第三十話 婚約破棄
ーー時は、ほんの少しだけ遡る。
「ーーそれではこれより、第三王女ネルレリア様より、お言葉をいただきます」
その言葉に、自然と会場の空気が引き締まる。
誰一人として、私語を話す者はいない。
王族の言葉を遮るなど、現代の価値観からしてもあり得ないことだと、誰もが認識しているからだ。
それに、そんな建前は関係なく。
彼らの前に立つ少女には、つい彼らの視線を集めてしまうだけの何かがあった。
「ーー第三王女、フォネスト・ネルレリア・ツウォルクォーツでございます」
「ーーーー」
その声に、その言葉に、その場にいる誰もが自然と首を垂れる。
そうしなければならないと本能に訴えかけてくる魔力が、その声にはあった。
「まずは、わたしの生誕祭に足を運んでいただいた皆様に、御礼を申し上げます」
優しく穏やかで、全てを包み込むような声は、ただ一人の例外なくその心を温める。
「そして、常日頃から父と、このツウォルクォーツを支えてくださっている皆様に、心からの感謝を。ーー本当に、ありがとうございます」
「うぅ……ネルレリア様……」
「あんなにご立派になられて……」
日頃の忠義を労う言葉に、感激で涙を流し始める者さえも現れる始末だ。
けれどそれを笑う者も、誰一人として存在しなかった。
「さて、わたしも本日付で無事に十歳の誕生日を迎えることができました。つまり、この国の慣習にしたがって、婚約をしなければなりません。ーーそしてその方は今日、この会場にお連れしております」
歌うように語る彼女の視線が、とある方向へと向いた。
会場にいる貴族たちの視線も、同じようにその方向へと向かう。
「ご紹介いたしましょう。わたしの婚約者ーーヴォルジーナ皇国第三王子、ラフォーレ・シュヴァルト・ヴォルジーナ様でございます」
「なーー」
「ヴォルジーナだって?」
「ヴォルジーナの皇族と!?」
「冗談だろう? まさかーー」
ネルレリアの言葉に、会場がどよめきに包まれた。
ヴォルジーナ皇国とツウォルクォーツ王国の間には、長い長い断絶の歴史がある。
それは両国にとっての大きな溝であり、国民感情としてもそれは同様だった。
ヴォルジーナの民は、その全てがエルフで構成されている。
ツウォルクォーツに住まう人々とは、種族そのものが異なっているのだ。当然ながら、考え方や価値観など合うはずがない。
現在は一時的に和平条約が締結されているものの、いつ何が起きてもおかしくない。
それがごく一般的な、ヴォルジーナ皇国という国に対するツウォルクォーツ国民の、一般的な認識だった。
……この婚姻が両国の友好の証として仕組まれたものであることは、疑いようがない。
それでも、この場ですぐにそれを受け入れられるかと言われると、それはまた別の話だ。
「…………」
そして、ネルレリアに指名された少年ーー少女のようにしか見えない少年シュヴァルトは、名指しされたにも関わらず、その場で沈黙を保っていた。
沈黙を保っていることも問題だが、見れば見るほど、少女にしか見えない。
まるで髪そのものが輝きを発しているかのような艶やかな金色の髪に、透き通るような白い肌。
顔立ちは、まるで神が自ら配置したかのような精緻さだ。
ただそこにいるだけで、見るものを狂わせてしまいかねない、魔性の美貌とでもいうのだろうか。
女性であるネルレリアの婚約者ということは、間違いなく性別は男なのだろうがーー、
「さあ、シュヴァルト様、こちらへどーー」
「ーーネルレリア様。少しよろしいでしょうか?」
あろうことか、少年ーーシュヴァルトはその場で手を軽く上げ、ネルレリアへそう問いを投げかけた。
「なーー」
その突然の暴挙に、貴族たちは絶句する。
本来であれば、壇上に立つ王族の言葉を遮るなど、あってはならないことだ。
少なくとも、ツウォルクォーツの民であれば、皆同じような感想を抱くことだろう。
ただ、それをやったのが他国の皇族となると、いささか判断に迷うところだった。
「もちろんです、シュヴァルト様。どうされましたか?」
一切表情を変えることなく、ネルレリアはそう言った。
彼女はにこやかな笑みをたたえたまま、シュヴァルトの言葉を待っている。
その内心は誰にもわからないが、表面的には完璧に表情をコントロールしていた。
「では、率直に申し上げますがーー」
シュヴァルトはその透き通った碧眼でネルレリアを真っ直ぐ見つめて、
「ーーこの僕、ラフォーレ・シュヴァルト・ヴォルジーナは、今この場で、ネルレリア王女殿下との婚約を解消させていただきます!」
そう、衝撃的な発言をしたのだった。




