8話 蛇に絡まるのは鎖
掃除時間中。
手に持ったほうきの柄に顎を乗せながら、あの先生のことを思い出す。
ソフィア・アンギス先生。
蛇の半獣人の、女性の先生。
なんとも慎ましい人のように思えた。
それから、結構の美人さんだった気がする。
切れ長の瞳に、スッキリしたフェイスライン。長い黒髪も綺麗だった。
もしも私が恋多き少年だったなら、一目惚れしていたと言っても過言じゃない。
でも、気になっているのはそこじゃない。
綺麗な顔の人の話は聞くもんだ、と思って授業中ずっと先生の方に顔を向けていたのだが。
ふと、あの黄色い瞳と視線がぶつかった時──
目を、見開かれた気がした。
ただの偶然か。それとも私の気のせいか。
ただ一つ言えるのは。
「……綺麗な目だったなぁ」
「なーにぼけっとしてんのさ」
軽く肩を叩かれたので振り返ってみれば、そこにはほうきを持ったルナがいた。
ついでに子犬が私のほうきにじゃれついていた。
「ソフィア先生のこと考えてた」
「あー、科学の先生?めっちゃ髪綺麗だったよね、あの人」
その言葉にうんうんと頷き返す。
「ちょっと気になってさ」
見開かれた瞳と、あの瞳孔を思い出す。
蛇らしい、縦長の瞳孔を。
「……ミカって男女関係なく美人好きだもんね」
呆れた様子でそう返された。
「はぁ〜?別にそういうのじゃ無いんですけど〜?」
間抜けた声を出しながらルナを小突けば、ちょっと笑われた。
まるで私が、美人なら見境なく好きになる人みたいな言いようじゃないか。風評被害だ。
まあ、美人が好きなのは否定しないが。
さて、そろそろふざけてないで掃除をしよう。
と思った矢先。
コンコンコン、とノック音が聞こえた。
私の近くの扉だった。
音を立てて開かれた扉から出てきたのは──
「すみません、少しよろしいですか」
話題に上げていたソフィア先生だった。
まさかピンポイントに来るとは思わず、少し動揺してしまったが。
「どうかされましたか?」
返事をしないのも失礼に当たるので、すぐに声をかけながら先生の方に駆け寄った。子犬もついてくる。
どうやら、私のほうきはルナに回収されたらしい。気の利く親友である。
「……いえ、大したことではないのですが。実験室の清掃のために、少々人手が欲しいんです。それで、生徒の皆さんに協力を頼めないかと」
私の顔を見て、また目を見開いたような気がしたけれど、気のせいだろうか。
とりあえず、今はそれはいいとしまして。
実験室はまだ行ったことがない。どんな感じなのか気になる。
それに──
ソフィア先生の顔を見上げる。
相変わらず、名のある彫刻家が彫った彫刻かのような美しさの相貌だ。
よく見ると、なにか不安なのかは知らないが、なぜか眉が少しだけ下がっている。
うーん、こりゃあ手伝うっきゃない。
困った美人──じゃない、困った人を見たら助けたくなるのが私の性だ。
やっぱりほら、調査団員になるなら人助けなんて当たり前だからね。
「私、手伝いますよ」
「本当ですか?」
少し驚いたような表情をしながら言われる。
そんなに意外だったのだろうか。
あ、そうだ。
「ちなみに、人手って私だけで足りますかね?」
重要なことだ。別に私は先生と二人(と一匹)でも構わないが、掃除が終わるのかが問題である。
おそらく子犬も着いてくるだろうし、何かあったときのために何人かほしいかもしれない。
「そうですね、できればあと一人……」
「じゃあ、僕も手伝いましょか?」
ひょこりと出てきたのは猫耳の男子。
ニコだった。
誰も何も言葉を発さないまま、実験室へと向かう。
ニコに声をかけてもよかったのだが──
先生がいらっしゃる手前、後ろで話しているのも何か違う気がしたため、なにも話しかけなかった。
子犬も大人しく着いてきているので、尚更することがない。
そうなると、視線は自然と前に向く。
そして、自然と視線は目の前の動くものに止まる。
暗い褐色のひし形が、鎖のように連なった模様を携えている、赤茶色の尻尾。
しゅるりしゅるりと左右に動きながら、地面をくねくね這って前に進んでいる。なるほどこれが蛇行というやつか、と変に納得したりしてみる。
見てて楽しい。
「……二人とも、引き受けていただきありがとうございます」
「えっ、いえいえそんな」
突然先生の声が耳に入ってきたので、思わず勢いよく頭を上げながら返事をした。
「気にせんでええですよ。僕なんかやることなくて暇してましたから」
「とても助かります。手伝っていただけるだなんて……」
先生の声が少しか細いように聞こえる。
「人助けは当然のことですから!」
しめやかな雰囲気が落ち着かなくて、声を張り上げながら答えた。
