フォネスト・クロス・ツウォルクォーツ2
「――婚約破棄だ!! あんな猿女が俺の婚約者なんて、ありえない!!」
いまだに痛みを訴える左頬を押さえながら、俺は強い口調で吐き捨てる。
ジョレット・アンニ・スタグレーゼ。確かに『野猿』と呼ばれるだけのことはあった。
初対面の婚約者、しかも王族に手を上げるなど、まともな神経をした人間とはとても思えない。
俺の婚約相手には相応しくない。そういう当たり前の判断をしてのことだったが、
「クロス様。それはできかねます」
「なぜだ!? あの馬鹿女はこの俺を殴り飛ばしたんだぞ!? 時代が時代なら即斬首刑だ!!」
老執事のファルゴーに静かに窘められ、俺は語気を荒げる。
俺の言葉は決して大げさではない。
より王族の力が強かった時代には、そういった蛮行が平然と行われていたという。
王族に危害を加えるというのは、そういうことだ。
子どもだからといって、許されるようなものではない。
今のぬるい時代に生まれたことを感謝しろ、と俺は内心で吐き捨てた。
だが、怒りを隠し切れない俺に対し、ファルゴ―はあくまですまし顔である。
「陛下のご意思です。スタグレーゼ公爵は正式に陛下へ謝罪し、陛下はこれを受諾しました。
謝罪を受け入れ、婚約については変更しない、とのご結論を出されたのです」
「そんな……父上……どうして……」
ファルゴ―の言葉に、目の前が真っ暗になる。
それは、あの『野猿』と婚約を続けなければならないこともそうだが、
「……やっぱり父上は、俺のことなんてどうでもいいんだよな」
もし俺が本当に大切なのであれば、殴られた息子の心配くらいはして然るべきだ。
それをしないということは……つまり、そういうこと。
父上は、俺のことなんて何とも思っていない。
スタグレーゼ家という有力な貴族との繋がりのための道具としてしか、俺を見ていない。
俺自身のことなどどうでもよく、そこに俺自身の意思が介在する余地などない。
だが、
「クロス様。それは違います」
「違わないだろ!? 父上は、俺のことなんて――」
「本当にアンニ様に問題があれば、陛下はクロス様をアンニ様と引き離すことに、何の抵抗もないでしょう。
それをしないということは、問題はアンニ様ではなく、クロス様にあるということです」
「は……? どういう、ことだ……?」
俺の口から、困惑の言葉が漏れる。
わけがわからない。
それじゃあ、何だ。
父上はあの猿女ではなく、俺の方に問題があると判断したとでもいうのか。
「アンニ様がお怒りになられたのは、クロス様がアンニ様の義弟――ユウリ様を侮辱したからだと聞き及んでおります。
ユウリ様が妾の子であり、うまくスタグレーゼ家に取り入った、というような内容でしたかな?」
「……事実を、言っただけだろう」
そう言って目を細める俺に対し、ファルゴ―は首を横に振り、
「アンニ様もおっしゃっていましたが、それは事実ではありません。……それに、仮に事実だったとしても、王族として不適格な振る舞いです」
「っ……!!」
ファルゴ―の指摘に、俺は唇を噛みしめながら俯く。
結局のところ、俺が王族に相応しくないというだけの話だ。
「……ってる」
「……? なんでしょうか?」
「――そんなこと、俺が一番よくわかってんだよ!!」
そんなことは、自分自身が一番よくわかっている。
わかっているのだ。
今回の騒動が、自分の誤った価値観が発端となって起こった問題なのだということくらい、最初からわかっている。
「わかってる……」
自分が兄や姉たちと比べて、あまり頭の出来が良くないことも。
兄や姉たちと比べて、魔法の才能もそれほど無いことも。
王位継承権こそ四位だが、他の者たちから王になる可能性などほとんどないと思われていることも。
「……わかってるんだよ、クソ……っ」
本当はわかっている。
今回、間違っていたのは俺だけだったことくらい。
アンニは、俺に侮辱された義弟の名誉を護るために手を上げた。
王族である俺に、だ。
