フォネスト・クロス・ツウォルクォーツ3
一週間後。
俺は再びスタグレーゼ邸を訪れていた。
今回の訪問理由は、俺個人からアンニへの正式な謝罪だ。
先日訪れた時とはまったく異なる心持ちに、自分でも奇妙に思う。どうしてこうなったのかと。
ただ、不思議と悪い気分ではなかった。それどころか、どこか晴れやかな気持ちすらある。
それはきっと、父と数年ぶりに言葉を交わしたことが大きな要因だ。
もっと言えば、決して自分が父から愛されていなかったわけではない、と自覚できたせい、なのだろう。
我ながら現金なものだが、事実を事実と受け入れるだけの器は備えているつもりだ。
屋敷のエントランスに足を踏み入れると、見覚えのある顔が視界に飛び込んできた。
「これはこれは、クロス殿下。本日は、どのようなご用件で?」
「婚約者であるアンニに会いに来た。それだけだ。他意はない」
「左様でございますか」
老執事の歓待を受けながら、あくまで今回の目的は交流を深めることだと強調する。
「少々お待ちください。アンニ様をお連れいたしますので」
「……いや、俺が出向こう。アンニは今どこにいる?」
その言葉に、老執事は驚いたように目を開いたが、それも一瞬。
「こちらでございます」と彼に案内されたのは、屋敷の厨房だった。
こんなところで、一体何をしているのか。
少し気になったが、それは本人に直接尋ねればいい話だ。
「邪魔するぞ」
扉を開け放つと、様々な種類の視線が俺に向けられる。
その多くは困惑の色が強い。
まあ、前回のことを考えれば無理もないことだ。
「……あ、あの」
肝心のアンニは、エプロン姿で何か作業をしていたようだった。
台の上に整然と並べられたものたちを見て、彼女が何をしていたのかを察する。
「……クッキーを作っていたのか?」
「え?」
俺に質問されたのが意外だったのか、アンニはあわあわとした様子で、
「え、ええ。父にプレゼントする予定で」
「ふむ」
父へのプレゼントと聞いて、俺は内心で深く頷いた。
日頃の感謝を形として贈ること自体は素晴らしい。俺も見習いたい姿勢だ。
ただ、
「あ……」
俺は皿の上のクッキーを一つ取り、それを口へと放り込んだ。
……決してクッキーから聞こえるのは適切ではない音が、口の中から聞こえてくる。
外見からしてわかっていたことではあるが、黒くなった部分はしっかりと焦げている。
食感もなんだかぼそぼそとしていて、正直食えたものではなかった。
「これをスタグレーゼ公爵に贈るつもりだったのか?」
「はい。……ただ、あまりうまくできなかったので、今から作り直そうかと」
「……なるほど」
挑戦に失敗はつきものだ。
一度失敗してなお挑戦を続けようとするその姿勢に、俺は感銘を受けた。
「レシピはあるのか?」
「は、はい。こちらです」
レシピが書かれた紙を受け取る。
なるほど、確かに工程はそれなりに複雑だった。
気を付けるべき部分も多い。
「よし。俺も手伝おう」
「え」
アンニの口から、カエルがつぶれたような声が漏れる。
「何か問題があるのか?」
「いえ。ただ、あまりそういうのをするタイプには見えなかったもので……」
正直な言葉を吐く奴だと、俺は少し笑ってしまった。
「言うじゃないか。まあ、王子たる俺に任せておけ」
……と、啖呵を切ったのはよかったが。
結論から言うと、アンニはポンコツだった。
分量は適当で、混ぜ方も甘い。
菓子は分量を少しでも間違えると、出来上がりが大きく変わってしまう。攪拌も同様だ。
生来の大雑把な性格が足を引っ張っているようだと、俺は勝手に分析していた。
それでも、なんとか出来上がりまでこぎつけることができたのは、俺はもちろんだが、義弟のユウリの協力もあってこそだった。
その様子からして、どうやら最初から一緒に作っていたわけではないようだ。
そんなことを考えている間に、アンニがオーブンから鉄板を取り出していた。
「おお……!」
鉄板の上に並べられたクッキーを見て、アンニが感嘆の吐息を漏らす。
表面はきつね色に焼き上がっており、甘く香ばしい香りが漂ってくる。
先ほどのものとは比べ物にならないほどの出来だった。
「……うん」
スタグレーゼ姉弟が舌鼓を打つのを後目に、俺もクッキーを口に含む。
食感はサクサクとしていて、香ばしい香りが鼻の奥を抜けていく。
甘すぎず、それでいて甘みを感じないわけではない、絶妙な加減だ。
最初に感じたような、変な食感はまったくない。
「さっき食べたものとは雲泥の差だ。これならスタグレーゼ公爵も喜ぶだろう」
