ラアル・ユウリ・スタグレーゼ
僕――ラアル・ユウリ・スタグレーゼは、名門スタグレーゼ家の、分家の長男として生を受けた。
幼い頃の思い出は、残念ながらあまりない。
おぼろげに覚えているのは、母がいつもそばにいて、子守唄を歌ってくれていたことくらいだ。
幸せな時間は長くは続かなかった。
母が若くして亡くなり、父は新しい母親を連れてきた。
その母親には、僕と同い年の連れ子――カイがいた。
カイも父の子だった。
幼い僕は、それを『そういうこともあるんだ』と思って受け入れた。
カイは寡黙な少年だった。
ずっと黙っていて、何を考えているのかわからない。
言葉を交わすことはほとんどなかった。
良くも悪くも、無関心で不干渉。
それがカイという少年の印象だった。
問題は義母の方だった。
義母は事あるごとに、僕に嫌がらせをしてきた。
父の前ではそれなりにいい顔をしているが、裏では酷いものだった。
誰も見ていないところで殴られるのは当たり前。
「っ……」
「なんでまだこの家にいるの? 早く出て行ってくれない?」
すれ違い様に罵られた回数なんて、数えるのも馬鹿らしい。
このままでは、本当に殺されるのではないか。
そんなことを毎日考えていた僕にとって、それはある種の天啓のようにも思えたのだ。
「――ユウリ、お前に養子の話が来ている。スタグレーゼ本家からだ」
スタグレーゼ本家。
詳しいことはわからないが、分家であるこの家よりも少し地位が高いらしい、ということだけは知っていた。
「我が家は分家だ。本家からの要請となれば、断るという選択肢はない。私としては名残惜しいが、仕方あるまい」
父の顔は、まったく名残惜しそうではなかった。
むしろ、どこかホッとした顔をしていた。
それがどういう感情から来るものなのか、幼い僕にもなんとなく察しはついた。
出発前の数日の間に、スタグレーゼ本家の噂を耳にした。
スタグレーゼ本家の当主は妻に先立たれてしまったが、後妻を取ることはせず、一人娘のアンニの嫁ぎ先も決まったので、養子を取ることにしたこと。
一人娘のアンニは、たいそうな問題児であるということ。
アンニの噂は、僕も耳にしていた。
初めてのお茶会で相当暴れたらしく、巷で噂になっていると。
そして案の定と言うべきか、アンニは僕が養子になることに強く反対していたらしい。
そんな家に行くことになるという事実に、頭を抱えたくなった。
とはいえ、この家にずっといるよりはマシだろう。
このままでは、いずれ義母に殺されかねない状況だった。
養子に行くことが決まってから、義母は今までのことが嘘だったかのように大人しくなった。
たとえどれだけ義姉の人間性に問題があっても、義弟を殺そうとするほどいびり倒すということはないと信じたい。
そうした経緯があって、色々と覚悟して養子に行ったのだが。
「――可愛いいいぃぃいいい!!」
僕の義姉となる少女――アンの口から最初に飛び出したのは、そんな言葉だった。
結論から言うと、僕の義姉は、かなり不思議な人だった。
そして、想像していた人物像とはだいぶ違った。
僕と同い年の小さな姉は、僕のことをそれはもう、たいそう可愛がってくれた。
屋敷にきた初日は、自分で屋敷を案内してくれたり、一緒にご飯を食べたり、一緒にお風呂に入ったり……。
ちなみに後ろ二つは、初日だけでなく毎日だ。
最初は「何か裏があるのではないか?」と疑っている部分もあった。
なにせ、噂に聞いていた人物像との乖離がすごい。
噂になっていたのは、それはもうひどいものだった。
とんでもない性格で、自分の気に入らないことがあると癇癪を起こすとか。
自分の身分を振りかざして、使用人たちに無茶な命令を日常的にしているだとか。
そもそも養子を取ること自体をかなり嫌がっている、なんていうものもあった。
そういったうわさがうわさでしかないことは、実際に彼女との時間を過ごすうちに、確信へと変わっていった。
毎日、ほとんど一日中、一緒に何かしていないと落ち着かないくらいべったりだからだ。
