくれるかどうか、断線や不具合はないかなど、確認しなければならないことは沢山あったし、ロボットに競技内容である輪投げをさせ、入れる練習もしなければならなかった。

 なので清水の下らない宿題カンニングになど付き合っていられないのだが、あまりにも真に迫って『頼む頼む頼む!』と連呼されるので、つい「分かった分かった。仕方ねえな。飯奢れよ」と渋々承諾したのである。

 はっきりと断ればよかった。なぜ夏休みの終わりに、こんなやつのカンニングをさせているのだろうと、ゲームをしながら松岡は後悔した。

 松岡の家は十階建てのマンションで、ちょうど真ん中の五階に住み、彼の部屋は何度か訪れたことのある清水の部屋ほど散らかっておらず、窓際に勉強机があり、反対側の部屋の真ん中の壁際にテレビ台があり、ソニーの三十二型液晶テレビにはプレイステーション4が接続されていた。

 本棚には文庫本と漫画とゲームの攻略本が並び、テレビ台にはゲームソフトが積み重なっていた。

 最近ようやく伸びすぎた茶髪を切り、焦げ茶の短髪に変えた清水は松岡の勉強机を占領し、黙々とカンニングを続けている。

 数学や電気や物理といった、ある程度答えが決まっているものならまだしも、国語や英語は読み手によって解釈の仕方が異なるので、このカンニングは絶対にバレると松岡は確信を持っていた。

 そしてカンニングをしたのは清水で、真っ先に怒られるのはこいつで、次に「お前も協力なんかするな!」ととばっちりを受けるのは必至であった。

(まったく、とんだトラブルメーカーだぜ)

 松岡はカンニングに勤しむ清水を見て思った。部活は参加こそ強制されていなかったが、何となく気が引けたので、顧問の先生にわざわざ「体調が悪いので休みます」と連絡を入れていた。

(それにしても、こいつは相変わらずスワローズが好きなんだろうか。すごい連敗をして、最下位になっているようだが……)

 ふと松岡は思った。以前、清水が生き甲斐みたいなのをスワローズに感じているのを見て、松岡は自分も何か好きなものがないかを探していた。

 そんな折、少し白石方面に用事があったので最寄りの札幌市営地下鉄・東西線の発寒南駅から地下鉄を利用したのだが、自分はこの地下鉄が好きなのではないかと感じ始めていた。

 札幌の地下鉄はゴムタイヤで走行する。普通の鉄道と違いガタンゴトンと音はせず、モーター音とタイヤの走行音、揺れ過ぎない車内に、独特な音色のチャイム。無機質な女性の自動放送に、大通駅で少し長く停車し入れ替わる人々。自分はこの地下鉄を愛しているのではないかと、松岡は思い始めていた。

 まだはっきり好きと呼べるレベルではないが、サピカを買って、意味もなく発寒南から終点の新さっぽろまで乗ってみたり、新さっぽろで特に何をするでもなく、ショッピングモールのサンピアザで適当にぶらぶらと過ごして、地下鉄で帰ってくる。それが松岡のささやかな趣味になっていた。

(これが俺の生き甲斐なんだろうか)

 漠然と松岡は考えていた。清水にも話していないが、自分は少しずつ地下鉄の魅力に引き寄せられている。一体どういう構造で走っていて、どんなシステムで管理されていて、指令センターみたいなのはどこにあって、車両基地はどこにあって、車両は南北線と東豊線、東西線では少し違うだとか、いろいろな知識を吸収し始めていた。

 それが趣味と呼べるものであり、愛するということなのだが、生き甲斐を感じるほど愛しているのかどうかは、松岡自身もまだよく分かっていない。

 だが、彼は札幌に残りたいという気持ちがあったし、電気科で学んでいる知識を生かして、北海道科学大学にでも進学して、札幌市営地下鉄のメンテナンス関連で働くなんて未来をどこかで夢見ていた。

 それが叶うのなら、今自分がやっている大会用のロボット制作という作業も、意味のあるものに感じてきたし、数ヶ月掛けて作ってきたロボットに対し、愛着みたいなものも湧いていた。パイロットの先輩が操作するロボットが輪投げをする姿が、何だか愛おしく思えた。

 それに引き換え、こいつは一体なんだ。夜に突然電話を掛けて来たかと思えば、やることは宿題のカンニング。

 「俺だって別に全部合ってるとは限らないし、回答が二人とも同じだとバレるから適当に間違えろよ」と念は押したが、黙々と写し続ける清水を見ると、本当に丸写ししているのではないかと心配になった。


「はあーあ、疲れた! 何だか、勉強ってほんっとに疲れるな!」


 思い切り背伸びをして清水が言った。Tシャツから腋毛が見えた。毛深いまではいかないが、自分よりは濃い気がする。


「お前がやってるのは勉強じゃなくてカンニングだろ」


「まあそんな堅苦しいことは言うなよ、相棒」


「その呼び方はやめろ。あと、当たり前のように俺の飴を食うな。そこは俺の席であって、お前のもんじゃない」


 松岡が勉強する時に舐めるパイン味の飴はすっかり減っていた。つい最近買ってきたばかりなのに、ほぼ全部をこいつに食われていると思うと、腹が立った。

 今やっているRPGにも、何だか身が入らない。それはきっと、一人で集中してやりたいという気持ちもあるが、何よりも清水が自分の席でカンニングしているのが目障りでしょうがなかったのである。


