おわりのはじまり
私は遺書をリビングの机に置いた。それに背を向けて、足早にベランダの縁まで歩いていき、はるか下の駒沢通りを見下ろした。車道には絶え間なく車が走っているものの、歩道に人の姿はない。飛び降りるなら、今がチャンスだ。落ちていくのは怖くない。地獄堕ちも怖くない。出発点が地獄なのだから。
植木鉢を足元に引き寄せた。それは遥か昔に本来の役目を終えていた。上に乗り、ベランダの柵を握る手に力が入った。ふと、息子の顔が脳裏をよこぎった。二ヶ月前に年長になったところだ。大人になった彼を見れないのは残念だ。でも、それ以上に人生にうんざりしていた。生きていくだけで、とてつもない労力が必要な気がしていた。私は安堵のため息をもらした。これですべて、おしまいになるのだ。
不意にインターホンが鳴った。それは平日の昼間にふさわしく、退屈そうに単調な音を繰り返していた。夫がAmazonでも頼んだのだろう。無視しようかと思ったが、死亡時刻と前後すると、配達員が殺人の容疑にかけられては気の毒だ。リビングに戻った。「はい」。オートロックの通話ボタンを押した。「黒川さん。ヤマトです」。緑と黄色の制服に身を包む配達員を確認し、解除ボタンを押した。いつものくたびれた男性ではない。かわいい顔をした青年だった。それは私の心をざわつかせた。
私は洗面所へ向かい、顔を確認した。保育園の送りで外出した際になされた薄い化粧が残っていた。茶色い髪、ブラウンのアイシャドウ、軽くマスカラが乗った長い睫毛。三十三歳にしては上出来だ。化粧を直そうか迷ったが、間に合わなさそうなのでやめておいた。リビングへ向かい、A4のファイルに入った遺書を手に取った。彼が七階へ上がって来るまでの時間は、とてつもなく長く感じた。
チャイムが鳴り、ドアを開けた。青年の姿を見て、息を呑んだ。彼のような男はなかなかいない。彼に見つめられると、誰だって頭の中がぐちゃぐちゃになる。彼の姿を死ぬ前に拝めたことを。信じてもいない神様に感謝した。「お届け物です」。透き通る美声をいつまでも聞いていたくて、私は無理に会話を続けた。「いつもの人と違うんだね」。彼は目を見開いたが、すぐに顔に笑みを貼り付けた。「はい。あの人は二日酔いで。僕、いつもは助手席にいるんですけど、今日は反対なんです」「助手席?」「駐禁とられないように、助手席に座ってるんです」私は笑ったが、彼の顔からは笑みが消えた。彼の目は、私の右手を捉えていた。「遺書。ですか」。それは分かりやすく、黒々と筆で書かれていた。
「うん。死のうとしてた」私は明るい声を出そうと努めた。「夫はクソ。仕事もつまんない。子どもはかわいくない。人生、どこで間違えちゃったんだろうって」青年の顔を確認した。その目には何の表情も浮かんでいなかった。「息子も、こんな母親に育てられるくらいなら、他の誰かに育ててもらった方が良い。その方が幸せになれるしね」。沈黙。自殺の最大の目的は夫への復讐であることは、言わないでおいた。言ったところで、もうどうにもならないのだ。沈黙を破ったのは、着信を告げる機械音だった。
彼は目で私に謝り、スマホで話し始めた。「はい、伊藤です。え、大丈夫ですか? はい。僕は大丈夫なんで。お大事にしてください」彼はため息をついた。「あの人、車で戻しちゃったらしくて。体調がやばいから、タクシーで帰るって」「手伝おうか?」私の申し出は、彼の目を再び見開かせた。顔のほとんどが目になってしまいそうだった。「でも助手席、ぐちゃぐちゃかもしれませんよ」「良いよ。どうせ、あとでぐちゃぐちゃになる予定だし」沈黙が再び訪れたが、先程のように苦しいものではなった。彼は少し考える素振りを見せ、笑顔で告げた。「じゃ、ドライブしましょう」。「どこに行くの?」「そうですねえ。過去なんてどうでしょう」
「は?」「例えば僕が魔法使いで、過去のある日に戻れるとします。そうすれば黒川さんが自殺することになった原因が見つかるかもしれません」今度は私が黙る番だった。彼は玄関に飾られた絵を指さした。それはモネに描かれたジヴェルニーの庭だった。「みんな、同じようなことで悩むんですよ。画家でも同じです。モネは、今ですら印象派の巨匠として知られていますが、かつてはお金が足りなくて、セーヌ川に身を投げようとした時もあったんです」「でも、それは絵がうまく描けないとか、芸術家ならではの悩みでしょう。私は普通の会社員だよ」「いえ。彼らも、黒川さんと同じようなことで悩んでいました。お金、夫婦関係、自己実現。よし。じゃあ、こうしましょう」。彼は歯を見せて笑った。「黒川さんと同じ悩みを抱えていた画家も呼んで、ドライブしましょう」
