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亜麻色の彼女  作者: 藍月ゆう
16/30

生きる意味(1)

 さて今週は。

 そうですか。今年は涼しいですが、そろそろ暑くなってきましたからね。夏バテには気を付けなければ。

 最近は、熱中症なんて言葉がありますね。昔は熱射病や日射病なんて言いましたが、要するに自己管理ができていないのですよ。私から言わせるとですが。

 暑いのに我慢してしまう。日本人の悪い癖で、我慢を美徳とする文化がこの国には根付いている。

 確かに我慢は大切です。生きていく上で、我慢しなければならないことや場面は腐るほどあります。ですが、我慢のし過ぎで命まで失ってしまっては、元も子もないでしょう。そう思いませんか?

 いいですか、柴原さん。あなたの状態は今、よろしくありません。まったくよろしくない。

 先月の途中から、二週に一度だった診察を、一週間に一度へ変更するように指示しましたね。あなたは難色を示しておられたが、それほどよろしくないのです。

 あなたのことは、よく分かりますよ。ご自身がどう思われているか知りませんが、感情がとても顔に出やすいですし、動揺するとすぐに左手が髪を触ります。ええ、そうです。今も触りましたね。ほら、触ったでしょう?

 もうかれこれ一年以上、ここへ通ってくださっていますからね。患者さんのそういった細かい仕草や癖を観察するのも、私どもの努めなのです。それが診察になりますから。

 今年の初めの診察であなたは、「今年もよろしくお願いします」と丁寧にご挨拶くださったが、本当はよろしくお願いされない方が良いのですよ。

 私とて、確かにあなた方がいらっしゃらないと商売になりませんが、元気になってここを出て行ってくれるのが一番良い。

 たまに、もう来なくてもいいのに、私へお菓子なんかを持ってきて、「お世話になりました」と律義に顔を出してくれる方がいらっしゃるが、私にはそんなものは必要ないのです。ただ、元気に生活してくだされば、それでいい。

 あなたがここへ初めていらしたのは、ええと、そうですね、去年の六月ですね。六月四日。やはり月曜日でした。あの時のあなたは、見るからに顔色は悪いし、これはいけないと思いました。何があったかは分かりませんが、相当お辛いことがあったのだろうと。

 話を伺っているうちに、ああなるほど、中程度の鬱だなと診断して、急いで診断書を作ったのを覚えておいでですか?

 そうですか。あの時のあなたには、そんな余裕がなかったでしょうからね。これを保育園の園長先生に提出して、すぐに休職なさいと私は言いました。そして、あなたはそれに従った。私は週一で通うように指示をして、あなたは「週に一度ですか?」と確認した。ええ、覚えておりますとも。

 さてと、では、いつもの。ええ、舌を診せてください。

 何ですか? コーヒーを飲んでしまった? ああ、そんなのは関係ありません。その程度では舌診に支障しません。

 ふむ、ううむ、これはこれは、あまり良くありませんねえ。あなた、お酒飲んでいませんか? 飲んでいませんか? 飲んでない? ああ、そうですか。飲んでないと。ううむ、それにしては、肝機能が少し低下しているようだし、最近あまり食欲が無いでしょう?

 そうでしょうそうでしょう。いやね、あなたはいつも舌を見られた時、「本当にこんなので分かるのか?」という顔をされるが、分かるのですよ。

 それに、死にたいと自分で念じていませんか?

 あなたには、お兄さんがいらっしゃったとお話しされていましたね。天国にいらっしゃるお兄さんに会いたいと思ったりしていませんか?

 そんな選択をしても、誰も得をしませんよ。残されたご両親はどうなさるのですか。まだ子供だったお兄さんを亡くされているのに、今度は残った妹さんまでもが、自ら命を絶つなんて、そんなものは親不孝です。万死に値しますよ。

 まあ、死んじゃったら万死もへったくれもありませんが、それくらい罪深いことをあなたは思案なさっている。いけませんよ、柴原さん。自殺なんて行為は、誰かを殺してしまったり、本当にどうにもならなくなって、二進も三進もいかなくなった、言わば狂った人がする行為です。

 お金のトラブルを抱えて自殺する方が世の中にはいらっしゃいますね。私はあれを見ると、本当にやるせなくなります。

 お金など、所詮紙切れですよ。我々が生きていくのには、少なくとも資本主義社会である今日の日本で、お金は非常に大切と言えますが、借金を抱えたからと自ら命を絶つほどかと問われれば、そうでもありません。恨まれて殺されるなら別ですがね。お金のトラブルは弁護士にでも相談して、自己破産してしまえば綺麗さっぱりなくなります。ヤクザ者に借りて相当な恨みでも買っていない限り、消費者金融は人殺しまではしません。つまり、そういうことです。自殺なんてものは、バカバカしいですよ。

 だってね柴原さん、よく考えてご覧なさい。人間、何年生きるかご存知でしょう? せいぜい、八十、九十。今は人生百年時代なんて言葉もありますが、百歳まで生きるのはほんの少数で、多くの方は私くらいの歳になると何らかの病を抱えたりして、寿命がどんどん迫ってくる。あなたのお兄さんのように不幸な事故で亡くなってしまう方は別としても、人間はそんなものしか生きられないのです。

 寿命を八十年としましょう。あなたは、八十年生きるビジョンみたいなものを考えたことがありますか?

 例えば何歳までに結婚して、子供を産み、子供が育ち、やがて子供も結婚して、お孫さんが生まれる。何となく生きているのでは、この病と向き合う上で弊害になりますよ。

 柴原さん。あなたは何か好きなことはありますか? 好きな人でもいい。プロ野球のチームだとか、サッカーだとか、芸能人だとか、旅行だとか、絵画だとか、そういう趣味はお持ちですか?

