第三十五話 見えるはずのないもの
それから。
一難去り、スタグレーゼ邸には穏やかな日々が戻ってきた。
「…………」
かに思われたのだが。
「やあ、アン。お邪魔しているよ」
「…………」
「ちょっと!?」
私は食堂で回れ右をして、自室に戻ることにした。
自覚はなかったが、どうやら体調が優れないようだ。
なにせ、見えるはずのないものが見えたのだから。
あと聞こえるはずのない声も聞こえる。重症だ。
「いや、気持ちはわかる。僕がここにいるなんてびっくりしたよね? これには深いワケがーー」
「いえ、間に合っておりますので」
「何が!? ちょ、ちょっとだけでもいいから話を聞いてくれよ、アン」
あまりにも頑なな態度に肝を冷やしたのか、彼は少し落ち込んだような様子でそう懇願する。
くっ。なまじ見た目がいいせいで罪悪感が……。
「……本日はどういったご用件ですか? シュヴァルト様」
深く息を吐きながら、私は目の前の少年ーーシュヴァルトに尋ねる。
「そんな他人行儀な呼び方じゃなくて、シュルトって呼んでほしいな? 敬語もいらないよ」
「……何しに来たの? あんた」
「うんうん、それくらいの方がアンらしくていいね!」
失礼と言って差し支えない私の態度に、シュヴァルトはにこやかな顔で頷く。
実際、彼がここにいる理由は大きな疑問だ。
シュヴァルトは一国の皇子であり、そう気軽に他国へと訪問することもままならない立場のはず。
それがなぜ、こんなところにいるのか。
「実は、国を追い出されてね」
「え!?」
「ーーと、いうのは半分冗談なんだけど」
じゃあもう半分はなんなんだよ、と内心でツッコミを入れつつ、私は彼の言葉を待った。
「父上から直々にお叱りを受けてね。遠い異国の地でしばらく反省してきなさい、って。だから、スタグレーゼ公爵の領地でお世話になることにしたんだよ」
「そんな勝手な……」
「もちろん、スタグレーゼ公爵には許可を取ってあるよ。なんだかこちらが申し訳なくなるくらい恐縮してたなぁ」
「ぅ……」
ヘイルのことだ。
先日の件を気にして、断るに断れなかったのだろう。
「というわけで、今日からお世話になるからよろしく!」
「……え? まさかこの屋敷に滞在するんですか?」
「そうだけど?」
当たり前だろう? とでも言いたげな顔のシュヴァルトに、私は頭を抱える。
率直に言ってしまうとぶん殴ってやりたい。その顔を。
無論、暴力に訴えるのは悪手である。
「と、言いたいところなんだけどね。さすがに近くの空き家を借りることにしたよ。アンにこれ以上嫌われたら、本末転倒だから」
「ほっ」
「僕も少しは反省しているつもりだよ。ただ、もっと君と親しくなりたいというのも本音だからね。……それだけは、わかっていてほしいな」
内心複雑そうな顔をしたシュヴァルトが、そう小さく漏らした。
その感情に嘘偽りがないのが、余計にタチが悪い。
「……はぁ」
個人的な感情としては、私はあまりシュヴァルトのことを好きになれない。
ネル姉様に対してやったことは到底受け入れ難いし、こちらの世界においても非常識極まりない行動だ。
そこに弁明の余地はない。
「…………」
ただ。
シュヴァルトはまだ九歳の子どもだ。
そして今回の事件は、まだ取り返しがつく失敗だとも、思う。
彼はネル姉様をはじめ、いろいろな人たちに多大な迷惑をかけたとは思うが、別に誰かが死んだわけでもない。
「私は、まだあなたを許せていないと思う。ネル姉様にやったこと、多分ずっと忘れない」
「……うん」
シュヴァルトは神妙な顔で、私の言葉に耳を傾けている。
そこに茶化すような色は一切なかった。
「だから、これからの態度で示してください」
「……ありがとう、アン。肝に銘じておくよ」
「よろしい」
まだ完全にわだかまりが解けたわけではない。
解けたわけではないが、ひとまずは呑み込んでおくことにした。
「それじゃあ、よろしくね。シュルト」
「……! うん、こちらこそよろしく、アン!」
本当に嬉しそうな笑顔で、シュルトは頷いたのだった。
……ちなみにその後、屋敷へ遊びにきたクロスにすごい顔をされたのは、また別の話だ。




