第5話 凍てついた声
男の問いに頷いた瞬間、彼の灰色の瞳が、怜悧な光を宿したのを確かに見た。
それは、まるで獲物を前にした獣のような、鋭い光だった。
(……やはり、気味悪がられたのだわ)
掴んでいた外套の裾から、慌てて手を離す。
これ以上、この人を不快にさせてはいけない。
助けてもらった恩を、仇で返すようなことになってしまう。
わたくしは、後ずさりながら、深々と頭を下げた。
感謝と、謝罪と、そして拒絶。
すべての意味を込めて、もう関わらないでほしいという意思を示したつもりだった。
だが、男は立ち去らなかった。
それどころか、再びこちらへと向き直り、わたくしとの距離を詰めてくる。
「本当に呪われているのなら、試してみればいい」
「……?」
「俺に向かって、その声とやらを聞かせてみろ」
何を、言っているの?
この人は。
正気とは思えない言葉に、わたくしは目を見開いて男を見上げた。
わたくしの声を聞けば、不幸が訪れるのだ。
この人も、それを知っているはずなのに。
わたくしが戸惑い、首を横に振ると、男は苛立ったように舌打ちをした。
「噂だけを信じて、己の可能性を閉ざす愚か者め。そんなことだから、王都から追い出される羽目になるのだ」
ぐさりと、胸に棘が突き刺さる。
それは、紛れもない事実だったからだ。
わたくしは、自分の声を恐れるあまり、反論することも、弁解することも、すべて諦めてしまっていた。
その時だった。
ミシリ、と。
背後の天井から、嫌な音が響いた。
見上げると、老朽化した屋根の一部が、降り積もった雪の重みに耐えきれず、大きく軋んでいる。
そして、次の瞬間。
ゴウッという音と共に、雪塊と、腐った梁が、わたくしたちの頭上へと崩れ落ちてきたのだ。
「―――っ、危ない!!」
考えるより先に、声が、出た。
自分でも忘れていたほど、大きく、張り上げた声が。
しまった、と思った時にはもう遅い。
男の顔が、驚きに見開かれるのが見えた。
わたくしは、とっさに彼を突き飛ばし、崩落してくる瓦礫の下へと身を躍らせた。
(わたくしの、せいで……)
この人を、巻き込むわけにはいかない。
どうせ価値のない命だ。
こんなところで終わるのなら、それも仕方ない。
ぎゅっと目を瞑る。
衝撃を覚悟した、その時。
強い力で腕を引かれ、体が宙に浮いた。
ふわりと、なぜか懐かしい、冬の森のような匂いが鼻を掠める。
気がつけば、わたくしは、あの男の腕の中に強く抱きしめられていた。
轟音と共に、すぐそばに瓦礫が降り注ぐ。
もし、彼が助けてくれなければ、今頃わたくしは……。
「……無事か」
頭上から、低い声が降ってくる。
わたくしは、彼の胸に顔を埋めたまま、こくこくと頷いた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
それは恐怖のせいか、それとも……。
「……そうか」
男はそれだけ言うと、ゆっくりとわたくしを腕から解放した。
そして、信じられないものを見るかのように、わたくしの顔をじっと見つめた。
「今のが……お前の、声か」
その灰色の瞳には、恐怖も、嫌悪も、侮蔑もなかった。
ただ、純粋な驚きと、そして―――微かな熱が宿っているように見えた。
わたくしは、恐る恐る頷く。
また、不幸が起きてしまった。
わたくしが声を出したせいで、この離宮は壊れ、彼を危険な目に遭わせてしまった。
「申し訳、ありませ……」
謝罪の言葉を紡ごうとした、その時だった。
「―――美しい、声だ」
吐息のように漏れたその言葉が、耳に届くまでに、ひどく長い時間がかかったように感じた。
「……え?」
美しい?
今、この人は、そう言ったのだろうか。
呪われていると、誰もが忌み嫌う、この声を。
わたくしが呆然としていると、男は初めて、その無表情な顔に、わずかな笑みの形を浮かべた。
「こんな場所にお前を置いておくのは惜しい。―――来い。俺の屋敷へ」
有無を言わせぬ、力強い声だった。
「俺は、カイル・フォン・ヴァイスラント。この地を治める辺境伯だ」
カイル、と名乗った男―――氷の悪魔は、そう言うと、わたくしの冷え切った手を、彼自身の、驚くほど温かい手で、強く握りしめたのだった。




