雑貨屋
(くそったれ、今日は負けだ)
高橋大輔は地面の小石を蹴り上げ、ふう……と大きくため息をついた。
三十七歳。妻と小学二年生になるわんぱく息子がいるこの男は、そろそろ一戸建てに引越しも検討している頃合いだが、肝心の本人はパチンコと競馬、そして酒が好きな、金銭的に極めてだらしないダメ親父そのものであった。
せっかく休みの今日も、嫁からの冷たい視線をかわし、わざわざJRを使ってパチンコ店に朝から並んだが、終わってみれば三万五千の惨敗であった。
博打に現を抜かし、コツコツ貯めることができない高橋は、夕べから剃っていない無精髭を撫でながら、薄くなった財布を忌々しく思った。
(あと少しで勝てたんだ。俺が悪いんじゃない……運が悪いんだ……)
くそったれと、もう一度心の中で悪態をつき、発寒中央駅付近のぎんなん通りを歩く。
桜の季節はまだ先だが、雪はほとんど消え去り、ジャンパーも必要なくなってきた春の札幌には、新緑が芽生え始めていた。
高橋は飾りっ気のないパーカーとジーンズ姿で、くたびれたシューズを履きながら、若干猫背でとぼとぼと歩く。新たな命が芽生え始める季節には不釣り合いな、みすぼらしいおっさんそのものだ。
「おっと、失礼しました」
「おう、なんもなんも」
自分より若い感じの、眼鏡を掛けた男と肩がぶつかった。
隣には恋人であろうか、長いロングヘアの美しい女性が心配そうに男を見つめていた。亜麻色の髪と横顔が綺麗だった。
(結婚したばっかの頃は、あんな風に些細なことでも心配してくれたんだがなあ)
高橋は新婚時代を思い返した。幸せな毎日だった。嫁は優しく、いつだって笑顔でいてくれた。それなのに今は……。
無益な振り返りをし、「ちぇっ」と舌打ちする。
時刻は十七時。そろそろ帰って息子を風呂に入れねば、また嫁に怒られるのだが、高橋は気乗りしなかった。
また負けたんでしょう? 博才なんてあんたにはないんだから、いい加減やめちゃいなさいよ。
そう嫌みを言われ、息子にも「父ちゃん、お金ないの?」と憐れみを受け、居心地の悪い日々を送っていた。
自ら招いていることには違いないのだが、高橋は自分には秘めたる才能があると、心のどこかで信じていた。信じたかった。そうでもなければ、博打をする自分を正当化できないのだった。
「おや、高橋さん。どう? 一杯」
馴染みの焼鳥屋「焼き鳥おみち」の店主が、店を開けると同時に威勢良く声を掛けてきた。それを聴いて野良猫が走り去る。
このように偶然通りかかった風を装い、他人から酒を飲む切っ掛けを掴むのが、高橋流のせこい飲み方である。
「やあやあ、尾道さん。そんじゃ、一杯やってくかね」
財布は薄いが、焼鳥とビールを楽しむくらいは余裕がある。
何しろ先週、パチンコで七万の大勝ちがあったばかり。その後散財して今日の負けを含めると、だいぶ金は失われていたが、ちょっと一杯……なら、大丈夫。
「じゃあ、いつもの頼むわ」
店に入って席に着くなり、高橋は生ビールとネギマを頼んだ。
狭く古い店だが、味わい深さも醸し出していた。長い年月のうちに染みついた焼き鳥の匂い、炭の焼ける匂いが充満している。
「へい毎度! おまちどおさんです!」
大将の尾道がカウンター越しにビールとネギマを出してきた。高橋は早速ビールを飲み、串にかぶりついた。
勝利の美酒ならばもっと旨いだろうにと、女々しく今日の負けを引きずっていた。
