第四話 義弟を甘やかすという決意
「ユウリー! 早くおいでよー!」
「う、うう……」
バシャバシャと音を立てながら、私はなかなか来ない義弟を待っていた。
素晴らしいことに、スタグレーゼ邸には大きな風呂がしっかりと備え付けられている。
前世の銭湯と比べてもこちらの方が大きいくらいだ。それほど大人数が一度に入る機会があるとも思えないが、貴族の見栄だろうか。
それはさておき。
さっさと湯船に浸かってしまった私とは対照的に、ユウリはなかなか風呂に入ってこようとしなかった。
「うーむ……」
流石にこのまま湯船で泳いでいるとのぼせてしまいそうだ。
そう判断した私は、一旦湯船から上がることにした。
「ユウリー。まだ来ない……」
「ーーあ」
ちょうどその時、おずおずとした様子のユウリが風呂場へとやってきた。
「もう、ユウリ、遅かったじゃーー」
ない、と言いかけた口は、そこまで続かなかった。
なぜなら、
「ご、ごめんね、アン姉さん。その……汚くて……」
俯きながら、小さな声でそう漏らすユウリに、私の思考が停止する。
ユウリの身体には、いたるところに痣があった。
それも、顔や手といった人の目につくような場所は避け、お腹や背中など、ひと目ではわからないような部分ばかりだ。
意図的に目立つ場所を避けたとしか思えない、加害者の悪辣さが滲み出るような痕が無数にある。
「ーー誰にやられたの、それ」
無意識のうちに、そんな言葉が口から漏れていた。
自分でも驚くほど、冷めた声色をしているのがわかる。
でも、自分の中の感情を抑えることができなかった。
「ち、違うんだアン姉さん。これはその、一人で勝手に転んで、それで……」
それでもなお、ユウリはそれを隠そうとする。
まるで、隠さないと恐ろしい目に遭わせる、と脅迫でもされているかのように。
「そんなわけないでしょう。いいから見せて」
「あっ……」
気まずそうな義弟の視線をあえて無視し、私は彼の身体を観察する。
「……ひどい」
まず最初に痣が目についたが、それだけではない。
いたるところにみみず腫れや、切り傷が治ったような痕跡があった。
背中にあるこれなんて、火傷の痕ではないか。
「誰にやられたの?」
「…………」
努めて冷静に、私は問いを投げかけるが、ユウリはいまだに言い渋っている。
何が彼をそこまでさせるのか、不思議で仕方ないが、
「もしかして、口止めされてるの?」
「っ……」
私の言葉を聞いて、ユウリの顔色がわかりやすく変わった。
「そう……」
とても少女のものとは思えない声が漏れるが、仕方ない。
こんな子どもに虐待をした上、口止めまでするなんて、とてもじゃないが許せない。
誰かを黙らせるのに、純粋な暴力ほど効くものはない。
今の状態のユウリから、本当のことを聞き出すのは難しかっただろう。
それが、今もまだ危険な環境に縛られている状態なら。
「大丈夫よ。ここにその人はいないから」
「ぁ……」
何かに気づいたように、ユウリは小さな声を漏らした。
今のユウリは、虐待を受けていた環境から幸運にも抜け出すことができている。
この状態であれば、ユウリから話を聞くのも比較的容易だと思ったが、
「……でも、やっぱり怖いよ。もし、あの人にバレたら……」
それでも、ユウリの心の壁は強固だった。
それほどまでに、彼が恐れる相手。それに私は、一つだけ心当たりがある。
ただ、それを確認するためには、もうひと押しが必要だった。
「わかった。じゃあ、誰にも言わないから。ね?」
「……ほんとうに?」
「うん。約束する。私とユウリだけの秘密ね」
話が漏れるのを恐れているのだとしたら、そういう約束をするのがいいだろう。
とはいえ、私にはすでにある程度の予想はついていた。
「その……ドルレッサ様、に……」
「ーーーーふぅん。なるほど」
ドルレッサ。その名前には聞き覚えがあった。
ーーケイス・ドルレッサ・スタグレーゼ。
スタグレーゼ分家に後妻として嫁いできた女性であり、ユウリにとっての義母に当たる。
つまりユウリは、義母から苛烈な虐待を受けていたということだ。
ドルレッサに関する情報は、原作のゲームにはそれほど多くはない。
攻略対象の一人であるカイの母親だったが、あまり記憶に残っていないと言うのが本音だ。
あんまり無口イケメンに興味がなかったもので……。
まあそれは置いておいて。
「僕、あの人が怖いです……もう、二度と会いたくないです……」
「ユウリ……」
ユウリの身体は小刻みに震えていた。
そんな彼の小さな身体を、私はぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫よ。もう、ここがあなたのお家なんだから」
「ぐすっ……うん……ありがとう、アン姉さん……」
圧倒的な暴力を前にして、こんな年端もいかない子どもに、いったい何ができるというのか。
何もできはしない。ただひたすら、耐えることしかできなかったのだ。
だから、私がユウリを甘やかす。
これまで散々我慢してきたのだから、これからは私がユウリのことをたっぷり甘やかすのだ。
ひそかに一人決意を新たにして、私とユウリは仲良く背中を洗い合ったのだった。