第6話 ヴァイスラントの温もり
辺境伯カイル・フォン・ヴァイスラントの居城、「白狼城」での生活は、驚きと戸惑いの連続だった。
石と黒鉄で造られた、いかにも質実剛健といった城。
「氷の悪魔」の住処なのだから、きっと使用人たちも主と同じように、冷たく無愛想な人々なのだろう―――わたくしは、そう思っていた。
「エリアーナ様、朝食の準備ができております。本日は温かいオートミールと木の実のパンをご用意いたしました」
「お部屋が冷えはしませんか? 新しい薪をお持ちしますね」
だが、現実は全く違った。
侍女たちは皆、わたくしに畏敬の念を払いながらも、その態度はどこまでも温かい。
彼らは、わたくしが決して声を発しないことを不思議に思いながらも、決して気味悪がったりはしなかった。
それは、カイル様の厳命があるからなのだろう。
『彼女は、この城の賓客である。いかなる者も、エリアーナ様を蔑ろにすることは許さん。その声について、本人の許しなく尋ねることも禁ずる』
城に着いた日、カイル様が皆の前でそう宣言してくださったのだ。
食事はきちんと温かく、ベッドは清潔で、部屋にはいつも暖炉の火が絶えない。
そんな、当たり前のことが、まるで夢のように感じられた。
王都の侯爵邸では、いつからか冷めた食事が当然のように運ばれ、侍女たちはわたくしを避けて必要最低限の世話しかしなかったから。
(ここは……温かい)
窓の外では雪が舞い、凍てつく風が唸りを上げているというのに、この城の中は、陽だまりのような温もりに満ちていた。
それはきっと、暖炉の火のせいだけではない。
「エリアーナ」
夜。
書斎に呼ばれ、暖炉の前に置かれた柔らかなソファに腰掛けていると、カイル様が分厚い古文書から顔を上げた。
彼は時折、こうしてわたくしを書斎に呼び、ただ静かに同じ空間で過ごす時間を作ってくれた。
無理に話すことを求めず、かといって存在を無視するでもなく、ただ、そこにいることを許してくれる。
その心地よさに、凍りついていた心が、少しずつ、本当に少しずつ溶けていくのを感じていた。
「少し、お前の声を聞かせてはくれないか」
彼の言葉に、びくりと肩が揺れる。
また、あの時のように、不幸が起きてしまったら?
この温かい場所を、わたくしのせいで壊してしまったら?
わたくしが躊躇い、俯くと、カイル様は静かに席を立った。
そして、わたくしの隣に腰を下ろすと、窓際に置かれた一輪挿しを指さした。
そこに活けられていたのは、一輪の白い花。長旅のせいか、少しだけ元気がなく、俯き加減に咲いている。
「あの花に向かって、歌ってやってほしい。ほんの少しでいい」
「…………」
「俺がいる。何が起きても、俺がお前を守る」
彼の灰色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを見つめていた。
その瞳には、疑いも、気まぐれもない。ただ、絶対的な信頼の色だけが宿っていた。
(この人なら……信じても、いいのかもしれない)
わたくしは、意を決して、小さく頷いた。
そして、俯き加減の白い花を見つめ、震える唇をそっと開いた。
口ずさんだのは、幼い頃、亡き乳母がよく歌ってくれた子守唄。
声が、喉からこぼれ落ちる。
それは、ひどく掠れて、弱々しい音色だった。
けれど、歌い始めると、忘れていた感覚が蘇ってくる。
ああ、わたくしは、歌うことが、好きだったのだ。
わたくしが歌い終えると、部屋は再び静寂に包まれた。
何も、起きない。
天井が崩れることも、窓が割れることもない。
ほっと安堵の息を漏らした、その時だった。
「エリアーナ、見ろ」
カイル様の促す声に、はっとして花に視線を戻す。
信じられない光景が、そこに広がっていた。
俯き加減だった白い花が、ピンと背筋を伸ばすように茎を立て、花びらを生き生きと開かせている。
萎れかけていたのが嘘のように、瑞々しい生命力に満ち溢れていた。
「……あ……」
驚きのあまり、声が漏れる。
「やはり、な……」
カイル様は、すべてを確信したように、深く頷いた。
そして、わたくしに向き直ると、その大きな手で、そっとわたくしの頬に触れた。
「お前の声は、呪いなどではない。エリアーナ」
「……え?」
「それは、万物に生命を与え、癒し、浄化する―――『祝福』の力だ」
祝福。
わたくしの声が?
呪われた、価値のない、この声が?
理解が追い付かず、ただカイル様の顔を見つめるわたくしに、彼は、慈しむような、それでいてどこか切ない表情で、静かに告げた。
「お前は、この国が失いかけていた、最後の希望なのかもしれない」