そんな日が続いていたある日のこと。
僕はアン姉さんと一緒に中庭に来ていた。
家庭教師のフィッチ先生から、魔法を教わるためだ。
ここ一か月ほどは、魔法の基礎的な部分について学んできた。
今日は初めての実技訓練ということで、僕だけでなくアン姉さんも少し緊張しているように見える。
まず最初に行うのは、自分の内側にある魔力を感じ取ること。
そして、それを外側へ放出すること。
その過程を経てようやく、人間は魔法というものを扱えるようになるらしい。
意識を集中させる。
自分の奥底を目指して、意識をより深い部分へと沈めていく。
「……あ」
それはすぐに見つかった。
自分の中に、奇妙な感覚がある。
まるで自分の中に、自分ではない何かがいるかのような、そんな感覚が。
「ユウリ様。ご自身の中にある魔力を感じ取ることができたのですね?」
「……はい。たぶん、これがそうなんだと思います」
「では、それを外側に吐き出してください。できますか?」
「や、やってみます」
フィッチ先生の言葉に、そう返したのはいいものの。
これを、外側に出すということに、かなり大きな忌避感があった。
無論、そんなことは言葉には出さなかったが。
先生の言葉に従って、それを外側に吐き出そうとする。
「…………」
不意に、寒気を感じた。
身体の芯から凍えるような、そんなおぞましい感覚があった。
その次に感じたのは、煮えたぎるような灼熱だった。
身体の中で炎が燃えているような、内臓の奥から焼かれているようなおぞましい感覚に、僕は意識を失いそうになる。
なにか、おかしい。
僕がそう気づいたときには、もう遅かった。
瞼が開かない。
それどころか、うまく声を発することもできなくなっていた。
「…………うう……っ……」
身体中から、変な汗が噴き出していた。
それだけではない。
瞳を閉じていてもわかった。
自分の身体の周囲に、何か得体の知れないものが漂い始めたことに。
「フィッチ先生! ユウリが……!」
「わかっています! しかし、これは……!」
アン姉さんとフィッチ先生の緊迫した声に、あまり良くない事態が起きていることは察することができた。
それでも、今の僕になんとなく理解できたのはそこまでで。
とにかく、身体が熱い。
いっそ燃え尽きた方が楽なのではないかと思わせるほどの灼熱だ。
同時に、内側からとんでもない質量が溢れ出ようとしている感覚があった。
身体という器から、質量そのものが爆発しそうになる、おぞましい感覚だ。
意識を失いかけた、その瞬間だった。
「ユウリ!!」
声がした。
聞き覚えのある、けれど今まで聞いたことのないほど切迫したその声に、僕の意識が浮かび上がる。
「……アン……姉さん……?」
「そうよ。お姉ちゃんよ!」
どうして、アン姉さんがここにいるのだろうか。
鈍った頭が疑問を抱いたのは一瞬だった。
遅れて気付く。
アン姉さんは、僕を助けようとして、近づいてきたのだと。
「……っ! ダメ、だよ……アン姉さん……! からだが、すごくあつくて……! いまにも、ばくはつしそうなんだ――!!」
無意識のうちに、左手で胸を搔いていた。
思いのほか強い力だったようで、胸から血がこぼれた。
このままでは、僕だけでなく、アン姉さんまで巻き込んでしまう。
おそらく、とても大変なことが起きる。
それがわかっているのに、僕はうまく力を抑えることができない。
「――――」
不意に、僕の手に温かい感触が伝わってきた。
温かく、慈愛に満ちた、柔らかな手の感触だ。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんが、そばにいるから」
「でも――」
「大丈夫だから。ユウリなら、大丈夫」
「……アン、姉さん」
どうしてだろうか。
状況は何も変わっていないはずなのに、少しだけ冷静になった。
――どうして、この人は、ここまで僕にやさしくしてくれるのだろう。
「ゆっくり息を吐いて。大丈夫、ユウリなら絶対に大丈夫だから」