「そうですそうです、何をそこまで気にしとるんですか?」
ニコの発言の後、コツコツという私たちの靴音だけが響く。
前方から少しだけ息を吸う音が聞こえた。
「……私は、蛇ですから」
目的地へと向かう足音だけが廊下にこだましている。
変わることのない事実を、伝えるかのように。
それでも、変わらないものなど存在しない。
「なんで、そんな蛇であることを強調するんです?」
怪訝そうな顔を浮かべるニコがそこにいた。
なるほど、ニコも知らなかったわけか。
「な、なんでって……」
今まで前を向いていた先生がこちらを振り返る。
落ち着いた様子だったソフィア先生も、これには少し動揺しているようだ。口をもごつかせている。
これは、ご本人の口から言うことでもないだろう。
「蛇が差別されてるから、ですか」
先生がこくり、と頷くと同時に。
ニコから驚いたような目を向けられた。
「さ、差別て、どういうことや」
「なんか、こっち側の地域だと差別されるみたい。私もここ数年で知ったよ、まわりにそういう人いなかったし」
そんな無駄なことをする人がまわりにいなくて良かった、と密かに思っているが。
「そういった事情もありますから、お願いを聞いてもらえるかわからなかったんです。ですから、A組に聞いてみて、名乗り出る人がいなければ諦めるつもりでした」
「……ちなみにですが、私たちのクラスを選んだ理由をお聞きしても?」
どうしても気になった。
私たちのクラスは職員室から一番遠いはず。掃除の手伝いぐらいなら、近くの教室に声をかけたほうが話が早いのではないだろうか。
「理由、ですか……」
ふむ、といった風に顎に手を当てたかと思えば、しゅるりと尻尾が翻り、先生がこちらに歩み寄ってきていた。
「強いて言うならば──」
垂れた黒髪から香る、花の匂いが鼻孔をくすぐった。
「私の話を熱心に聞いてくれる生徒がいたから、でしょうか」
涼しげな目元。通った鼻筋。
その下には、やわらかな弧を描く唇があった。
「……先生って本当に美人ですね。芸術作品かと思いました」
「えっ」
「何先生口説いとんねん」
ニコの方をみれば、呆れた顔をしていた。
「この美しさを持つ人を美人と言わずとしてなんて呼ぶのさ、麗人?」
こんな美しいものを見て賛辞の言葉を述べないなんて逆に失礼だ。わからずやの三毛猫を軽く睨む。
すると、前方から咳払いが聞こえた。
「……からかうのはやめて下さい」
「いえ先生、事実を述べたまでですよ」
「ミカ、ええ加減にしとき。掃除時間が終わってまう」
そういえばそんな話だった。
足元の子犬がきゅおんと吠える。子犬はちゃんと覚えてたんだね、偉いねぇ。
「とりあえず、早く実験室へ向かいましょう。ニコさんの言う通り、掃除をする時間がなくなってしまいます」
「だってさ、ニコ。ふざけてちゃ駄目だよ」
「いや原因はお前やろがい!」
前から小さな笑い声が聞こえた。
褐色の尻尾の先がゆらゆらりと揺れている。
それにしても、尻尾の形まで綺麗だなんて……もはやソフィア先生は美人という言葉だけでは言い表せないな。
ああ、それより。
あのじめっとした雰囲気はなくなったみたいだ。やっぱり、空気は軽い方がいい。
足取りも軽くなるし。
なんてことを、呑気に考えていたからだろうか。
大きな黒い影が視界を覆った。
咄嗟に窓の方へ視線を向ければ──
既に、それは目と鼻の先に迫っていた。
耳を突き刺すようなガラスの割れる音。
壁に何かがぶつかったかのような大きな衝撃音。
辺り一帯に砂煙が立ち込めた。
「大丈夫ですかっ!?」
先生の切羽詰まった声が耳に飛び込んでくる。
喉が張り付いていて、咄嗟に声が出せず、ただ頷くことしかできなかった。
それでも先生は胸を撫で下ろしたようで、ほうと息を漏らしたのが聞こえた。
ヴー、という唸り声が別の方向から聞こえた。
その方向を向けば──
壮健な翼、強靭そうな顎、何もかも引き裂いてしまいそうな鉤爪を携えた飛竜に──子犬が威嚇をしていた。
幸い、突っ込んできた飛龍は衝撃のせいかよたよたとしている。すぐに子犬が襲われる心配はない、はず。
自分の状況を確認したくて頭を上げると、目の前に先生の顔があった。
どうやら私は、先生の腕の中にいたらしい。先生が尻もちをついた状態で、私は抱き寄せられている形だ。それに気づくと同時に、特徴的な長い尻尾が、自分の身体に巻き付いていることにも気づいた。
「せ、んせい、これは……」
「……すみません、半ば無意識的に、尻尾でミカさんを引き寄せたようですね」
つまり、窓ガラスと壁が壊れるあの一瞬の隙間を縫って、私を助けたということ……?
