第4話 氷の悪魔
心臓が、喉元までせり上がってくるような心地がした。
扉の隙間から見える影は、明らかに人影だ。
こんな、打ち捨てられた離宮に、一体誰が?
(逃げなくては)
頭ではそう分かっているのに、恐怖で足が縫い付けられたように動かない。
わたくしが息を詰めていると、影はゆっくりとこちらに近づいてきた。
ギィ……と、再び床板が軋む。
「そこにいるのは誰だ」
低く、地を這うような声が、埃っぽい空気を震わせた。
その声には、一切の温度が感じられない。まるで、この土地の冬そのものを声にしたかのようだった。
わたくしは、あまりの恐怖に声も出せず、ただその場に立ち尽くす。
やがて、影は光の中へと姿を現した。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
今まで見たどんな男とも違う、異様なほどの存在感を放つ人。
夜の闇を切り取ったような漆黒の髪。
彫像のように整っているが、感情の欠落した無機質な顔立ち。
そして、その瞳は、吹雪の空を閉じ込めたかのような、冷たい灰色をしていた。
全身から発せられる威圧感は、クライド殿下の比ではない。
あれが王族としての威光ならば、この男が纏うのは、弱き者を蹂躙する、絶対的な捕食者のオーラだ。
男は、わたくしの姿を認めると、その灰色の瞳をわずかに細めた。
「……お前が、王都から送られてきたという『呪われた歌姫』か」
その言葉に、わたくしは息を呑む。
やはり、この人もわたくしのことを知っているのだ。
そして、きっと他の者たちと同じように、気味悪がり、蔑むのだろう。
男は、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
一歩近づかれるたびに、まるで絶対零度の空気に晒されるように、肌が粟立った。
(ああ、この人に殺されるのかもしれない)
そんな、突拍子もない考えが頭をよぎる。
このヴァイスラントは、王の支配もろくに届かぬ辺境の地。
領主である辺境伯は、「氷の悪魔」と呼ばれ、逆らう者は容赦なく切り捨てると聞く。
もしかして、この人が。
男は、わたくしの目の前で足を止めた。
見上げるほどの長身。見下ろしてくる灰色の瞳には、何の感情も読み取れない。
「……随分と、みすぼらしいなりだな」
吐き捨てるように言われ、ぐっと唇を噛んだ。
長旅でドレスは汚れ、顔も髪も手入れなどできていない。みすぼらしいと言われて当然だ。
けれど、その言葉には侮蔑とは少し違う、何か別の響きが含まれているような気がした。
男は、わたくしが何も答えない(答えられない)のを見ると、ふいと視線を逸らし、部屋の隅に置かれていた木箱を顎でしゃくった。
「食料と、薪だ。それと、毛布も入れておいた」
「……え?」
「暖炉の使い方も知らぬような女では、一晩で凍え死ぬだろうからな」
ぶっきらぼうな口調。
けれど、言っている内容は、わたくしを気遣うものだった。
訳が分からず混乱していると、男は「それだけだ」と呟き、背を向けた。
待って。
どうして?
あなたは誰なのですか?
聞きたいことはたくさんあるのに、声が出ない。
呪われたこの声で、目の前の男に災いをもたらすわけにはいかない。
男が扉に手をかけた時、わたくしは咄嗟に、その外套の裾を掴んでいた。
自分でも、なぜそんなことをしたのか分からなかった。
男は、驚いたように振り返り、わたくしの手と顔を交互に見た。
その灰色の瞳が、ほんの少しだけ、揺らぐ。
「……何か用か」
わたくしは、必死に首を横に振った。
違う。用があるわけではない。
ただ、行ってほしくなかった。
この、あまりに広く、冷たい離宮に、また一人で取り残されるのが、たまらなく怖かったのだ。
男は、わたくしの掴んだ手を見つめたまま、しばらく黙り込んでいた。
やがて、重いため息を一つ吐くと、静かに口を開いた。
「……お前の声は、本当に、呪われているのか?」
その問いに、わたくしは、こくりと、小さく頷くことしかできなかった。




