第三十三話 お礼
それから。
「だから、ごめんって……」
「何がだ? 俺は全く、全然、これっぽっちも気になどしていないが?」
「絶対めちゃくちゃ気にしてるじゃん……」
ものすごく不機嫌なクロスに、私は心からツッコミを入れた。
彼が何を気にしているのかというと、
「アンにとって、俺との婚約なんてそれくらいの認識だということが、よくわかった……」
改めて口に出したクロスの雰囲気は暗い。
シュルトとの婚約を断る際、私が王族であるクロスとの婚約のことを言い出さなかったことが、それほど落ち込む要因になるのだろうか。
王族のプライドの問題? よくわからん。
「で、でもほら。十歳の生誕祭の日までは秘密なんでしょう?」
実際、このツウォルクォーツ王国では、子どもの婚約は十歳になるまでは公表されないことがほとんどだ。
いわゆる慣習的なもので、別にそれを守らなくても問題はないらしいが。
ないらしいが、知らなかったということで通しておこう。
決してクロスとの婚約のことは頭から抜け落ちていた、などと言ってはいけない。
「それは、そうだが……仮にも求婚されたのだから、先約がある旨を伝えるのは、俺だけでなくその相手への礼儀でもあるだろう」
「む……」
そう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
「……アン姉さんも、案外鈍いよね」
「え? 鈍い?」
「なんでもないよ」
呆れたようなジト目で私を眺めるユウリの言葉に首を傾げていると、
「ーーアン。少しいいかしら?」
慈愛に満ちた声色が、私の耳を打った。
その声の主に、私は満面の笑みを向けて、
「ネル姉様!」
「あらあら、ふふ。甘えん坊さんね」
もはやその姿を認めるより前に、身体が勝手に動いていた。
しっかりとネル姉様の胸に飛び込んで、その温もりを味わう。
何も言わずによしよしと撫でてくれるのが最高である。
「おい、目の前で実の姉にめちゃくちゃ甘えられる俺の身にもなってみろ……」
「え? 嫌」
「嫌!?」
素直な言葉を口にすると、クロスが思わずといった様子で叫んだ。
そんな嫌そうな顔をしても無駄だ。
実の弟だかなんだか知らないが、この場所は渡さない。
「……というか、姉さんも何しに来たんだ。まだ式は終わっていないだろう」
私への口撃が効かないと悟ると、今度はネル姉様に標的を定めたようだ。
なんとも小賢しい……。
「改めて、アンにお礼を言いたかったの」
「……? 私に、ですか? でも、お礼を言われるようなことなんて……」
「ふふ、変なところで謙虚ね、アンは」
控えめにコロコロと笑うネル姉様は、優しげな眼差しを私に向けて、
「わたしが言いたかったこと、全部まとめて代わりに言ってくれたんですもの。嬉しいに決まってるわ。……ありがとう、アン」
「あ、あはは……お恥ずかしい限りです」
ネル姉様からの素直な喜びの言葉に、私はわずかに視線を逸らす。
あの時の私は、完全にブチギレていた。
本来であれば言うべきではないことまで、全部言ってしまっていたような気がする。
とはいえ、それでネル姉様の気持ちが少しでも楽になっているのなら、言った甲斐もあったというものだ。
「でも、婚約はどうなるのでしょう……?」
「もちろん、わたしの方からも正式に婚約解消はお伝えしますよ。それを彼もお望みのようでしたし。多少の混乱はあると思いますが、それほど大きな問題にはならないでしょう」
「な、なるほど」
心なしか、ネル姉様の背後に炎が揺れているように見える。
顔は優しげだが、こういう人が怒った時に一番怖いのだと、私は知っている。
「安心しろ。姉さんも俺も、全面的にアンに味方する。ヴォルジーナが何を言ってきても構うものか」
「クロス……ありがとう」
「……! こ、これくらい当然だ。俺はお前の婚約者なのだからな」
「……?」
なぜか顔を赤くするクロスに首を傾げつつ、ふと思い出したことがあった。
「そういえば、お父様は? 姿が見えないようだけれど……」
「ああ。スタグレーゼ公爵なら、アンがあのバカ皇子に啖呵を切ったあたりで泡を吹いて倒れていたぞ」
「お父様!?」
何ということだ。
愛娘が他国の皇子に啖呵を切る姿は、ヘイルには刺激が強すぎたらしい。
「…………アン」
「あ、お父様」
噂をすればなんとやら。
いつもよりも緩慢な動作で、ヘイルがこちらへと近づいてきた。
「お身体は大丈夫ですか? 急に倒れたと聞いて、心配しておりました」
体調が優れないのであれば、無理にこちらに戻って来る必要もなかったのではと思うが、ヘイルほどの立場になるとそうも言っていられないのだろう。
「……そうか、それはありがとう。……私もアンに、言わなければならないことがある。ここは人目が多いからね。場所を変えようか」
「……えっと。お父様。ご気分がすぐれないのであれば、少しお休みになっては?」
ヘイルのただならぬ気配を感じ、私は顔を引き攣らせながらそう提案する。
具体的に言うと、お仕置き的なアレの気配を色濃く感じたのである。
そして、それは間違いなく気のせいではない。
「いや、それほど時間はかからないよ。よいしょっと」
「きゃっ!? お、お父様!?」
ヘイルは軽い調子で、私の身体を軽々と持ち上げる。
脇に抱えるような姿勢で固定され、めちゃくちゃ恥ずかしい。
九歳にもなると、身体もそこそこ大きいというのに……!
「ほどほどにしてあげてくださいね、スタグレーゼ公爵」
「……善処します」
「それ絶対ほどほどで終わらないやつ!」
苦笑するネル姉様に返した言葉が不穏すぎる。
クロスを見ると、ヒラヒラと手を振って微笑みかけていた。
この裏切り者!
「ぼ、僕も一緒に行きます!」
「ユウリ……!」
愛しの義弟は、こんな状況でも私の味方をしてくれるらしい。
やはり持つべきは可愛らしい義弟に限る……!
……その後、スタグレーゼ公爵家の面々が帰途についたのは、随分と夜も更けた頃だったという。




