第十九話 三年後
私が前世の記憶を取り戻してから、三年が経過した。
私とユウリは九歳になった。
身長も随分と伸びたと思う。ユウリも伸びているが、まだ私の方が高い。
男の子は成長期が遅めなので、将来的には抜かされるのだろう。
勉強の方は、ユウリは初等学院の学習範囲を既に終えた。
さすが我が義弟。頭の出来が違う。
……私? 私のことはまあ、いいじゃないか。
というわけにもいかないので白状しておくと、私はまだ初等学院の範囲の理解が足りていない。
具体的には魔法系の分野と、こちらの世界独自の歴史の分野だ。
このあたりは前世の記憶チートが全く通用しないので苦戦している。
自分で言っていて悲しくなるが、この身体はあまり物覚えがよろしくない。
あまり集中力は続かないし、無性に動き出したい衝動に駆られることもよくある。
机に座ってじっとしている、というのが向いていないのだろう。『野猿』と呼ばれていたのも頷ける。
そうは言っても、さすがに精神年齢三十台半ばを迎えようかという大の子どもが授業中に動き回るのもおかしいので、じっと耐え忍んでいるが……。
魔法の方も、似たような感じだ。
ユウリは既に、一部の上級火属性魔法を扱うことができる。
エメリア先生の指導のおかげもあってか、初級の水属性魔法も扱えるようになった。
私も鼻が高い。
……私? 私のことはまあ、いいじゃないか。
というわけにもいかないので白状しておくと、私は初級の火属性魔法の習得にはなんとか成功した。
あと少しだけ風属性魔法の適性があったようで、ほんの少しそよ風を起こすことができるようになった。なんの役に立つのかは私が聞きたい。
私の方はそんな感じだ。
ユウリと比べるとどうしても見劣りしてしまうのは否めないが、まあ、これくらいだろうなという納得感もある。
与えられている環境から考えれば少し情けないが、同年代と比べて能力面がそれほど大きく劣っているわけでもないだろう。
そもそも原作でのアンニも、お世辞にも成績が良いキャラクターではなかったし……。
ーーそんな感想を抱くのは、私に前世の記憶とゲームの知識があるからで。
そんなものを持ち合わせていなかった原作のアンニがユウリをいびり倒していたのは、ある種の劣等感から来る部分もあったのだろうと思う。
まあそれも、今の私には関係のない話だ。
私はあくまで可愛い義弟を見守っている大人のお姉さんであり、ユウリと張り合う気は毛頭ないのだから。
とはいえ。
「光属性中級魔法か。すごいね。さすがクロスだ」
「世辞はよせ。ユウリは火属性上級を習得したと聞いているぞ。合腹だが、俺も見習わねばな」
ユウリの祝いの言葉に、クロスが苦笑いしながら答える。
中級とは言っても、光属性魔法は他の四属性魔法と比べると習得が難しいと聞く。
その点を考慮すれば、クロスがユウリに大きく劣っているわけではないだろう。
そんな感じで、今日も今日とて、クロスはスタグレーゼ邸を訪れていた。
最近は本当に二日に一回くらいの頻度で訪問されている気がする。暇なのだろう。
表向きは婚約者である私との親睦を深めるため、ということになっているが、
「見落としたね? クロス」
「む……!」
形のいい眉を上げ、テーブルの上を見つめるクロスの表情は、真剣そのものだ。
彼の視線は、テーブルの上の盤面に向けられていた。
「全く気づかなんだ……。これは、一本取られたな」
「ふふ。今回は勝たせてもらうよ」
悔しげにうめくクロスに、ユウリは得意げな顔で胸を張った。
ユウリとクロスが興じているのは、こちらの世界特有のボードゲームだ。
最近はもっぱら、男たちの間でこのゲームが流行している。
クロスがスタグレーゼ邸に入り浸っているのも、私ではなく、ユウリとこのゲームで対戦したいからだろうと思っていた。
どちらも勝ったり負けたりしているので、強さとしてもちょうどいい塩梅なのだろう。
ちなみに私はユウリにボロ負けして以来、一度もやっていない。
「時に風の噂で聞いたのだが……」
クロスがちらりと私の方を見ながら、
「俺たちと同年代にも関わらず、先日ようやく初級の火属性魔法を習得したという輩がいるとか」
「燃やされたいんですの? その頭」
「冗談だ」
軽く笑いながら手を振るクロスに、私は深いため息をついた。
クロスの指摘通り、私の学習進度が二人に比べて遅れているのは事実だ。
それに私自身が納得していても、それを周りがどう思い、どういう態度を示すかはまた別の問題なのだと再認識する。
「だが、少し思うところがあるのは事実だぞ、アンニ」
「え?」
思いがけない言葉に固まる私に向かって、クロスは片目を瞑りながら、
「最近のお前は、やや腑抜けているように見える」
「う……」
「自覚はあったか」
「まあ……ね」
歯切れの悪い答えになってしまったのは、本当にそれが事実だからだ。
確かにこの二年で、クロスやユウリとの親睦はさらに深まった。
ユウリは原作の遠慮がちで薄暗い闇を抱えた性格ではなく、素直な良い子に育っている。
