片隅のバー
立春を迎えた札幌はずいぶん日も長くなっていたが、夜の空気は細い体に鋭く突き刺さる。
磨り減った革靴は滑り止めも効かず、所々に出来上がったスケートリンクを踏む度に股が開く。
三十歳の男が小さなバーに入ったのは、二十時を少し回った頃合いだった。
中心部の大通、すすきの、札幌駅前を除けば静かな街並みの多い札幌は西区の、発寒中央駅の近所である。
金曜日の夜なのにまるで流行らぬこのバーは、全体的に薄暗く、黒を基調としたデザインの空間に、カウンター席だけが五つ並んでいた。
「いらっしゃいませ。今日は早かったですね」
マスターが眼鏡越しに笑みを浮かべた。
黒のトレンチコートを脱いでハンガーに掛けると、男は曇った眼鏡をハンカチで拭き曖昧に会釈を返した。
このバーには似つかわしい、細い枯れ木のような老人である。先々週、還暦を迎えたと言っていたか。
すっかり指定席となった手前から二つ目の席に腰を下ろすと、「いつもの」と短く注文をした。静かに頷き酒を作り始めるマスターを見送り、男はスマホを出して空っぽのメールボックスを眺めた。
どうせ早く帰ったところで誰が待っているわけでもない。ならば近場で飲める場所でも探そうと思い立ったのが二ヶ月前。幸いにも最寄りの発寒中央駅からすぐの場所に存在しているこのバーは、特に目立つ看板も有名なメニューもないが、何となく忘れられたような雰囲気に親近感が湧いた。
だが、特別酒が好きとまでいかない彼にとって、片隅のバーに週一で通うのには理由があった。
カウンター席の一番奥で静かに酒を飲む女性。長い亜麻色の髪が美しい、年齢は自分と同じくらいか少し下だろう。
まともな会話などしたこともないが、彼が来店すると決まって先に飲んでいる彼女と、言葉を交わさずとも共に過ごす時間だけが最近の楽しみであった。要するに一目惚れである。
この店に来るのは、ひょっとして自分とあの女性だけではないかと最近男は訝しんでいる。金曜日以外にこの店へ来たことはないが、いくらなんでも毎週通えば客層くらいは変わるだろう。マスターは恐らく趣味でやっているのだろうと推測していた。
「はい、どうぞ」
スカイブルーの酒が差し出された。ラズール・モヒートだ。
酒に詳しくない男が、初めてこの店を訪れた際に語呂が気に入って頼んで以来、必ず一杯目はこの酒を飲むようにしていた。爽やかな口当たりが一週間の疲れを洗い流し、店内に流れるジャズが心を落ち着かせた。
静かすぎるくらい静かなこの街の、さらに静かな夜を堪能している。世界から置き去りにされているような空気を感じ、男はそれだけで満足だった。
一口で半分ほどを飲み干すと、ふうっとため息が出た。
カランと奥の席で氷が動く音が聞こえる。そっと横目で見ると、赤い美しい酒を飲んでいた。種類は知らぬ。氷が入っているからワインではないのだろう。
ふと女性と目が合った。慌てて頭を下げて残ったラズール・モヒートを飲み干す。女性は上品に微笑むと再び自分のグラスに視線を戻した。
不思議な女性であると思った。二ヶ月も通って一度も会話すらできぬ自分の臆病さがまずは滑稽だが、それにしてもこうして度々目が合うことがあっても、嫌な顔をする様子もなく、静かに一人で酒を飲んでいる。
男には名前も出てこないような酒ばかり。それもマスターに注文する時は「次のを、お願いします」と、あの二人は阿吽の呼吸としか思えないほど息がぴったり合っている。
あれだけ綺麗な女性が、なぜ小さく、お世辞にもオシャレとは言い難い店に来ているのか。
金曜日だけではなく、毎日来ているのだろうか。確かめたことはないのだが、彼はなんとなく、彼女も金曜日しか来ていないと確信を持っていた。
女性のことは何一つとして知らなかった。名前も、年齢も。以前店の奥にあるトイレから席に戻る際、ふと左手の薬指を見て「未婚なのかな」と、思った程度だった。
二ヶ月も同じ店に来て毎週のように顔を合わせているのだから、何か話題の一つでも引っ提げて話し掛ければいいのだが、昔から女性と関わることが極端に少なかった彼にとって、その時点で既に雲を掴むような話であった。
それ以上を求めるのは贅沢だとも思っていた。例えこの店で過ごす僅かな時間の繋がりであっても、「お互い常連」の関係を壊したくなかったのだ。
そうやって自分の臆病に理由を付けているのは自分でも気付いているのだが、深い仲になることを半ば諦めているのだった。
一時間くらい経っただろうか。今日はやけに酒の回りが早い気がする。
すっかり良い気分になった男は、身体がポカポカと暖まるのを感じた。女性が立ち上がる。そっと横目で追うと奥のトイレへ向かったようだった。グラスに残っていたハイボールを飲み干す。
「……お客さん。良いものがあります」
普段、注文と挨拶以外のやり取りなどした覚えのないマスターが急に話し掛けてきた。眼鏡越しに見える瞳が輝いて見える。
「良いもの? お酒ですか?」
グラスを置いて男は尋ねた。マスターはくるっと背を向けると棚から一本のワインボトルを取り出した。
見た目からして年代物だろう。語学に詳しくないが、ラベルは英語ではなさそうだ。フランス語か、イタリア語だろうか。それともドイツ語辺りかもしれない。酔いが回りぼんやりとしていた男には、イマイチ判別できなかった。