「…………」
「お姉ちゃんが、ついてるからね――」
アン姉さんの手は、少し震えていた。
恐怖を感じながらも、アン姉さんは僕を助けるために、ここまで来てくれたのだ。
そのやさしさに、僕は何を返せばいいのかわからない。
けれど、今は。
「……ありがとう、アン姉さん」
震える彼女の手に、僕は右手を重ねた。
少しでも、アン姉さんの不安を減らせたら。
ただそう思っての行動だったが、
「先生がね、正面に大きな水の壁を作ってくれてるの。そこに向けて、身体の内側の熱を打ち出すの。できる?」
「――うん。やってみる」
アン姉さんの提案に、僕は小さく頷いた。
この溢れんばかりの質量をどうにかするには、それを放出するしかない。
フィッチ先生がそれを受け止められるだけの防壁を作ってくれているというのなら、頼らない手はなかった。
うまくいくかわからないけれど、このままではどのみち暴発する。
やってみるしかない。
名残惜しかったけれど、アン姉さんの手から右手を離す。
左手は、アン姉さんがしっかりと包み込んでくれている。
そして右手を、前へと突き出した。
集中する。
今度は全身からの放出ではなく、ひたすら右手の先に体内の熱を集めるイメージだ。
熱はあまり僕のいう事を聞こうとはせず、少し集めるのにも苦労する。
それでも、ここで僕がやらなければ、アン姉さんにも被害が及ぶ。
やるしかない。
「――――」
どれくらいの間、そうしていただろうか。
身体の内側の熱が、少しずつではあるが、僕の右手の先に集まり始めた。
しかし、まだ甘い。
僕の奥底に眠る質量は、こんなものではない。
「……熱が、引いてる?」
アン姉さんの呟きが漏れる。
おそらく、僕の身体の熱も引き始めているのだろう。
だが、いいことばかりでもなかった。
「……くっ……!!」
右手の先が、焼けるように痛い。
瞼の裏に、溢れんばかりの光を感じる。
それに負けるとも劣らない、強い火の臭いも。
どうなっているのか、確認するのが怖い。
幸いというべきか、身体の奥底に沈んでいた熱は、そのほとんどが右手の先に集まっていた。
けれどそれも、一秒後には霧散してしまいそうなほど儚いものだ。
このままでは爆発する。
強い危機感に、僕は悲鳴を上げるように叫んでいた。
「……アン、姉さん……ぼく、もう……!」
震える僕を、アン姉さんは抱きしめてくれた。
自分だって熱くて仕方ないだろうに、それでも僕を離さない。
「前に打ち出すように、手を放すの。できる?」
「……やって、みる」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんがついてるからね」
「……うん!」
迷いはなかった。
アン姉さんと、フィッチ先生を信じるしかない。
僕の手から、それが離れる。
が、それは想像していたよりも、僕たちから離れていないような気がして。
けれど次の瞬間、強い風が吹き荒れた。
僕の熱よりも弱く儚い、けれどどこかあたたかな熱が、僕の手から離れた熱を押し出してくれたのだと、遅れて気付く。
そして、
「――――ッ!!」
今まで体験したことのない衝撃が、僕とアン姉さんの身体を襲った。
ぐるぐると回転しながら吹き飛ばされ、地面に転がる。
掠れる瞼を開くと、フィッチ先生が作ってくれた水の壁が崩壊したせいなのか、庭中が水浸しになっていた。
着ていた服もどろどろだ。
「うっ……」
手足の痛みに、小さな声を漏らした。
それでも、少し手足を打った程度で済んだのは、奇跡と言っていい。
アン姉さんとフィッチ先生がいなければ、間違いなく死んでいただろう。
「あ、ユウリ!」
アン姉さんの声がして、僕はひどく安心してしまった。
「大丈夫? 怪我とかしてない? 気分が悪いとか、そういうのは――」
「……うん。だいじょうぶだよ。ありがとう、アン姉さ――」
アン姉さんにお礼を言おうとして、見てしまった。
アン姉さんの両腕は、ひどく焼けただれていた。
