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第二十七話 何してるのって聞いてるんだけど





「ーーーーーーーー」


 周囲の音が、どこか遠くに取り残されているような錯覚すら覚える。

 けれどこれは、どうしようもないほどに現実だった。


「っ……!」


 視界が揺れる。心臓が早鐘のように打っている。

 脂汗が全身から吹き出し、呼吸が荒くなる。

 何かを言葉を出そうとした口はしかし、何の言葉も発することができない。


 直感する。

 目の前にいるこの女ーーケイス・ドルレッサ・スタグレーゼは、三年前のあの日から、何も変わってなどいないのだと。


 そして、ドルレッサの姿を一目見ただけで心の底から怯えることしかできない、ユウリ自身もまたーー。


「……元気だったかしら? と、わたくしがあなたに聞いているのだけれど」

「っーーーー!!」


 ほんの少し押し黙っていただけで、ドルレッサの瞳に危険な光が宿る。

 囁くような言葉に、ユウリの身体がびくりと震えた。


「げ、元気、です……」


 ーー何か言わないと、また殴られる。

 咄嗟にそう思い、つい返事をしてしまった。


「そう。いい子ね」


 ドルレッサはユウリの顔に手を当てたまま、その耳元へ顔を近づけて、


「新しいお家の住み心地はどうかしら? 意地悪とかされてない?」

「そ、そんなことは……」


 少なくとも、この女と同じ屋根の下で暮らしていた頃と比べれば、今の生活は天国のようにすら思える。

 そこまでのことを、ドルレッサに話す気はさらさらなかったが。


「ふふ、そうよねぇ。言えないこともあるわよねぇ」


 しかしなぜか、ユウリの煮え切らない反応にドルレッサは上機嫌だった。

 いったい今のやりとりのどこにこの女が喜ぶ要素があったのか、ユウリには全くわからない。

 ユウリには、この女のことが全くわからないのだ。


「あら?」


 ふと、ドルレッサの興味が他へと移る。

 彼女の視線の先にあったのは、カイが手に持つバスケットだ。

 その中にある焼き菓子たちの存在を認めたドルレッサは、薄く微笑みながらユウリへと視線を投げかけた。


「ユウリ、あなたのかしら?」

「は、はい。アン姉ーーアンニ様にお届けしようと思って」

「ああ、例の『野猿』ね」


 ドルレッサは愉快そうに笑いながら、


「噂には聞いているわ。なんでも、本当に人間なのか疑わしいほどの山猿だとか」

「…………」

「全く、焼き菓子くらい、自分で取りに行けばいいのに。そんなのの子守りをさせられて、あなたも大変でしょう?」

「…………」

「ーーあなたがあまりにひどい環境に耐えられないと言うなら、わたくしから旦那様に口添えしてあげてもよろしくてよ?」


 ドルレッサの唇が酷薄に歪んでいる。

 それは、つまり。

 この女の鶴の声ひとつで、ユウリの安息の日々が終わりを迎えるということを意味していた。


「……ドルレッサ様」

「何かしら?」


 震えるユウリにに対し、穏やかに問いを返すドルレッサ。

 その先に続く言葉は、もうわかっているとでも言わんばかりの態度だが、


「……僕は、アンニ様にとても良くしてもらっています。ドルレッサ様のご心配には及びません」

「…………」


 そこで初めて、ドルレッサの表情が変わった。

 まるで不可解なものを見るような奇妙な眼差しに、ユウリは怯みそうになる。

 それでも、ここで引く訳にはいかない。


「それに」


 ユウリは正面からドルレッサの目を見て、


「アンニ様がーーアン姉さんが、僕に酷いことをしたことなんて一度もない。ーードルレッサ様とは、違う」


 そう言い切り、ユウリはドルレッサの手を振りほどいた。

 それは彼にとって、明確な意思表示でもあった。

 自分はいるべき場所を見つけ、そこから離れる意思はないのだという、ユウリにとって決死の意思表示だ。


「ーーーー貴方」

「っーー!」


 色の抜け落ちた呟きが漏れると同時に、振り解かれた手が、再びユウリへと伸ばされる。

 明らかに害意のあるそれを前にして、ユウリは咄嗟に目を瞑り、




「ーー何してるの、貴方」


 


 覚悟していた衝撃が、いつまで経っても来ないことに、ユウリは疑問を抱く。

 同時に、ユウリがこの世で一番信頼している人の鋭い声が聞こえたことにも。


「ーーーー」


 ユウリの顔の前で、ドルレッサの腕が小さな手に掴まれている。

 それが誰のものなのか、ユウリにはすぐにわかった。




「聞こえなかったの? 何してるのって聞いてるんだけど」




 ジョレット・アンニ・スタグレーゼが、立っていた。


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