9話 彼女とあの子
飛竜の対処を終えた後、どうしても気になってしまって救護室に向かった。
頭によぎるのは、脚から血を流した少女の姿。
死に至るほどの出血量とまではいかなかっただろうが、万が一ということもある。救護室へと向かう足は早くなった。
しばらく歩いて、救護室の扉の前で立ち止まった。
扉をノックしようと手を出したが──
すぐに降ろしてしまった。
不安になったからだ。
彼女に怪我を負わせたのは、監督が行き届かなかった私の責任だ。もう少し気を配っていたら、あのガラスの破片が彼女の脚に刺さることはなかっただろう。
──もしもあの傷が治らなかったら。
──もしも、身体的な傷だけでなく、心にも深い傷を負わせてしまったなら。
彼女は、私に不信感を持つのではないだろうか。
不信感を持った相手に、会いたいとは思わないのではないか。
心配になったので、彼女のもとを訪れる、というのはただの私の自己満足だ。
突き通して良いものでは、ないのではないか。
むしろそれは、彼女に不快感を与える原因になってしまわないだろうか。
そう、葛藤に悩まされていた時。
きゃおん、という鳴き声がドア越しに聞こえた。
『どした、誰かいるの?』
今度はドア越しに彼女の声が聞こえて、思わず肩が跳ねた。
確かこの生徒は小型の魔獣を連れていたはず。その魔獣が私の気配を感じたのだろう。
私がいるということに気づいてしまっただろうから、この場から離れるわけにもいかない。
意を決して、ノックをしてからドアを開けた。
中に入ってみると、子犬の魔獣を抱えた少女がいた。
どうやら救護室の先生は席を外しているらしい。
「ソフィア先生!」
私を見るや否や、魔獣を抱えたままの少女が、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる。
「先生、大丈夫でしたか?あとあの魔獣も……」
「心配しないでください。問題ありませんよ」
「そうですか、よかった……」
少女は溜飲を下げたようで、安堵の息を吐いた。
真っ先にこちらの心配をしてくれることに驚きながらも、気にかかったことを口に出す。
「脚は、大丈夫でしたか」
「はい!治癒魔法で治してもらいました!」
そう言うと、その場でくるりと回って見せた。
見たところ傷は見当たらないし、運動機能に障害も無さそうだ。ひとまず気は休まった。
「綺麗さっぱりですよ!どこに傷があったのかもわからないでしょう?」
そう言いきって、目の前の彼女はにこりと笑顔を見せてくれる。
その無邪気さに笑みがこぼれつつも──
「……治癒魔法を使用されたならば、しばらくの間動くことは推奨されないのでは?」
注意を促せば、わかりやすく身体を硬直させ、決まりの悪そうな表情をした。
「救護室の先生には、内緒にしてもらえませんか……?」
「ふふ、今すぐベッドに戻るなら構いませんよ」
「はい!戻ります!」
そうして回れ右してベッドへ戻るのかと思えば、予想に反し一回転してこちらに向き直った。
「……どうかしたんですか?」
「えーっとですね……」
何かを言い出そうとしているようだが、言い淀んでいるらしい。そこで不意に、少女の腕の中で大人しくしていた魔獣が地面に降り立った。
するとどうだろう、まるで案内するかのように、こちらを見つつベッドの方へ進んでいくのだ。
「……ここに座れと?」
「きゃおん!」
ベッドのすぐ側に控えてある椅子まで案内され、指し示してみれば、その通りだと言うように魔獣が一吠えした。
「わぁ!?すみません、私がこの子に話したせいだ、すみません本当に!!」
少女がばたばたと音を立てながら魔獣へと駆け寄り、すぐさま抱きかかえた。
慌てふためいている様子がなんだかいじらしくて、失笑してしまった。
「別に気にしてなどいませんよ」
「う~、恥ずかし……」
耳まで赤く染めて、しゃがみこんでしまった少女の顔を魔獣が優しく舐めている。微笑ましい状況に思わず口元が緩んでしまった。
「それで、この子といったいどんな話をしていたですか?」
「えっ!?と、それはですね……?」
聞けば、少女は勢いよく顔を上げる。
先程と同様、口ごもったように見えたが、すぐに意を決したらしく、口を開いた。
「実は、救護室の先生が席を外してからこの子とずっと一緒にいたんですけど……その、ここが静かすぎて、寂しくなってきちゃって」
「それで、誰かが様子を見に来てくれて、お話とかできたらいいのになー、ということをさっきまでこの子に話しかけてて……!!」
「きゃん!」
魔獣が私の顔と少女の顔とを交互に見返して、誇らしげに尻尾を振っている。
「つまり、寂しがっているミカさんのために、この子は私を呼び止めたということですね」
そう口に出せば、元々赤くなっていた顔はさらに赤みを増した。
「そういうことです!!うわーはずかし!!こんな、子どもみたいな……!!」
「法律の範囲ではまだ子どもの内でしょう」
「そ、そうなんですけどっ!そうじゃなくて……ああ、これ以上喋ったら恥の上塗りになっちゃいそう」
顔を手の平で覆い、茹で上がった顔を隠そうとしている姿が、またこちらの口角を上がらせる。
拘束から逃れた白い魔獣は、尻尾を左右に振り動かしながら、軽快なリズムで彼女のまわりをくるくると跳ね回っていた。
もはや愛おしくさえ思えてきたこの生徒に、何かできることがあるならしてあげたい──そう、つい思った。
その場から動かない彼女をよそに、魔獣から案内された椅子へと腰かける。
「……先生?」
きょとんとした表情の彼女に、できるだけ優しく笑いかけた。
「お話したいのでしょう?少しだけなら付き合いますよ」
「えっ!?い、いいんですか?あ、でもお時間とかは……」
「特に急ぎの用などは無いので。何も気にする必要はありませんよ」