頭から冷水をかけられたような、身体の芯から凍えるような、初めて味わう感覚があった。
「……そ、そのうで……」
「腕?」
アン姉さんは不思議そうな顔をしていたが、自分の腕の状態を見て得心したような顔で、
「ああ。大丈夫よ、これくらい。ちゃんと治るわ」
アン姉さんの声は、もはや僕に届いていなかった。
僕の。
僕のせいだ。
僕のせいで、アン姉さんが傷ついた。
アン姉さんを、僕が傷つけてしまった。
大切な人を、僕は――。
僕の意識がかろうじてあったのは、そこまでだった。
僕はそのまま、意識を手放した。
あのあと。
僕は自分の部屋から出られなくなった。
アン姉さんの腕の怪我は想像以上にひどく、フィッチ先生では完全には治せなかったらしい。
王都から治癒師を呼んで治療してもらうことになったそうだ。
……怖い。
もし、アン姉さんの傷が、王都の治癒師でも治せないほどのものだったら。
僕はいったいどうやって、この罪を償っていけばよいのだろう。
「――ユウリ。入るよ」
有無を言わさぬその声色に、僕も部屋の鍵を開けるしかなかった。
父――ヘイル様が、僕の部屋にやってきたのだ。
「もっ、もうしわけありませんでした!」
その姿を認めた瞬間に、ぼくは床に頭をこすりつけていた。
「ぼくは、アン様をきずつけてしまいました……! 大切な、アン姉さんを、傷つけてしまいました……!」
「僕にできることなら、なんでもします……! だから、どうかアン姉さんの傷を、治してあげてください……!」
つたない謝罪であることは、理解していた。
それでも僕は、床に跪きながら泣いて謝った。
とても許されないことをしてしまったことは覆せない。
ゆるされるとは思っていなかった。
けれど、返ってきたのは想定外の反応だった。
「ユウリ、落ち着いて。顔を上げなさい」
「……え?」
ヘイル様は、どこか困ったような顔をしていた。
その表情の意味がわからず、僕は呆けたような顔をする。
「ユウリ、君個人に対して、私が責任を問うつもりはないよ。君はまだ子どもなんだ。責任を問われるべき人間は他にいる」
ヘイル様はそう言いながら目を細めていた。
その奥にある感情を読み取ることは、僕にはまだできなくて。
「それにね、ユウリ。アンを大切に思う、君のその思いは尊いものだ。君は私が思っていた以上に、アンと仲良くしてくれているようだね」
言いながら、ヘイル様はどこか嬉しそうですらあった。
それは僕に対して悪感情を抱いているようには、どうしても見えなくて。
「幸いにも、今回アンの命に別状はなかった。それに、王都から呼び寄せる治癒師は、こと治療においては間違いなく一流だ。
アンの傷はちゃんと治るよ。だから心配しなくていい」
「あ――」
ヘイル様が、僕の頭を撫でる。
アン姉さんとは違って、あまり人の頭を撫で慣れていない感じが伝わってくる。
それでも、なんとか僕を安心させようとしているのだけはわかった。
「っと、そろそろ時間だ。王都に戻らないと。ユウリ、気持ちの整理がついたら、ちゃんとアンとも話をするんだよ? わかったね?」
「……はい。必ず」
ヘイル様は満足したような顔で頷くと、少し急ぎ足で帰っていった。
「…………」
一人になった部屋の中で、僕は考える。
なんだか、随分と肌寒い。
それは、割れた窓から入ってくる、すきま風だけのせいではないのだろう。
「……こわい」
ヘイル様は、アン姉さんの傷はちゃんと治ると言っていた。
だからきっと、そちらは本当に大丈夫なのだろう。
ヘイル様がそんなところで嘘をつく理由はないのだから。
アン姉さんを傷つけた僕を勘当するわけでもなく、かといって強く励ますでもなく。
一人で考える時間を与えてくれた!!!!様に、僕は感謝していた。
これから先も、アン姉さんと一緒にいられることは、素直にうれしい。
……なら、この胸の苦しみは、一体なんなのか。
「……っ」
自分の心がわからず、僕は毛布の中で自分の身体を抱きしめていた。
アン姉さんが、僕を許してくれないと思ってるのか?