「お、お手数おかけしました」
「……子供が、そういうことを気にするものではありませんよ」
震えた声で応対される。
私を抱きしめている腕に、力が込められるのがわかった。
「……生きてて、良かった」
黒い前髪の隙間から、下げられた眉と、潤んだ瞳が垣間見える。
その表情は、今にも泣き出してしまいそうにも見えた。
「……あの、せんせい」
「何ですか」
「くるしいです」
先生の抱きしめる力が予想以上に強かった。胸が圧迫されて呼吸がしづらい。
私の声を聞いた先生が、慌てて腕を離してくれた。
「すみません、大丈夫ですか?」
「けほ、大丈夫です」
多少咳き込みはしたが、おそらく問題無いはず。
半獣人は人間よりも力が強い。そして、人間の身体は半獣人より弱い。世間一般的にそうだと聞く。さっきみたいなことが起きてしまうのは、仕方のないことなのだろう。
あまり半獣人と縁のない人生を送ってきたが、その力を身を持って知るとは思わなかった。
「ミカ!安心しとる場合やない!先生も!」
ニコの掛け声で、私たち二人は我に返った。
振り返ってみると、先程突っ込んできた飛竜が体勢を立て直している。
「ミカさん、早く逃げ……」
何を言いかけたのかと思って先生の顔を見上げれば、その瞳孔が開いていた。
その視線の先は、私の脚。
そう気づいた瞬間、左脚に違和感を感じた。
違和感の原因を探るために、おそるおそる脚を見てみれば。
少し大きめのガラスの破片が、左脚に刺さっていた。
きゅう、と喉がひくつく。
血の気が引く。
頭が冷たくなる。冷や汗が流れる。
意識した途端、左脚に痛みが集まった。
脚の表面を、液体が伝っていく感覚がする。どう考えても血だ。
じわじわと熱を持ち始めたような気もしてきた。
きゃんきゃんという子犬の鳴き声が遠くから聞こえる。
「……ニコさん、ミカさんを救護室へ運んでください」
「それは構わへんのですが、先生は…」
「私のことは気にしないでください。ミカさんを運んだ後、他の先生方を呼んで来てもらえればそれで構いません」
「……わかりました」
頭がぼんやりとしてくる。
脚からは血が流れ続けている。
怖い。
「ミカ。揺れるかもやけど、我慢してな」
謎の浮遊感が生じた。
持ち上げられた?
誰に?
血をつけてしまう、申し訳ない。
……声がしたから、ニコかもしれない。
たぶんそうだ。
そうだろう。
ああ、子犬は大丈夫だろうか。
……あれ、せんせいは──
「ギュルルルル……」
飛竜が威嚇音を出す。
「……飛び込んできたのはそちらでしょうに。威嚇ですか」
蛇の半獣人が、ぎりりと拳を握りしめた。
彼女の手の平には爪が食い込んでいることだろう。
半獣人が腕を構えると、手の平からいくつものツタの鎖が伸びる。
その鎖はまるで意志を持っているかのように、飛竜の翼や足、首に瞬時に巻き付いた。
半獣人がツタの鎖を引っ張ると、さらに巻き付きが強くなり、飛竜が悲鳴を上げる。
「すみません、私は飛竜が好きではないんです」
飛竜が拘束から逃れようとして、ジタバタと暴れまわった。
その強健な顎によって飛竜がツタを噛み千切ろうとした瞬間、新たなツルがその口にぐるぐると巻き付いて、使い物にならないようにしてしまった。
「……そこから、動こうとしないでくださいね」
縦長の蛇の瞳孔は、飛竜のことをいつまでも睨みつけていた。




