第8話 手のひらの上の正義
白狼城に、王都からの早馬が到着したという報せが入ったのは、それから数日後のことだった。
使者として現れた人物の名を聞き、カイル様の灰色の瞳に、燃えるような怒りの色が宿るのを、わたくしは初めて見た。
使者は、クライド殿下、その人だった。
謁見の間に通されたクライド殿下は、長旅の疲れか、以前の輝くような美貌には翳りが見え、憔悴した様子だった。
けれど、その態度は、相変わらず傲慢そのものだった。
「辺境伯、カイル・フォン・ヴァイスラント。貴様に、王命を伝えに来た」
玉座にどっかりと腰を下ろしたカイル様は、表情一つ変えずに、冷たく言い放つ。
「ここはヴァイスラントだ。王命が絶対の効力を持つと思うな。……それで、用件は?」
「……っ! 貴様……まあいい。単刀直入に言おう。我が国は今、危機にある。原因は、貴様が匿っているあの『呪われた女』にあると見て間違いない」
クライド殿下は、忌々しげに吐き捨てた。
「あの女を、こちらに引き渡せ。国の災いを祓うため、贄として利用してやる」
その言葉を聞いた瞬間、カイル様の周りの空気が、凍りついた。
謁見の間にいた兵士たちが、緊張に息を呑むのが分かる。
「……断る」
地を這うような低い声に、クライド殿下が怯んだように肩を揺らした。
「彼女は呪われてなどいない。エリアーナ嬢は、王家がその価値を見抜くことさえできなかった、この国の至宝だ。お前たちのような愚か者に、彼女を贄にする資格などない」
「なっ……! たかが辺境伯の分際で、王子である私に逆らう気か!」
クライド殿下が激昂し、腰の剣に手をかける。
だが、それよりも早く、カイル様の背後に控えていた兵士たちが一斉に剣を抜き、その切っ先をクライド殿下に向けた。
「力づくでも連れて帰る! どけ!」
その狂乱じみた叫び声を、わたくしは扉の陰で聞いていた。
足が震え、体が竦む。
怖い。あの人の、あの瞳が、怖い。
けれど、それ以上に、わたくしのために怒り、わたくしを守ろうと、たった一人で王家に立ち向かってくれているカイル様の姿が、胸を熱くした。
(もう、隠れているのは嫌)
わたくしは、扉を開け、震える足で謁見の間へと歩み出た。
「エリアーナ!」
カイル様の驚いたような声が響く。
クライド殿下は、わたくしの姿を認めると、一瞬目を見開いた後、醜く顔を歪めた。
「ちょうどいい、出てきたか、疫病神め! さあ、大人しくこちらへ来い! お前が国を救う、最後のチャンスをやろう!」
それは、施しを与えるかのような、恩着せがましい口調だった。
以前のわたくしなら、きっとこの威圧に屈し、言われるがままになっていたことだろう。
けれど、今のわたくしは、もう違う。
わたくしは、カイル様の隣に立つと、クライド殿下を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。
凛とした、自分の声で。
「―――お断りいたします」
「……な、に?」
「わたくしのこの声は、もう、あなた方のためには使いません。この力は、その価値を信じ、認めてくださった方々と、このヴァイスラントの地のために使います」
クライド殿下は、信じられないというように、わたくしとカイル様を交互に見た。
「き、貴様……! この国を見捨てるというのか! それが大罪だと分かっているのか!」
その、あまりに自己中心的な物言いに、カイル様が嘲るように鼻を鳴らした。
「見捨てたのは、お前たちの方だろう。クライド」
氷の刃のような、冷徹な声が、クライド殿下の心を貫く。
「お前たちは、エリアーナ嬢の価値を見ようともせず、噂と偏見だけで彼女を断罪し、地の果てに追いやった。祝福を呪いと呼び、希望をゴミのように捨てたのだ。その報いを、今こそ受けるがいい」
「ぐ……っ!」
言葉に詰まり、屈辱に顔を赤く染めるクライド殿下。
彼は、わたくしを睨みつけると、憎悪に満ちた声で捨て台詞を残した。
「……覚えていろ! 必ず、後悔させてやる!」
そう叫び、彼は嵐のように謁見の間を去っていった。
その後ろ姿は、王子の威厳など微塵もない、ただの惨めな敗北者のそれだった。
静まり返った謁見の間で、わたくしは、自分の心に、確かな決意が芽生えるのを感じていた。
もう、誰かの評価に怯えない。
自分の価値を、自分で信じる。
そして、この声で、この力で、愛する人を、愛する場所を、守ってみせる。
わたくしの隣で、誇らしげに、そして優しく微笑んでくれる、この人のために。
物語は、最終決戦となる「結」へと、大きく舵を切ったのだった。