そんなことはない。アン姉さんは、そもそも僕を怒ってなんていなかった。
ずっと僕を心配して、気にかけてくれていた。
だからこれは、アン姉さんに嫌われるのが怖いとか、そういう類のものではない。
怖いのは、自分自身だ。
もっと言えば、膨大な魔力という、いつ爆発するかもわからないものを抱えている、自分自身に対して、のほうが適切だろう。
僕は、自分の魔力をうまくコントロールすることができない。
今は自分自身の奥底で、小さく燻っている程度だ。
このまま普通に生活しているだけなら、それほど心配はないだろう。
でも、大きく心を揺さぶられるようなことがあると、どうなってしまうかわからない。
それに当然、また魔法を使おうとすれば、今回のような大爆発を起こす危険性が高い。
常に、巨大な爆弾を抱えているようなものだろう。
そんなのと、アン姉さんがずっと一緒にいるなんて危険すぎる。
「…………」
万が一、僕の魔力が暴走して、今回のような大爆発を再び起こしてしまったとしよう。
原因である僕一人が死ぬのは、まだいい。
それに、アン姉さんが巻き込まれてしまったら?
!!!!様や、フィッチ先生、ほかの屋敷の人たちが巻き込まれてしまったら?
「…………ああ、そうか」
そこまで考えてようやく、僕は自分が何を恐れているのかを理解した。
僕は、アン姉さんが、僕のせいで死ぬのが怖いんだ。
アン姉さんは優しい。
あんなことがあったのに、自分だって決して軽くない怪我をしているのに、それでも僕のことを気にかけてくれるくらいには。
きっと何かと理由をつけて、また前のように一緒にいようとするに違いない。
こんな、いつ爆発するかもわからない爆弾のような人間と、一緒に。
「……そんなの、だめだ」
でも、だとしたらどうすればいい?
どうすれば、あの優しい姉は僕から離れてくれるのだろう。
「……口を、利かないようにする、とか?」
けれど、そっちに関しては、あまりいい案は浮かばなかった。
思いついたのは、僕がアン姉さんを嫌いになったと、そう思わせれば、彼女も僕から離れてくれるのではないか、というくらいで。
だからとにかく、部屋の中に籠ることにした。
優しいアン姉さんのことだ。
もしかしたら、僕が部屋に籠っているのを知れば、尋ねてくるかもしれない。
それをすべて無視するのは、相当に心に負担がかかりそうだった。
「…………」
そんな懸念を抱いていたのだが、一週間経ってもアン姉さんは部屋にはやってこなかった。
安心したような、残念なような、そんな複雑な気持ちを抱きながら、僕は本を読んでいた。
「……ユウリ、いる?」
僕が部屋に籠り始めてから、八日目の夜。
アン姉さんは、僕の部屋の前にやってきた。
「…………」
心が歓喜に震えるのを自覚する。
今すぐに飛び出して、アン姉さんに直接謝りたい。
そんな気持ちを必死で押さえつける。
「…………」
でも、ダメだ。
ここで出て行ってしまえば、すべて無駄になる。
これ以上アン姉さんを危険な目に遭わせないためには、僕はアン姉さんに、嫌われないといけないんだ。
「……寝ちゃってる、かな。ごめんね、こんな時間に来ちゃって。また明日、来るね」
「…………」
気遣うような言葉の中に、寂しさが混じったような、そんな声だった。
アン姉さんが遠ざかったのを察した僕は、ベッドの中で声を殺して泣いた。
罪悪感で、胸が張り裂けそうになる。
……でも、これは必要なことなんだ。
優しいアン姉さんを危険に晒さないためには、こうするしかない。
結局その日は、一睡もできなかった。
僕が部屋に籠り始めてから、ちょうど十日目。
「……ユウリ、いる?」
「…………」
アン姉さんの声だった。
耳を傾けてはいけない。