「あれ? おい、松岡、来てみろよ」


 早く早く!と、窓を見ながら清水が急かす。何を急いでやがる。お前はさっさとカンニングをして帰れ。そう思いながら、仕方なく松岡は清水の方へ向かった。


「ほら、あれ。あの女の人。あの髪の毛、梨恵さんじゃね?」


 どれ、と松岡は清水が指差す方を見る。なるほど、あの亜麻色の髪は、以前会った柴原さんのように見える。紺のジーンズに白いTシャツと夏の格好が眩しい。胸はやっぱり大きくなさそうだ。

 遠くに手稲山の電波塔がくっきりと見えた。快晴だ。今日も外は暑そうに見える。


「確かに、あれは柴原さんっぽいな。でも、どうしてこんなところを歩いてるんだろう?」


「さあ。西野と発寒中央って、結構あるよな?」


「ああ。チャリならすぐだけど、歩くならちょっとあるな」


「だよなあ。何でだべか。直接聞いてみっか。おーい! 梨恵さーん! 梨恵さーん!! 俺でーす! 清水博樹でーす!」


 窓を開け、大声で柴原さんを呼び始める清水を「バカ!」と松岡は止めた。昼間っからこんな大声で、恥ずかしいったらありゃしない。

(大体、以前もそうだったが、なぜ恋人でも何でもないお前が、柴原さんのことを下の名前で呼ぶのだ)

 幸いにも清水の声は柴原さんには届かなかったらしく、そのまま歩いて住宅街へと消えて行った。

 だが清水の言う通り、発寒中央駅付近に柴原さんが住んでいるのだとすれば、ここ西野まで歩くのは少し距離があった。歩いて来られない距離ではないが、わざわざこんな住宅街に何をしに来るんだろうか。

 広い通りに面している西友の西町店に行くのなら話は分かるが、こんな住宅街までわざわざ入ってくるということは、例えば恋人がこの辺に住んでいるだとか、友人がいるだとか、そんなところなんだろうか。

 松岡は想像を膨らませたが、結論は出なかった。


「あーあ、行っちまった。くそー、俺がここにいるぞ!ってことをアピールしたかったのに」


「余計なことをするな。お前は早くカンニングを終わらせて帰れ」


「ちぇっ、つまんねえの。じゃあ、また続けさせてもらいますわ」


 悪態をついて清水はカンニング作業に戻った。

 不思議な人だよな。松岡は、柴原さんについてそう感じていた。

 思えば最初に会ったのは、春に清水と学校をサボった日。あの時は発寒中央駅近くの喫茶店にいた。朝飯を食って、どこかへ行くと言っていた。どこへ行ったんだろう。

 二度目に会ったのは、これも発寒中央駅の近くで、同じ雑居ビルがあるぎんなん通りだった。あの時もやはり清水が一緒で、あの日は別れた直後に夕立が降って、柴原さんは大丈夫だろうかと思った記憶がある。

 そして今日は、松岡の家がある西野を歩いている。発寒中央駅から西野は、徒歩で来るにはちょっと遠い。まして夏のこんな暑い日に、何をしているんだろう……。何となくあの人は元気がないと、松岡は感じていた。

 最初に会った時も、二度目に会った時も、確かに亜麻色のロングヘアは綺麗だし、顔立ちもぱっちり二重で美人だし、肌も白くて美しいし、声だって透き通るようで、そこらの芸能人よりも女性としてずっと魅力的な気がした。胸はあんまりないけど。

 しかし……何だろう。松岡は奇妙な違和感を抱いていた。

 普通、元気な人と会った時は、その人のオーラというか、雰囲気というか、そういうものを人間は感じ取る。

 敏感な人もいれば、鈍い人もいるだろう。清水なんかは鈍い人の典型的な例で、彼の口から「梨恵さんってなんか暗くね?」とか、そんな話は聞いたことがない。

 松岡はちょっとだけ、少なくとも清水よりは、そういうものを感じるのだろう。柴原さんと会った時、あの透き通るような声や綺麗な瞳を見ると、何だか作り物のような、そんな感覚を抱くのだった。

(上手く表現できないが、例えばいつもどこか無理をしてるような感覚だ。清水は気付いちゃいないが、あの人は影を帯びているような、そんな女性だ……。何があったのか分からないし、別に病気をしている風ではないが、過去に何か大きな出来事があって、それを未だに引き摺ってる……とか? 邪推が過ぎるだろうか……)

 松岡は柴原さんについて考察した。そんな松岡に気付く様子もなく、清水はカンニングを黙々と続けている。

 パインの飴はもうなくなり、次のレモンの飴にまで手を付け始めていた。

 どこまで図々しいんだ、こいつは。けしからん!と、松岡は静かに憤慨した。

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