隣のベッドをとんとんと叩いて、座るように示す。
「ほら、座ってください」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
白い魔獣を抱えて、少女はベッドへと腰かけた。
「へー、ソフィア先生って元々研究員だったんですね!」
「ええ、カルドラで働いていました」
「……先生、カルドラって言いましたか?今」
「はい、言いましたよ」
「つまり、ソフィア先生はカルドラ研究所の研究員だったってことですか!?」
「そういうことになりますね」
「いったいぜんたい何があって調査団学校の先生になんて……?」
この信じられないといった表情は、他の先生方にお話しした時にもよく見た顔だ。
「少し事情がありまして……私の、いわば先生に当たる人からこの仕事を任されたんです」
「先生の先生……そちらの先生はここの学校の?」
「いえ、カルドラ研究所の所長ですね」
「ますますわかんなくなってきちゃった……」
腕を組んで頭を捻る主人の姿を見てか、彼女の膝に大人しくしている小さな魔獣もまた、こてんと首を傾げている。
不思議に思うのも仕方ない。
高名な研究所の所長ともあろう人が、その研究所の職員に、研究に励ませるのではなく──調査団学校の教職員の仕事を与えるだなんて前代未聞である。
いくら臨時の教師といえど、限度がある。
しかも、その理由というのが。
「……込み入った事情ですので、理解せずとも問題ないと思いますよ」
「はい、考えないことにします……」
『お前を研究馬鹿にしたのは私の責任ではあるが──あまりに社会常識が欠けている。研究以外のことに興味を持ってもらうためにも、マルダン調査団と掛け合って教師として働いてもらうことになった。連絡が来るまでに教員免許を取っておけ。取るのは早ければ早いほど良い』
『……ちなみにですが、次の教員資格試験の日程はご存知でしょうか』
『約3週間後だ。正確には2週間と5日、だがね』
なぁに、休みは取ってやるさ、と戯言を抜かしながら、白い髭を蓄えた口元にコーヒーカップ──いつも通り角砂糖は五つ入っているだろう──を傾けている。
研究が一段落して、久しぶりに報告しに会いに行ったと思えばこれだ。
確かに所長には世話になったし、カルドラ研究所に勤めることができたのは彼のお陰なのだから、もちろん恩も感じている。
だからといって、ここまでの暴挙を受け入れるだなんて──
という文句を言わせる暇すら与えてくれないのだ、この所長は。
遠い目をしてしまうのだって仕方がないだろう。
せめて事前の相談だけでもしてくれればいいのに、勝手に自分だけで物事を進めてしまうのだ。
──まだ若かった頃、誕生日プレゼントと称して家を送られたことを思い出した。今考えても、いや、いつ考えてもかなり異常だと思っている。
こんな馬鹿げた話を人にするのも忍びない。
ましてや、社会的な常識を持ち合わせていないのだということが周知されてしまうなどしたら、それは恥以外のなにものでもない。
「こんなつまらない話よりも、別の話をしましょう」
「私は面白いですけど……あ、そうだ。それなら、先生にお伺いしたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ええ、構いません」
──その時、彼女の開いた白い瞳孔が、こちらを確かに捉えていた。
「ソフィア先生って、私を見る時、どこか遠くを見てるみたいですよね」
喉元にナイフを突きつけられているかのような、緊張が走った。
「まるで、何かを思い出してるみたいな」
ぞわりとした感触が背筋を襲う、錯覚がした。
「……ソフィア先生?どうかしたんですか?」
青髪が揺らめいて、こちらを覗き込んでくる。
『ソフィ、どうかしたの?』
その姿が──あの子と重なった。
思わず椅子から立ち上がり、彼女から後ずさる。
「きゃう?」
「せ、先生?」
後ずさってから、腰が抜けてその場にへたりこんでしまった。
喉から笛のような音が鳴る。
指先がこわばり、冷えていく。
足に力が入らない。
「先生!!」
「きゃん!」
目の前の彼女がすぐにベッドから飛び下りて、こちらに駆け寄る。
彼女がこちらに近づくごとに、距離を取ろうとして身体が動く。だが、その動きは微々たるものでしかない。
すぐに追い付かれてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ぁ…い」
「え?」
「……ごめんな、さい……」
口をついて出てきたのは──
あの子への謝罪の言葉。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
目尻と口からとめどなく溢れるものは、どうしても止めることができなかった。
白む頭の中で考える。
こんな情けない姿を生徒に晒すべきではない。今の私が最優先ですべきことは、すぐに立ち直って目の前の生徒に謝罪することだ。
それでも身体は言うことを聞かない。
うわ言を漏らす唇は塞がらない。
けれど。
「……先生」
耳だけは、機能していたらしい。
顔を上げれば、私の両手を掴む彼女がいた。
「ゆっくり息を吸ってください」
意識しないまま、身体が彼女の言う通りに息を吸う。
「吐いて」
肺の中の空気を、ゆっくり吐き出した。
「もう一度同じように呼吸しましょう」
彼女の掛け声に合わせて、息を吸い、息を吐く。
いつの間にか、乱れていた呼吸は整っていた。
「先生」
彼女の白い瞳孔が、こちらを見つめていた。
「聞かせてください。何が、あなたをそうさせたのか」
ゆっくりでいいので、と優しく微笑む彼女の顔が──
あの子に、そっくりだったから。
口は、ひとりでに開いていた。