 お散歩と、少しの読書ですか。お散歩も悪くはありませんが、お散歩だけをして過ごすのも、ちょっと難しいでしょうし、読書も図書館へ行けば本は沢山あるでしょうが、そこまで熱心ではなさそうですし、そうですね、何か簡単な趣味を見つけてはいかがでしょうか。

 何でもいいです。手芸でもいいし、園芸でもいいし、お料理でもいい。何か夢中になれることを探してご覧なさい。

 ああ、そうでした、脈も診せてください。ふむ。やはり、あまり良くありませんなあ。漢方薬を増やしておきましょう。美味しいものではありませんが、ちゃんとご飯食べて飲んでくださいね。そのまま飲むのはダメです。必ず食後にお飲みください。錠剤も一緒に出しておきます。

 最近、眠れていますか? そうですか。まあ、眠る分には良いみたいですね。睡眠導入剤は、今処方しているものでいいでしょう。では次は来週、七月八日の月曜日にお越しください。







(はぁ、まただ、また怒られてしまった。怒られたというよりも、叱られたというか、諭された感じだろうか。どうしてあのお爺さんは、私の考えていることや、最近お酒を飲み過ぎてしまったことなんかを、ベロを見るだけで分かるのだろう。脈診だって、何だか胡散臭い。本当にこんなもので、私の具合なんて診察できてるのかしら)

 処方された薬の入った袋を手提げ鞄に入れて、伊藤心療内科から帰宅しようとしていた柴原は、ため息をついた。

 ここ一年以上通っている伊藤心療内科の伊藤先生は、腕は悪くないらしいが、こちらが言われるときつい内容をズバズバと言ってくる。

 伊藤心療内科は、柴原の家から東へ徒歩十五分くらいの、琴似・発寒川を越えた所にあった。

 小さな二階建てのログハウスのような外観は病院らしくなく、どことなくオシャレであった。入ると受付があり、向かって右手に待合スペースがあり、ソファが並んでいる。

 いつも混雑しており、いろいろな人がいる。パソコンで何かをしている人、本を読んでいる人、眠っている人。

 柴原は眠っている人で、よく口を開けて眠って待っていた。先着順なので、待ち時間が長くなることがしばしばあった。時間だけは無限にあるので、柴原はよく眠った。その都度、「また居眠りされて……」と伊藤先生に指摘された。診察室とカウンセリング室があって、柴原はいつも外部の音が遮断されるカウンセリング室へ招かれた。

 伊藤先生の詳しい経歴は不明だが、相当なベテランであるらしいことは見て取れた。

 どう見ても柴原の両親よりも上、下手をすれば存命の祖母くらいの年齢ではないかと思った。平均的な女性の身長である柴原と背丈がそんなに変わらず、小さな顔に大きな老眼鏡を掛けて、カルテに読めない文字で何かを書き連ねる。

 伊藤先生の字が読めないのは、きっとドイツ語とか、そういうので書いているからだろうと柴原は思ったが、傷病手当金の申請書類を職場から提出するように言われ、先生に書いてもらったところ、仰天した。

 なんだこれは。まるでロシア語の筆記体ではないか。よく見ると日本語らしきもので書かれていたが、内容はさっぱり分からなかった。伊藤先生は、達筆すぎるのか悪筆なのか、大変判読に困る文字で柴原の容態について記載してくれたが、職場の園長先生も「これは読めないなあ……」と苦笑していたくらいだった。

 傷病手当はなんやかんやで支給されているが、果たしてあの難解な文字を誰が解読しているのか柴原も興味があった。

(先生の文字を解読するのを趣味にしたら、先生に怒られるかしら)

 柴原はそう思い、ひとりで笑うと、自転車に跨った。今日も良い天気だ。

 青木の列車追跡アプリは順調に進んでいるらしい。今月末にも試作機が手に入るらしく、アプリ開発に燃えているようだった。しかし、物が届かないことにはどんなに精巧なプログラムを組んでも試せないので、列車追跡アプリの開発を続けつつ、最近はまた別な企画も一緒にやっているらしい。ペンギンを育てるゲームの次は、リスを育てるゲームだとか。

(智ちゃんの会社はよく分からない。上司の高取って人と智ちゃんは、生き物を育てるのが好きなのかな……?)

 最近はちょっと暇になってきたんだ。JRも急かしてこないしさ。

 青木がそう言っていたのを思い出した。JR本社の朝山課長という方と会って、物凄く興味を示してくれたらしい。朝山課長はとても良い人だったらしく、高取と青木が作った資料を一生懸命読んで、何度も頷いて、責任は自分が取るからやってみてくださいと言ってくれたとか。

 JRの社員って、岡本くんもそうだけど、優しい人が多いんだなあと、柴原はぼんやり考えた。

 突然、ジーンズのポケットに入れていたスマホが鳴った。驚いて自転車を止めると、青木だった。


「もしもし?」


『ああ、梨恵、突然ごめんな。今日の診察は終わったかい?』


「うん、今終わって帰ろうとしてたところだけど」


『じゃあちょうど良かった! お袋が昨日来てさ、すごい量の料理を作っていったんだけど、良かったら一緒に食べない?』


 青木が母親のことをお袋と呼ぶのは初耳だった。こんな平日のお昼前に電話してくるってことは、今日は休みなんだろう。


「分かったわ。是非、いただきます。これから行ってもいい?」


『うん、待ってるよ』


 電話は切れた。

 あまりお腹は空いていないが、青木のお母さんが作った料理に興味があったし、何となく青木に会いたかった。柴原はそのまま自転車で青木の家へ向かった。

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