「ほっ。よかったです」
俺の太鼓判の言葉に、アンニは露骨に安心したような顔をする。
「それじゃあ、お父様のところに行ってきますね!」
「ああ。喜んでもらえるといいな」
「はい!」
ご機嫌な様子のアンニは、クッキーを抱えてスタグレーゼ公爵のところへ向かっていった。
俺もその後を追い、物陰から様子をうかがう。
「……大丈夫そうだな」
部屋の中から漏れてくる声は、終始穏やかなものだった。
詳細な内容こそ聞き取れないが、特に大きな問題は発生していないようだ。
「……あ」
部屋から出てきたアンニと目が合った。
「どうだった?」
「ばっちりでした! ちゃんと喜んでもらえましたよ!」
「そうか」
俺も手伝った甲斐があるというものだ。
そう言おうとして、不意に押し黙ってしまう。
今日アンニに会いに来たのは、先日の件を正式に謝罪するためだ。
それなのに、俺の口はまるで鋼鉄のように謝罪の言葉を口に出そうとはしない。
ちっぽけなプライドが邪魔をしているのだ。
そんな時だった。
「クロス様。先ほどはお手伝いいただき、ありがとうございました」
アンニから漏れたのは、俺への純粋なお礼の言葉だった。
「俺は横から口を出していただけだろう。それはお前の成果だ」
「私一人では、できませんでしたよ」
そんなこともないのでは、と思う。
確かにアンニは不器用だが、義弟のユウリは相応に器用そうだった。
もっと時間がかかったかもしれないが、できないことはなかっただろう。
「だから、ありがとうございました。……それと、先日は申し訳ありませんでした。その……」
「いい。気にするな」
アンニが素直な言葉を口にしたせいだろうか。
俺も、釣られるように重かったはずの口を開いていた。
「お前の言う通りだ。ツウォルクォーツ王族たる俺が、血で民を差別するなど、あってはならないことだった。
それに、真心込めて作られたものを払い落としたことも、な。お前の怒りも当然だ」
「ですが……」
「ま、けっこう効いたってことさ。まさか俺も、女に殴り飛ばされるとは思わなかった」
「は、はは……」
引き攣ったような笑みを浮かべるアンニに、俺は頭を下げた。
「……すまなかった。俺はお前の義弟を侮辱した。謝罪する」
「ちょ、顔を上げてください! 王族の方がそんな……!」
アンニは慌てた様子だったが、すぐに頭を上げてしまっては意味がない。
これは俺なりのけじめだからだ。
「……いえ、わかりました。謝罪を受け入れます。――ですが」
「……?」
アンニの含みのある言葉に疑問符を浮かべていると、
「クロス様。謝る相手を間違えていますよ。――ほら、隠れてないで出てらっしゃいな、ユウリ」
「……アン姉さん」
いつからそこにいたのだろうか。
廊下に隠れていたのは、アンニの義弟、ユウリだった。
無論、彼にも謝罪しなければならないと思っていた。
今回、彼は何も悪いことなどしていない。ある意味では一番の被害者と言えるだろう。
「ほら、クロス様」
「ああ、わかっている」
迷いはなかった。
俺はユウリへと頭を下げ、
「俺は君を侮辱した。君の母君も。――重ねて謝罪する。すまなかった」
「……顔を上げてください、クロス様」
ユウリは困ったような顔で苦笑いしながら、
「別に僕は怒っていません。僕の方こそ、アン姉さんに手を出させてしまったこと、申し訳ありませんでした」
「それは謝ることではない。原因は俺にあるのだからな」
「それでも、ですよ」
「む……」
ユウリの押し通すような言葉に、俺は少し面喰いながら、
「……感謝する」
それでもひとまず、和解できただけでもよしとしておこう。
「はい。これからも、よろしくお願いしますね?」
「っ! あ、ああ」
そのアンニの笑顔を、なぜか直視できなくて。
「……よろしく頼む。その……アン」
「はい!」
差し出された手を掴み、俺はアンニとユウリと和解することができたのだった。
それからというもの、俺はスタグレーゼ邸へ足を運ぶことが多くなった。
アンニの婚約者として、彼女との関係を良好なものにしておくのは、王族としての責務でもある。当然のことだ。
……それに。
アンニと過ごしている時間は、俺にとってそれほど悪いものでもない。
年端によらず落ち着いていると思うこともあれば、突飛もない行動を始めることもある。見ていてなかなか面白い。
本人に伝えるつもりは毛頭ないが。
そんなことを思いながら、俺は今日もスタグレーゼ邸へと足を運ぶのだった。