アン姉さんのことを想うなら、僕はそうするべきだ。
「私ね、わからなかったんだ。ユウリがどうして、出てきてくれないのか」
「…………」
でも、できなかった。
僕の心はどうしようもないほど、アン姉さんのことを求めていたから。
「傷は、ちゃんと治してもらったんだよ。痕も残ってない。だから、ユウリが気にすることなんて何もないのにって、ずっと思ってた」
「…………」
治療がうまくいったというのは、使用人たちからも聞いていた。
アン姉さんの怪我がちゃんと治ったのは、とてもうれしい。
でも、違うのだ。
僕がアン姉さんと一緒にいられない理由は、
「……でも、フィッチ先生にも相談して……ユウリが気にしてることは、ちょっと違うのかもって、そう思ったの」
「…………」
まさか、と思う。
アン姉さんは、もしかして、気付いてしまったのではないか。
「ユウリはこれから先も、自分の魔法で私を傷つけるかもしれないって、そう思ったの? だから部屋から出てきてくれないの?」
「…………っ」
「――だから、私を遠ざけようとするの?」
「……っ!」
そうであってほしくはないという僕の願いは、儚くも崩れ去った。
いや、聡明なアン姉さんのことだ。
気付かないはずがない。
そして、僕の狙いがアン姉さんに見透かされている以上、これ以上の沈黙は無意味だ。
ちゃんと、自分の口で伝えなければ。
「……こわいんだ」
あまり声を出していなかったせいか、僕の声は震えていた。
「じぶんのなかから、すごくくろくておおきなものがあふれてきて……ぼくなんかじゃ、あれをなんとかするなんて、できないよ……」
「……ユウリ」
僕の力では、どうにもならない。
それがわかっているから、僕は絶望の淵にいる。
「まほうをつかおうとして……つかおうとしなくても、なかからあふれてきそうになるんだ……。このままじゃ、アン姉さんまで……」
「――――」
自分の魔力のせいで自分が死ぬのは、まだいい。
でも、僕のせいで、僕のことを大切に想ってくれている人を亡くしてしまうかもしれない。
それは、とても耐えられないことだ。
だから遠ざける。
たとえ、どれほど僕の心がアン姉さんを求めているのだとしても。
どれほどアン姉さんが、溢れんばかりの慈愛の心で、僕と共にあろうとするのだとしても。
それが、最もリスクが小さい選択だ。
「……でも、うれしい」
「……え?」
扉の向こう側から聞こえてきた声に、僕は困惑する。
今の会話のどこに、アン姉さんが嬉しがるようなことがあるのか、本気で理解できなかった。
「だってそうでしょ? ユウリは私が大切だから、傷つけたくないから、わざと自分から距離をとってたんだよね。えへへ、うれしいなぁ」
「それは……」
そんなのは当たり前だ。
アン姉さんは大切な、僕のたった一人の姉なのだから。
「ありがとね、ユウリ。お姉ちゃんのことを、大切に想ってくれて」
そんなのは、今更お礼を言われることでもなんでもない。
なんでこの人は、いつもこうなんだろう。
自分が周りから与えられる小さなものに、不釣り合いなほど感謝して。
自分がどれだけ周りにたくさんのものを与えているのか、まったく自覚がない。
わけのわからない衝動が湧き上がり、僕は叫んでいた。
「……でも、ぼくはアン姉さんをきずつけたんだよ!? あんなひどいけが、もしかしたらなおらなかったかもしれないのに……!!」
アン姉さんは、もっと僕を怒るべきだと思う。
下手をすれば、死んでいてもおかしくなかったのだ。
自分が死にかけたのはお前のせいだと、そう言って僕をなじってくれたらよかったのだ。
そうして僕を遠ざけるのが一番、アン姉さんが安全に過ごせる方法なのに。