無論、それ自体は決して褒められることではない。時代によってはそれだけで斬首されるほどの問題行動だ。
それでも、俺は心のどこかで腑に落ちるものがあった。
安堵に似た感情すら覚えていた。
アンニは大切な家族が、義弟が傷つけられたとき、ちゃんと怒れる人間なのだということに。
間違った行動をした人間を、真っ直ぐにしありつけることができる人間なのだということに。
お前は間違っていると、あくまで対等な目線で、俺を叩きなおしてくれる人間。
それはもしかしたら、俺が心の奥底で、最も求めていたものだったのかもしれない。
「――なんだ。わかっているのなら、問題あるまい?」
「――ぇ」
聞こえるはずのない声が聞こえ、思わず変な声が喉の奥から漏れてしまった。
まさか、と思う。
それでも、俺がその声を聞き違えるはずがないとも、思った。
「――父上」
父上――この国の王であるフォネスト・ミリガルド・ツウォルクォーツが、そこに立っていた。
この国の平均的な大人よりも頭一つくらいは高いのではないかというほどの巨体と色あせた白銀の髪は、獰猛な獅子を連想させる。
ただその表情は、公の場では滅多に見せることのない、穏やかなもので。
「ヘイルとファルゴ―から仔細は聞いている。スタグレーゼの跡取り息子を侮辱し、その報復としてアンニ嬢に殴り倒されたのだろう?」
「っ……はい。その通り、です……」
父の言葉はあけすけで、とても俺のことを案じたものではない。
けれど、それでもよかった。
こうして父と言葉を交わすなど、何年ぶりのことだろうか。
記憶が曖昧になるほど、父と言葉を交わす機会は少なかった。
「何が悪かったのか、理解しているな?」
「……アンニの義弟を、侮辱したことです」
「それと、彼に偏見を持ったこと、だな」
ミリガルドはその巨体で、俺が使っている小さな椅子に腰掛けた。
椅子が奇妙な音を立てている気がするが、気のせいと思うことにする。
「クロスよ。王族であるのなら、ツウォルクォーツの民は等しく民と知れ」
「民は、等しく民……」
「そうだ。我ら王族は、民草を等しい目線で見なければならん。そこに血がどうだの、他種族がどうだの、そんなくだらんものが入り込む余地は無い」
「無論、そう思わん者も多いがな」と父上は付け加える。
「貴族連中の中には、自分たちの血脈に誇りを持っとる奴らも多い。それ自体が悪いとは言わんが、そういった特権意識がくだらん差別を生む。
……そして、そういった特権意識と差別意識は根強く残っておる。残念なことではあるが、ワシらの代でそれを払拭するのは不可能だろう」
「……だから、俺に、俺たちには、そういう意識を持ってほしくない、と?」
「うむ」と父上は頷き、
「クロスよ。人間の最も重要なものは何か、わかるか?」
「…………誇り、でしょうか」
クロスの答えに、ミリガルドは満足げに頷いた。
「そうだ。付け加えるなら、己が魂に一本の芯を持つことだ。何があろうと揺るがぬ、強い芯を」
「芯……」
「そういう意味では、アンニ嬢は良い。聡明で思慮深く、情に厚い。そして、真っ直ぐな心根を持っている。
……まあ、少々手荒なところはあるようだが」
「――ふ」
最後はやや目を逸らしながら言う父の姿に、俺は噴き出してしまう。
褒めるなら、最後までちゃんと褒めてほしいところだ。
「ま、それでも、お前がどうしても嫌だと言うのであれば、ワシから正式に婚約を断ってもいいが――」
「いえ、その必要はありません」
父の言葉を遮るように、俺ははっきりと言った。
「僕は彼女に、謝りに行かなければいけません。……彼女が許さないというのであれば、仕方ないですが」
「はは! そうだな! まずは謝って、許してもらうところからだな!」
バシバシと容赦なく息子の背中を叩く父の手を、俺は苦笑いしながら受け入れる。
「……良いものですな」
そんな普通の親子のような光景を、ファルゴ―は微笑ましいものを見る目で見つめていたのだった。