②第1章の最初の1項目
トラックの助手席は、ありとあらゆる不摂生の残り香を漂わせていた。吐瀉物こそないものの、すえたモップに包まれているかのようだ。私は彼に、過去へ行く前にある場所へ向かうよう頼んだ。「良いけど、あんまり時間ないですよ。もう呼んじゃったから。待たせると面倒なことになるし、逃げられるともっと大変なことになるんで」。そう言いつつも、彼は私の告げた道を走ってくれた。私は道中で、人生で良かったことを思い出した。四菱銀行から内定を得て、父のはしゃぐ声を聞いた日。夫と婚約して、婚活から開放された日。六年前に息子が生まれた日。あることにはある。片手で数えられる程だが。でも、だから何だって言うのだ。
そこは息子の通う保育園だった。幼児クラスは散歩に出ているらしく、一階はもぬけの殻だった。私は廊下で息子の名前が書かれた棚を見つけ、ぐしゃぐしゃに突っ込まれた衣類を畳み続けた。机の上に目をやると、紙で作られたカーネーションと画用紙が置かれていた。もうすぐ母の日らしい。息子のものを探そうと手を伸ばしたが、やめておいた。そのカーネーションを手にする女性は、私でないかもしれないのだ。
これまで私は一度も泣いたことがなかった。夫の浮気が発覚した時も泣かなかった。長男の難病を告げられた時も泣かなかった。一度もなかった。今になって泣くなんて、どうかしてる。「それなら、もっと前に泣いておけば良かったんだ」。言葉は行き場を失くし、教室に浮き、あたたかい陽だまりに溶けた。私は足早に保育園を出た。
車に戻ると、青年は椅子に座ってスマホを見ていた。休憩中らしく、配達員の制服は脱いでいた。彼はポケットから取り出したスマホを操作し、こちらに見えるように机に置いた。そこには見覚えのある赤と白の配色の動画サイトが表示されていた。彼の骨ばった指がその中から『黒川礼子』というタイトルの動画をタップした。「この動画は、黒川さんの一生です。」
そこにはうつろな目で夜泣きをする我が子を抱えている姿があった。女性社員から「お子さんがいても、仕事は仕事です」となじられて、引きずっている姿があった。ベビーシッターを頼もうとして、料金を見て画面を閉じている姿があった。「育児が楽しくない。人間関係に疲れる。金がない。そんなテロップが付きそうだね。最近の動画で、子供に怒ってしまう。無能な夫。なんてのもあるんじゃないの」自虐的な言葉は、彼の頭の上を通り過ぎた。彼の骨ばった手が終盤をタップすると、ベランダへ向かう私が映っていた。彼の指によって、再生が停止された。
私は言った。「どこで何を間違えたかなんて、ちっとも分からない」彼は微笑んだ。「分からない、ということに気がつくだけで上出来ですよ。話はそんなに単純じゃない。華奢なネックレス同士が絡まりあうと、ほどけなくなりますよね。ひとつだけなら、そこまで難しくならないのに」「は、よく言うよ。お前は牧師か?」私は声のする方を振り向いた。後部座席に女性が座っていた。「すみません。説教なら、貴女の方が上手ですよね」。伊藤は驚きもせず、前を見たまま言った。私は彼を見ると、その顔に笑みが浮かんだ。口角が綺麗に上がっている。それは見事な笑みだった。この日のために練習してきたかのように。口角を上げたまま、彼は言った「あの人は、フィンセント・ファン・ゴッホ。日本で最も愛されている画家ですよ」
「おい」後部座席から、しびれを切らした声が発せられた。「いつまでここにいるんだ?」私は彼女を見た。赤毛のストレートは胸まで伸びており、目は燃えるように赤い。黒い上下のパンツスーツは、長身の彼女に丈があっていないように見えた。「……ゴッホって男性じゃないの?」「はい、生前は。肉体的にはとっくに亡くなってます。だから、魂だけこっちに来てもらったんです。器、つまり肉体は別の人のを借りてるんですよ。この説明すると長くなるんですが……」舌打ちが響き、貧乏ゆすりが車内を揺らした。誰のよってなされたかは、見なくても明らかだ。「はいはい。じゃ、行きますね」。どこへ、と二度目の質問をしようとした。それは勢いよく発進した車の衝撃で叶わなかった。フロントガラスのはるか彼方に、お散歩から戻ってきた園児たちが見えた気がした。