「いいのよ。私が、ユウリを助けたかったから、結果的に怪我しちゃっただけ。ユウリのせいじゃないわ」
アン姉さんは頑なに、僕を遠ざけようとはしてくれない。
悪いのは自分だと、そう言い張るアン姉さんは、強情ですらあった。
「でも――」
「私の怪我も治った! ユウリも怪我してない! 屋敷もちゃんと元に戻ったし、何も問題ないのよ!」
「…………」
どうすれば、この人はわかってくれるのだろう。
僕の近くにいることの危険性を、どうすれば理解してくれるのだろう。
そもそも、アン姉さんがそこまで必死になって僕と和解しようとする理由も、よくわからない。
いくら同じ家の子どもになったとはいえ、僕は養子としてこのスタグレーゼ家にやってきた人間だ。
アン姉さんにとっては、所詮は他人でしかないのに。
「あのね、ユウリ。ユウリはお姉ちゃんのことを大切に思ってくれてるけど……それは、私も同じなんだよ?」
「え?」
そう、本気で思っていたから。
アン姉さんの口から出た言葉は、あまりにも衝撃的だった。
「私だって、ユウリのことが大切で、傷ついてほしくなくて……。だから、ユウリが困ってたら助けたいし、悩んでたら相談に乗ってあげたいって思うのよ」
「……どうして?」
まったくわからなかった。
どうしてアン姉さんが、そこまで僕のことを想ってくれるのか。
「どうして、って……私が、ユウリのお姉ちゃんだからに決まってるじゃない!」
「――――」
「ユウリは私の大切な家族なの。弟なの。だからお姉ちゃんは、ユウリのためならだいたいなんでもできるわ! だいたいね!」
――家族。
僕にとっての家族は、生みの母親だけだ。
父親は女癖が悪く、ユウリに感心などかけらもなかった。
スタグレーゼ本家に引き取ってもらえて、心の底から安心したような顔をしていたのを覚えている。
後妻としてやってきた義母は、ユウリにとって敵でしかなかった。
事あるごとにいびられ、父の目が届かない場所で嫌がらせを受けていた。
実子であるカイを、スタグレーゼ分家の跡取りに据えようと必死だったのだろう。
義兄のカイは、よくわからない。
いつもぼんやりとしていて、誰に対してもあまり興味はなさそうだった。
もちろん、義弟である僕に対しても、微塵も興味などなさそうだった。
僕にとって、家族とは母親のことだった。
やさしくて、あたたかくて、いつも子守唄を歌って寝かしつけてくれた、僕の母親。
もうこの世にはいないけれど、今でも愛していると胸を張って言える。
じゃあ、アン姉さんは。
僕にとって、どんな存在なのだろう。
一応姉とはいえ、僕と歳の差はない。
ずっと一人だけの子どもとして育てられてきたのだから、僕が養子に来ることに、内心では複雑な思いもあっただろう。
自分の家の中での立場も変わってくる。
それでもアン姉さんは、僕にすごく優しくしてくれた。
アン姉さんと一緒にいると安心する。
できることは、なんでもしてあげたいと思う。
ずっと一緒にいたいと思う。
……つまり、そういうことなのだろう。
僕はアン姉さんに、家族としての愛情を持ってしまっている。
「お姉ちゃんはかわいい弟を助けるものなの。だから絶対、見捨てたりなんかしないんだから!」
そして、それはアン姉さんも同じなのだ。
家族は絶対に、お互いを見捨てたりしない。
たしかに、その通りだと思う。
「……アン姉さんのきもちは、わかったよ。すごく、うれしい」
アン姉さんに、そこまで強く想われていたことは、とても嬉しい。
でも。
「でも、だめなんだ。ぼくは、まりょくがうまくコントロールできない。まりょくが……!」
それが大きければ大きいほど、ユウリの恐怖もまた、大きくなってしまう。
溢れる魔力が、もし家族であるアン姉さんに再び襲い掛かったら、どうなる?
