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第二十八話 やりました



 ーー迂闊だった。


 ユウリに手を伸ばした女の手を掴みながら、私は内心で冷や汗をかいていた。

 クロスに指摘され、ようやく己の失態に気付いたのも、あまりにも遅い。遅すぎる。

 絶対に、ユウリをこの女と会わせてはならなかったのにーー。


「聞こえなかったの? 何してるのって聞いてるんだけど」


 それでも、致命的な場面には間に合ったようだった。


 ウェーブがかった淡い茶色の髪を長く伸ばし、煌びやかなドレスに身を包んでいる。

 顔立ちも非常に整っており、何も知らない私が見れば、「綺麗な人だな」と思って終わりだろう。

 それでも、その栗色の瞳に宿る異常なほどの加虐性は隠せないかもしれないが。


 無遠慮にユウリへと伸ばされた女の腕を、ギリギリと締め上げる。

 たかだか子どもの握力では、大したダメージにもならないのはわかっているが、それでもやる。

 それでもやれと、『野猿』と呼ばれていた頃のアンニの記憶が、経験が囁いている。


 私は喧嘩が得意ではなかった。

 当然だろう。現代日本で生活していて、地味な女が暴力沙汰に慣れている方がおかしい。

 だからこそ、今はこの『野猿』と呼ばれていた頃のアンニの記憶が頼りだった。


「もう一度だけ聞くわ。ーー私の可愛い義弟に、何をしていたの?」


 それと、怒りだ。

 燃え上がるような怒りが、私の内側で渦巻いている。

 それはかつてユウリを苦しめ、今この瞬間もユウリを苦しめている女に対する怒りが、今の私を突き動かしていた。


「……貴方は」


 女ーードルレッサの瞳に宿る感情を、私は見る。

 彼女の中に渦巻いているのは、強い困惑だった。

 それが何に起因するものなのか、私には推測することしかできなかったが。


「……離してくれないかしら」

「ーーーー」


 腕を大きく振るい、ドルレッサの腕を解放する。

 正面から睨め付け、威嚇するのも忘れない。


「アン姉さん……」

「下がってなさい、ユウリ」


 何か言おうとするユウリを、私は声だけで制した。

 これ以上、ユウリをドルレッサと関わらせる訳にはいかないと、私の本能が警鐘を鳴らしている。


 対するドルレッサは、私が掴んでいた腕を大袈裟に見せつけながら、


「痛い痛い。全く、跡が残ったらどうしてくれるのかしら?」

「知らないわよそんなの。先に手を出してきたのはそっちでしょう」


 ピシャリと、ドルレッサの言葉を両断する。

 私に言い返されたドルレッサは、ムッとした顔をして、


「あのね、ユウリはわたくしたちの家へと帰りたがっているのよ。邪魔しないでちょうだい」

「ーーっ! っ〜!!」


 ドルレッサの言葉に、背後のユウリが全力で首を横に振っているのがわかった。

 そんなことをしなくても、ドルレッサが勝手に訳のわからないことを言っているだけなのはわかっている。


「ユウリは正式にスタグレーゼ本家の養子になったのよ。今更それを覆すことなんてしないわ。それに」

「それに?」

「ーースタグレーゼ本家の長子である私が、許さない」

「ーーーー」


 私の強い言葉に、ドルレッサの瞳に奇妙な色の光が灯る。

 それがどんな意味を持つのか、私が真意を測りかねていると、


「……なるほど。どうやらわたくしの知る貴方とは、随分と変わってしまったみたいね」

「人は成長するのよ。私も、ユウリも」

「ふ」


 ドルレッサの口元が、奇妙に歪む。

 そこになんだか嫌なものを感じたが、その正体が掴めない。


 ……この女はとにかく掴みどころが無い。

 今更、本気でユウリを取り戻したいなどと考えているとも思えない。


 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 ユウリはコイツから酷い虐待を受け、大きな心的外傷を負ってしまっているということだ。

 私がドルレッサを拒絶する理由は、それだけで十分に過ぎる。


「もういいでしょう? さっさと消えてくれない?」


 私は油断なく、ドルレッサを睨み続ける。

 負ける気はないが、残念ながら大人と子どもでは力に差がありすぎる。

 純粋な実力行使をされるとどうなるかわからない。

 もっとも、こんなに人が多いところで暴力沙汰に及ぶとも思えないが。


「なんだなんだ、喧嘩か?」

「あれは、スタグレーゼの『野猿』ではなくて?」


 少し目立ちすぎたのか、周囲にギャラリーが集まってきている。

 これ以上言い争いを続けるのは、ドルレッサにとっても好ましいことではないはずだが。


「…………」


 ドルレッサは瞳を閉じてわずかに沈黙し、


「ーーカイ。行くわよ」

「はい。母様」


 ただ一言だけ言い放ち、ドルレッサは私たちに背を向けた。

 そのまま何事もなかったかのように、二人の姿は人々の中へと消えていった。


 私はしばらくそのまま、彼らが消えた方を睨め付けていたが、


「……もう、大丈夫よ。ユウリ」


 完全に気配が無くなったのを確認して、私は背後のユウリへと語りかける。

 できるだけ優しく話しかけたつもりだったが、ユウリは既に泣きそうな顔になっている。


「あ、アン姉さん……僕……」

「ごめんなさい、ユウリ。私がもっと気をつけていれば……」


 思い至れる場面はたくさんあったはずなのだ。

 そのことごとくを見落とし、こうしてユウリに辛い思いをさせてしまったのは、他でもない私の責任だった。


「ち、違うよ! アン姉さんは何もーー」

「ーーああ、いたいた。ようやく見つけたよ、二人とも」


 ユウリの否定の言葉は、誰かの言葉によって遮られる。

 誰かというか、

 

「ヘイル様!」

「……来るのが遅いですわ、お父様」


 父ヘイルが、騒ぎを聞きつけてやってきたようだ。

 スタグレーゼの親族同士で言い争っていたので、知己の貴族がヘイルに知らせてくれた形だろうか。


「ーー、あれ……?」

「ちょ、アン姉さん!?」


 ヘイルの姿を見て気が抜けたのか、ふらりと視界が暗転する。


 そのまま、私は意識を手放した。



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