少しすると、近くの席に老人が座った。尾道に「ビールとポンポチをお願いします」と頼んでいた。
どこかで見たことのある顔である。眼鏡を掛けて華奢な身体。
だが、次に頼んだ砂肝と新しい生ビールが置かれた途端、そんな疑問は宙に消えた。
「高橋さん、知ってますか?」
「ん? なにを?」
ぐいぐいとビールを飲んでいると、尾道が話し掛けてきた。
「最近この辺りに雑貨屋ができたそうなんですよ。珍しく夜までやってるんだと」
「へえ。雑貨屋ねえ。俺は雑貨屋より、安い居酒屋の方が嬉しいね」
尾道からの話題に、がははと下品に笑うと、高橋はビールを飲み干した。先ほどの老人は、ありがたそうにビールをチマチマと飲み、ポンポチを噛っている。
「でもねえ高橋さん。俺は行ったことないんだけど、なんか不思議な店らしいんだわ。まだやってる時間だし、奥さんだってご飯作って待ってるでしょ? 今夜はこの辺にしといて、見物がてら家に帰ったらどうだい?」
尾道は譲らなかった。余程その雑貨屋に興味があるのか、要するに高橋を偵察要員にしようとしているのだ。
高橋はそれを見抜いていたが、尾道の言う通り、気が付けば時刻は十八時半を過ぎた。酒が入ったためか時間の感覚が消えていたが、そろそろ帰らねば嫌みで済まなくなるかもしれない。
それに、長く客商売をしている尾道が「帰れ」と言うのなら、まあぼちぼち潮時であろう。
「分かったよ、尾道さん。そんじゃ今日はここいらでお暇しますわ。その雑貨屋の場所って分かるかい?」
件の雑貨屋は、焼き鳥おみちから徒歩五分で着く距離だった。ぎんなん通り沿いの小さな建物である。
最初はそこが雑貨屋であると、高橋には分からなかった。どう見ても古い一軒家で、明かりは灯っているが人気はなく、呼び鈴を鳴らして入っていいものか、それともそのまま入っていいものか、暫し悩んだ。
よく見ると扉に「Open」と書かれた看板がぶら下がっており、高橋の疑問は氷解した。なるほど、確かに店らしい。
「お邪魔します」
カランカランと、扉を開けると同時に鈴が鳴った。
薄暗い店内には埃を被ったブリキのオモチャや、古いペンギンの置物、他にも何に使うのかよく分からない品々が並んでいた。
少しの間、店内を散策したが、店員の姿は見当たらない。
狭い上に目ぼしい物もなかったので、そそくさと帰ろうとした時であった。
「あなた、迷ってるね」
思わず声を上げそうになった。
店の奥、薄暗い中のさらに闇が深い場所から、老婆が姿を現したのである。眼鏡を掛け、白髪を束ね、深い皺が年齢を感じさせた。暗がりだから余計にそう見せたのかもしれない。
「こ、こんばんは……どうもすみません」
高橋は悪いこともしていないのに、なぜか老婆に謝罪した。
自分でも「なぜ謝るのか」と疑問を抱いたが、そうせざるを得ないオーラが、老婆にはあった。
「あなた、迷ってるね」
しわがれた声で老婆は繰り返した。
(迷っている。いったい何に?)
高橋は混乱した。道には迷っていないはずである。
「あの……意味が分からんのですが」
「あなたは人生に迷ってる。家族がいるね。奥さんと、まだ小学生の息子さん」
高橋は一瞬絶句した。なぜこの老婆は、自分の家族を事細かに知っているのかと。
だが、尾道からこの老婆に自分の情報が垂れ流されているのではないのかと推理した。共謀して自分を騙そうとしているのではないか?