今回はたまたま二人とも無事だったが、次も大丈夫という保証はない。
今度こそ、アン姉さんの命を奪ってしまうかもしれない。
「――ユウリ様。少しよろしいでしょうか?」
そのとき。
アン姉さん以外の、聞き覚えのある声がした。
「……フィッチ先生?」
「ええ、そうです」
気配がなかったので、まったく気づかなかった。
どうやら、家庭教師のフィッチ先生もアン姉さんに同行していたようだ。
僕に何か言うことでもあるのだろうか。
「つまり、ユウリ様が魔力をコントロールできるようになれば良いのでしょう。なら、私がユウリ様を猛特訓しましょう」
「「え?」」
僕とアン姉さんの声が重なった。
「魔力のコントロールの上手さは生まれ持った素質も影響しますが、その大部分は、訓練すれば鍛えられる部分です。
ユウリ様がしっかりと励めば、どれだけ膨大な魔力を秘めていようとも、魔力の暴走などということは起こらなくなりますよ」
「……ほ、本当に?」
そんなことが可能なのだろうか。
僕もまだ、魔法についてそこまで深い知識があるわけではない。
フィッチ先生がそう言うのであれば、あるいは。
僕の努力次第で何とかなる部分なのかもしれない。
「私はこれでも、魔法学院ではそれなりの成績でしたし、魔力の操作なら問題なく教えられます。あとは、ユウリ様次第です」
「ぼ、ぼくは……」
考えるまでもなかった。
アン姉さんとこれから先も一緒にいるためには、絶対に必要なことだと理解していた。
僕の魔力量は、かなりすごいらしい。
それは大きな爆弾ではあるが――同時に、強力な武器になる可能性も秘めているのだと、今になって気付く。
どうして、そんな簡単なことを見落としていたのだろう。
本当に簡単なことだ。
僕が完全に自分の力を制御して、アン姉さんを護れるようになればいい。
こんな思いを、二度としなくて済むように。
僕の大切な人を、僕のせいで傷つけないで済むように。
ただ、それだけの話だったのだ。
だから、誓おう。
僕は、もう二度と、自分の力を暴走させたりしない。
絶対に、二度とアン姉さんを傷つけない。
今度は僕が、アン姉さんを護れるように、強くなるんだ。
「…………」
僕は扉を開いた。
それはもう、僕には必要のないものだったから。
「……ぼく、やるよ。にどと、アン姉さんやみんなをきずつけないようにする。それで、こんどはぼくがみんなを守るんだ」
僕の言葉に、フィッチ先生は微笑んで、
「ええ。ユウリ様なら大丈夫です。きっと、皆さんを護れるくらい強くなれますよ」
「うん!!」
そして、アン姉さんに向き直る。
僕のことを家族だと言ってくれた、あたたかい太陽のような人。
その顔を見るだけで、自然と涙が溢れた。
「……アン姉さん。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「いいのよ。大丈夫。大丈夫だからね……」
涙は、うれしいときにも流れるものなのだ。
僕は今日、初めてそれを知った。
こうして、僕はスタグレーゼ家の一員に――アン姉さんの弟になった。
スタグレーゼ本家に来てから、僕の生活は大きく変わった。
毎日が楽しいと思えるようになった。
明日が来るのが待ち遠しいと思えるようになった。
本当に、この家に養子に来てよかった。
そう思うのは間違いなく、僕を可愛がってくれる小さな姉のおかげで。
きっと、アン姉さんは僕のことを見捨てない。
これからもずっと、僕の味方でいてくれると、そう信じられる。
そして僕も、この先どんなことがあっても、アン姉さんの味方でありたいと、そう思う。
……ただ、アン姉さん。
僕を抱きしめているとき、たまにすごくだらしない顔になってる時があるから、そこだけはなんとか直したほうがいいかもしれません。
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