「白ワインか……。僕はあんまり好きじゃないんだけど」
苦笑いを浮かべて男が言うと、マスターは人の好さそうな笑顔を浮かべてゆっくりと話した。
「お客さん。これはね、ただのワインではないのです」
「……ただのワインじゃない? じゃあどんなワインなんですか?」
高いワインとでも言うのだろうか。
懐の、給料日前の薄くなった財布が哀愁を漂わせていた。今夜のお勘定には間に合うが、高いワインでぼったくられでもしたら、すってんてんになってしまう。
「これを自分の想い人に飲ませるとね、その人への恋が成就するらしいんですよ」
一瞬、その場の時が止まったような感じだった。
男には目の前の老人が何を言っているのか、よく理解できていなかった。
冗談を言うような人間に見えなかったが、今日は機嫌でも良いのだろうか。カウンター越しのマスターはにこやかな笑みを浮かべている。
「ただし、栓を開けて十分以内に飲ませなければなりません。……いかがでしょうか? 御代は結構です」
「…………」
自分があの女性に気があることは、さすがに二ヶ月も足繁く通っている姿を見れば分かるのだろう。
しかし、これはどういうことだろうか。金も取らずなんだか高そうなワインボトルを出してきて、それを飲ませば恋が成就するなど、一体誰が信じると言うのか。
荒唐無稽すぎて話にならない、と普段の彼ならバッサリと切り捨てるだろうが、今日は思いのほか酔いが回っていたのだろうか。言われるがまま、男は口を開いた。
「……それじゃあ、そのワインを……開けてくれますか?」
「かしこまりました」
言うが早いかコルクを抜き取ると、マスターは細いワイングラスに半分だけ注いだ。葡萄の上品な香りが広がる。そっと男の前に置かれたワイングラスは、数十年に渡って熟成された白ワインが静かに揺れていた。
二十一時十分であった。これから十分以内に、このグラスを奥の女性に渡して飲んでもらう。文にすれば一行に過ぎぬこの行為が、男にとっていかに至難の業であるかは言うまでもあるまい。
忙しなく腕時計とワイングラスを見比べる男にマスターは背を向け、乾いたグラスを磨き始めた。
「これから先はあなた次第だ」
小さな背中がそう語っていた。
あっという間に五分が経った。女性は既に奥の席に戻り、変わらず赤い酒を飲んでいる。時折スマホの通知音が鳴るが、意に介さぬ様子で、小さな液晶テレビに流れる欧州辺りのサッカーの試合を眺めていた。
(このままではいけない!)
さっきの言葉を盲信してはいない。それでも何か、目の前の閉塞感を打破するには、この状況を変えるには、自分から行動しなければならないと、男は覚悟したのだった。
「あ、あの……!」
「はい?」
話し掛けた。思ったよりも声が大きくなり、女性の美しい顔はこちらを見ている。思えば初めて言葉を交わした瞬間であった。
「……なんでしょうか?」
困ったような表情を浮かべ言葉が続かぬ男を見て、女性は少しぼんやりとしていた。しかし、その口調と目に嫌悪感を抱いているのではなさそうだと男は思った。
「あの……これを……。飲んで、欲しいのですが……」
男は席を立つと、カウンターに置かれていたワイングラスを、両手でそっと女性に差し出して頭を下げた。
「……あら? ふふ」
女性の上品な笑い声が聞こえた。透き通った声だと感じた。
「ありがとうございます。でも、いいんですか?」
「は、はい! もちろんです!」
頭を下げながら男は必死だった。そっと左手首の腕時計を見ると、二十一時二十分直前であった。
「それでは……お言葉に甘えて。いただきます」
女性は男からグラスを受け取ると、笑顔でそっと口をつけた。細いグラスの半分は、思いがけず注がれた量が少ないらしく、すっと小さな口にワインは滑り落ちた。
時計を見る。二十一時二十分を回っている。間に合ったのか、間に合わなかったのか……。そればかりが、気になった。
「……ふふ。美味しかったです。ご馳走さま」
空になったグラスをそっと男に渡すと、女性は笑顔で礼を言った。
男は女性に何の変化も見られないことに落胆を覚え、それと同時に、勇気を振り絞って話し掛けたのはいいが、何も話題を用意していなかったことを急激に思い出した。
「ど、どう……も」
どぎまぎしながら受け取る。
渡されたグラスを、あわや落っことすのではないかという危なっかしい手つきでカウンターの上に戻すと、男は気まずそうに頭を掻いた。
「……ところで、お名前は?」
彼が俯いていると、女性が尋ねてきた。男がそっと顔を上げると、そこには少し頬を紅潮させた女性が座っていた。
上手くいったかどうかはわからない。それでも、一歩進むことができた。男はそう確信した。
客のいない店は客がいる店と特に変わった様子もなく、静かにマスターは店の片付けを進めている。
時刻は零時を回った。飲み屋にしては早いが、還暦を迎えた体には十分夜中である。元より半分趣味で始めたような店は、自分の体力に合わせての営業時間を忠実に守っていた。
流れる水と自分の呼吸しか聞こえぬ狭い店内で、彼は呟いた。
「あのワインはね、何の変哲もない普通のワインだったんだよ。ふっふ」
小さく笑みをこぼした。グラスの片付けが終わった。そっとタオルを戻す。
「よく頑張ったね。上手くやりなさいよ」
老人は満足気に店の照明を落とした。