「あなた、博打が好きでしょう。パチンコ、競馬。競輪もやるかね」
「は、はあ……そうですが……」
やはりな、と高橋は確信した。この老婆は尾道と繋がっている。尾道経由で、こうして客を招いているのだろう。
「高校生くらいの時、札幌に引っ越してきた。違うかい?」
高橋は思わず口が開いた。確かにそれくらいの頃、岩見沢から札幌に引っ越してきた記憶がある。
そしてこんな話は、尾道は知る由もない。
「あなた、迷ってるね」
三度に渡り老婆は繰り返した。
「俺が何に迷ってると言うんです?」
高橋は気持ちが悪くなっていた。この老婆は、占い師か何かであろうか。
それとも雑貨屋を装い、こうして客から金を巻き上げる詐欺だろうか。
「あなたは人生に迷ってる。転職して自分の力を試したい。だけど家族にもそれを言い出せずにいる。だから博打をして、気を紛らわせている。違うかい?」
図星であった。
高橋は電気工事を行う会社に勤務していた。給料は悪くなかったがどうにも待遇が悪く、他社からのオファーもあり、転職を一つの選択肢として考えていたからだ。
「なぜ、あなたにそれが分かるんですか?」
高橋は単刀直入に訊ねた。いくらなんでもこちらの事情を知りすぎているからだ。
すると老婆は入れ歯をカタカタと鳴らしながら笑った。
「あなたのことは、よおく知ってるよ。いつも発寒中央駅ですれ違っていたからね。あなたは私になんか目もくれないけれど、私にはあなたの人生が見える。あなたは家でも会社でも居場所がなく感じている。違うかい?」
駅ですれ違っていた?
高橋は記憶を辿ったが、どうしてもこの老婆のことは思い出せなかった。
そして、老婆の発言一つ一つが、まるで台本でもあるかのように高橋の現状を知り得ていた。
老婆は優しい口調で朗らかに語り始めた。
いいかい。よおくお聞き。あなたは家族を愛している。自分で思っている以上に、とんでもなくね。
博打好きなんて自分に言い聞かせているが、それは嘘だ。あなたは自分に博打の才能がないことも、寂しいからパチンコ店や競馬場に入り浸っていることも、ここから近い焼鳥屋で酒を飲んでいることも、みんな自覚しているんだ。
誰も分かっちゃいない。自分のことなんか理解してくれない。奥さんも息子さんも自分の苦しみなんか分かっちゃいないと、そう思い込んでいる。
本当はね、ちゃんと説明しなくても、家族ってものは伝わるんだよ。あなたが寂しがっていることも、会社で辛い思いをしていることだって、奥さんは知ってるはずさ。女の勘を見くびっちゃいけないよ。
あなたはね、いま、人生の岐路に立っているんだ。
このままダメな父親でいるのか、それとも自分に合った仕事と環境を得て、家族からも愛される存在になるのか。
私は七十年くらい生きてきて分かったんだけど、人間っていうのはね、我慢だけをし続けると堕落するんだ。あなたは我慢を続けて、堕落しようとしている。
今日、何の縁でここに来たのかは知らないけどね、このブリキのオモチャをあげるから、息子さんへのお土産にしなさい。
そして、奥さんに転職したいことを正直に話しなさい。
あなたは、迷ってる。そして静かに苦しんでる。
本当は心優しい人間なのに、まるで悪人のように振る舞うことがある。私を見つけた時の表情は、無理して悪人になった顔だったよ。
そんな自分を心のどこかで許せないのに、それでいいんだと思い込んでいる。
あなたの名前は知らないけれど、ここには二度と来るんでないよ。
ここはただの流行らない雑貨屋。あなたには縁もゆかりもない品物しか置いてない。
私と話したから気が楽になった?
バカを言っちゃいけないよ。男はね、自分で自分の道を決めなきゃならないんだ。あなた、父親でしょう?
オモチャの御代? そうだね。二百円。
税? はっはっ。おかしなことを言うね。律儀なお方だ。
本当はただでくれてやろうと思ったけど、あなたが財布に手を伸ばすから適当な金額を言ったまでさ。
さあ、そろそろお行き。奥さんが心配してるよ。
ブリキのオモチャは自動車だった。クラシックカーの形をした、可愛らしいデザインだった。
高橋は目が覚めたように歩み始めた。愛する家族のもとへ。そして心に決めた。
「俺は男だ。博打はもうやらねえ。家族と俺のために生きてやる」
落ちていたビールの空き缶を思いきり踏み潰し、夜空を見上げた。
雑貨屋の看板は「Closed」になっていた。




