第9話 愛のための歌声
クライド殿下が王都へ逃げ帰ってから、ヴァイスラントには束の間の静寂が訪れていた。
けれど、その静寂が、嵐の前の不気味なものであることを、誰もが理解していた。
王都から届く情報は、日増しに悪化の一途を辿っていた。
瘴気はもはや都全域を覆い、息をするだけで肺が焼けるようだという。
死者の数は増え続け、人々の心からは希望の光が消えかけていた。
「このままでは、王都は……いえ、この国は滅びます」
城の作戦室で、カイル様の副官が苦渋に満ちた表情で報告する。
皆の視線が、わたくしに突き刺さった。
期待、懇願、そして、かすかな非難。
わたくしが歌えば、すべてが解決する。そう、誰もが思っているのだ。
(わたくしは……どうすればいいの?)
心は、二つに引き裂かれていた。
わたくしをゴミのように捨てた王都。あの人たちのために、どうして歌わなければならないの?
けれど、瘴気に苦しむのは、クライド殿下やソフィア様だけではない。
何の罪もない、多くの民がいるのだ。
その夜、わたくしは一人、城のバルコニーで凍てつく星空を見上げていた。
冷たい空気が、悩める心を冷やしてくれるような気がした。
「眠れないのか」
背後から、穏やかな声がかけられる。
振り返ると、そこにカイル様が立っていた。彼は、わたくしの肩にそっと、温かい毛皮の外套をかけてくれた。
「王都のことか」
「…………はい」
「お前が、悩む必要はない。すべて、奴らが蒔いた種だ」
彼の言葉は優しい。
けれど、わたくしは静かに首を横に振った。
「わたくしは……怖ろしいのです。もし、わたくしが歌わなかったことで、多くの人が死んでしまったら……それは、わたくしの罪になるのでしょうか」
「罪にはならん」
カイル様は、きっぱりと言い切った。
「だが、お前はきっと、その選択を生涯悔やみ続けるだろう。……お前は、そういう人間だ」
彼は、わたくしのことなど、何もかもお見通しだった。
その深い理解が、嬉しくて、少しだけ悔しい。
「エリアーナ。誰のためでもない、お前自身の心に従え。お前がどんな決断をしようと、俺はお前の側にいる。何があっても、お前を一人にはしない」
彼は、わたくしの手をとり、その手の甲に、誓うようにそっと唇を寄せた。
その温もりが、迷っていたわたくしの心に、一つの答えを灯してくれた。
決戦の日は、三日後に訪れた。
クライド殿下は、瘴気で弱った兵士たちを無理やり奮い立たせ、最後の力を振り絞ってヴァイスラントへと侵攻してきたのだ。
その目的は、ただ一つ。
わたくしという「道具」を、力ずくで奪い返すために。
雪原を挟んで、両軍が対峙する。
カイル様の隣に立つわたくしを見て、クライド殿下は馬上で甲高い声を上げた。
「エリアーナ! まだそんな所にいたのか! 愚かな女め、今すぐこちらへ来い! お前のその忌々しい力で、国を元に戻すのだ! これは、王子としての最後の慈悲だぞ!」
その言葉に、ヴァイスラントの兵士たちから怒りの声が上がる。
わたくしは、もう、その言葉に傷つかなかった。
ただ、憐れに思った。
この人は、最後まで、何も理解できないのだ、と。
カイル様が、静かに剣を抜く。
その切っ先が、クライド殿下へと向けられた。
「お前のその汚れた手で、二度と彼女に触れさせるものか」
戦いの火蓋が、切って落とされようとしていた。
その瞬間。
わたくしは、カイル様の前に、そっと一歩踏み出した。
「エリアーナ?」
カイル様の、戸惑う声。
わたくしは、彼を振り返り、安心させるように微笑んだ。
(大丈夫です、カイル様)
わたくしは、もう、逃げない。
もう、怯えない。
わたくしは歌う。
けれど、それはクライド殿下のためでも、王都のためでも、ましてや国のためでもない。
―――ただ一人、わたくしを信じ、愛してくれた、あなたのために。
あなたと共に生きる、未来のために。
わたくしは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、愛する人の顔を思い浮かべながら、唇を開いた。
歌声が、凍てついた戦場に、響き渡った。
それは、かつての弱々しい子守唄ではない。
万物を祝福し、世界を震わせる、生命の賛歌。
歌声は、金色の光の粒子となって、空から舞い降りた。
それは、雪のように優しく、兵士たちの荒んだ心に降り注いでいく。
憎悪に燃えていた兵士たちの目から、殺意が消える。
力なく、だらりと垂れた手から、剣や槍が滑り落ちていく。
誰もが、天から降り注ぐ奇跡の光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
わたくしの歌声は、風に乗り、国境を越え、遥か彼方の王都を目指して、どこまでも、どこまでも、広がっていった。