もっとも、原作は原作で影の中に確かな優しさを感じたりして素敵だったのだがーー。それはそれ、だ。
今の方が彼にとってもストレスが少ない環境であることは間違いないのだから、これで良いのだ。
クロスとの関係も、原作では考えられないほど改善しているように思う。
私自身が、クロスとの婚約になんの執着も感じていないのがプラスに働いているのだろう。
今のところ、アンニが破滅するうえで一番の懸念材料だったクロスという地雷を回避できていそうなのは大きい。
エメリア先生や父ヘイル、屋敷の皆との関係も、三年前とは比べものにならないほど良いものになっている、と思う。
少なくとも、原作のアンニよりはずっと良い状態のはずだ。
とはいえ、一番肝心な部分が何もわかっていない。
ユウリが実の家族に向ける憎悪の原因ーーそれを特定し、なんとかしなければ、おそらくユウリの死は覆らない。
今のところ、解決の糸口は見当たらない。
それなのに、だ。
平穏な日々の中、今の状況に慣れてしまい、日々をまったりと過ごしている自覚がある。
まさか、それをクロスから指摘されるとは思わなかったが。
「それほど難しく考える必要もないだろう?」
「え?」
「アンニ。お前は俺に『王族であるのならば、相応の人格を備えよ』と言ったな? ならば、王族の妻となるお前も、相応の人格を備えねばなるまい」
「む……」
クロスの言葉に、咄嗟に言葉が出てこない。
彼の言っている理屈はわかる。王族の妻となる女性には、相応の人格や品格が求められるのは自明の理だ。
けれどそれは、ある一つの意外な事実を示していて、
「……私と結婚する気、あるの?」
私が尋ねると、クロスは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、
「無論、あるに決まっているだろう。王族の婚姻は、そう簡単に覆るものではないのだからな」
そりゃそうかと、私は内心で納得する。
クロスの場合、王と王妃である親が決めた婚姻だ。クロス自身の意思で、簡単にどうこうできるものでもない。
内心でどう思っていようが、表面上は結婚する気があると答えるしかないか。
「今のところ、俺は王位を継ぐ気はない。将来的には王家の領地の一部を譲り受けて、領主として管理することになるだろう。故にそれに備え、今から知識を吸収しているのだ」
「へぇー……」
「なんだその腑抜けた反応は……。このままいけば、お前も俺と共に領地の経営をすることになるのだぞ」
呆れ顔のクロスは、ビシッと私を指さして、
「ジョレット・アンニ・スタグレーゼ。お前は俺の妻となるのだから、相応の努力をしてもらわなければ俺が困る。お前に叱責されたあの日から、俺は一度たりとも手を抜いた覚えはないぞ」
「……!」
それは、思わず背筋が伸びてしまう言葉だった。
そうだ。クロスは本気で将来のことを考えている。そのうえで、今できることを積み重ねている。
最近の私は、どこかたるみがあったように思う。
前世の記憶があるせいか、ありもしない余裕のようなものを感じてしまっていたのかもしれない。
実際はそれがあってなお、勉強に遅れてしまう程度の知能しかないのに、だ。
しっかりしろ、ジョレット・アンニ・スタグレーゼ。
お前が頑張らないと、ユウリの運命は変えられない。
スタグレーゼ家だって破滅するかもしれない。
あるいは、私だけ追い出されたりとか……。今のユウリを見る限り、私が問題を起こす可能性の方が高そうだ。
……なんか、それが一番濃厚な気がしてきたな。
ユウリのことは、ひとまず問題ないと思う。
彼の運命が大きく動き出すのは魔法学院に入学後の話であり、それまでの間にできることは限られる。
とにかくユウリと仲良しで、良き姉であり続けることが一番大事だ。
あとは、ユウリが私の他にも相談できる相手を見つけられれば良いのだが……そういうデリケートな部分にあまり干渉しすぎるのも考えものである。
それよりも今は、私自身の方が問題かもしれない。
仮に私が身ひとつで追い出されたとしたら、今のままでは本当に路頭に迷うことになる。
つまり、いま私がやるべきことは。
「ありがとうクロス。おかげで何をするべきなのか、少し見えた気がするわ」
「礼などいい。婚約者なのだからな」
不敵に笑うクロスを横目に、私は内心で決意する。
いま自分ができることを、しっかりと積み重ねていこう。
つまり、手に職をつけることを。
スタグレーゼ家を追い出されても、生きていけるように。
「っと、そうそう。肝心なことを伝え忘れるところだった」
「どうかしたの?」
「これだ」
クロスは懐から、手紙のようなものを取り出した。
やけに高級そうな見た目の紙だ。
王家の紋章で封をされているところを見るに、王家関連のものだろうか。
「何これ?」
私がそれを受け取ると、クロスは微妙に表情を歪めながら、
「……俺の姉、フォネスト・ネルレリア・ツウォルクォーツの十歳の生誕祭、その招待状だよ」




