財布を落としただけなのに
二月某日。冬も真っ只中の寒い風が吹く中、橙色のマフラーを巻いて俺は自転車を漕いでいた。
いつもの通学路、その帰り道。ふと、目に留まった。ぽつりと地面に落ちている赤い点のようなものが。
近づいて自転車を停め、降りて手に取ってみれば、それは赤い革製の二つ折りの財布だった。
――その財布を拾うまで、俺はどこにでもいる男子高校生の一人であったように思う。県内の平均レベルの公立高校に通い、成績は中の上。学校ではどちらかといえば目立たない、地味な生徒。友達はいなくもないがクラスで世間話をする程度。部活は新聞部、学校の行事がない時は暇だ。
そんなだから、俺はいい加減飽き飽きしていたのかもしれない。日常とか、普通とか。突然怪獣が現れて街を壊したり、テロリストが学校を占拠するなんてことは起こらないと17歳にもなれば諦めもつく。だが漠然と自分の平凡さを打ち砕く何かを欲していた。それがたまたまこの財布だった――最初はそう思わなかったが。
「一万五千円も入ってる、ラッキー」
現金な独り言を漏らす。そう、最初は本当に金が舞い込んできたとしか思わなかった。赤い財布に一万円札と五千円札が一枚ずつ入っているのを確かめると、新作ゲームが二本買える値段だと算段でもすれば途端に大金に思えてきた。
俺はキョロキョロと辺りを見回す。周りの人間は特別俺に注目してはいないようだった。恐る恐る拾った財布を鞄に仕舞って、再び自転車に乗った。
とりあえず家に帰ってから、じっくり中身を確認しよう。
そして漕ぎ出してしばらくして、交番に届けるべきだ、と俺の良心が今頃になって囁く。だが交番は通学路に見当たらないじゃないか、めんどくさいから後でいいだろと良心の奴を宥め、ほどなくして俺は家に帰った。
そんな俺を責めるかのように冬の風はびゅうびゅうと鳴いていた。
「赤羽根翔子、生年月日からすると現在27歳……」
俺は自分の部屋の机の上に広げた、拾った財布から取り出した中身全ての内の免許証から読み取った情報を口にする。
目の前にずらっとカードが並んでいた。免許証などその大量にあるカードの内の一枚に過ぎない。他にもゆうちょ銀行のキャッシュカードなどもあったが、大半は病院の診察券だった。
俺は免許証から目線を外し診察券の数々に目を通す。歯科、整形外科、内科……それくらいはまぁ普通だろう、どこかの大学病院の診察券もいくつかあり、そして残り半分くらいは全部――
「田中メンタルクリニック、鈴木メンタルクリニック……どれもこれもメンタルクリニックばかりだな」
つまりは精神科、あるいは心療内科といったところだろう。そういうところばかりに通院しているのだ。この財布の落とし主は。
途端に俺は金のことなどどうでもよくなって、彼女――赤羽根翔子の人となりに興味が湧いていた。
もう一度俺は免許証を見る。そこに不愛想な顔で映っている、美女と言えなくもないくらいの容姿の女性をじっと見つめる。写真からは心を病んでいるという風には読み取れない。だからこそ気になる。一体何者なんだ、赤羽根翔子。
ふと、免許証に記載されている住所に目が行く。この頃になると俺は財布の金を勝手に使うことも、交番に届けることも頭にはなかった。ただただ好奇心が俺を突き動かして、気付いたら財布の中身を並べていたし、気付いたら――
俺は彼女の家のインターホンを鳴らしていた。
ピンポーン。
冬の乾いた空気にインターホンの音だけが鳴り響き、俺は彼女の住むマンションの401号室の前で磔にされていた。
出ない。留守なのか? それとも居留守? もう一度鳴らしてみるべきかと手を掛けた時、ドアノブが回った。恐る恐るといった風にゆっくりと、扉が開く。
「すみません……どちら様でしょうか……」
かすれたような小声で言ったのは、紛れもなく免許証の写真と同一人物、あの赤羽根翔子だった。
写真の通りそこそこの美人だったがあくまで素材はいいと感じで、メイクもしていないしよれた赤いセーターを着てくたびれた雰囲気を醸し出していた。
そんな彼女を一瞥して俺は声を掛ける。
「あっ、俺、財布を拾ったんすけど」
「財布?」
「届けに参った次第であります!」
何故かやけに緊張して馬鹿丁寧な口調になってしまった。しかし赤羽根翔子は笑うどころかやや引きつったような困ったような顔をした後俺から目を逸らして、
「ありがとうございます……」
一応感謝の言葉を述べた。でも本当に有難く思っているというより困惑が勝っているような印象を受けた。俺はともかくニコニコと笑ってみせる。いそいそと財布を取り出すのはひとまず後だ。
「あの……中へどうぞ……立ち話もなんですから、寒いですし」
その言葉を俺は待っていた。折角彼女の家にまで来たのにすぐ財布を渡して帰るわけにはいかない。意地でも彼女から診察券の話を聞き出そうという気でいた。さてと、対戦よろしくお願いします。
ずかずかと俺は相手の言葉に甘えて上がり込む。ワンルームマンションで通路を通ってすぐ突き当りの一室だけが彼女の家だった。俺の部屋より狭い。そしてお世辞にも綺麗とは言えなかった。
雑然とレジ袋が散乱し、その内のいくつかはゴミ袋として使用されていた。机の上には何かの封筒やら書類やらが溜まっており、多種多様な薬が置きっぱなしになっている。その上にノートパソコンやら文房具やらが乗っかっていてカオスを形成していた。机の下の床に座布団があってそこに座り、俺達はカオスに加わる。
棚は漫画で占められていた。俺も知っているような少年漫画が多い。それからファミコンやスーファミ、古いプレステといったレトロゲーム機とそのソフトが大量にあった。まるで男の子の部屋である。意外と趣味が合いそうだ。
「翔子さん、好きなんですか? ゲーム」
だから開口一番にそんな言葉が出た。
「別に……他にやることもないし……」
予想外に、そんな曖昧な返答をする翔子さん。俺は話題を変える。
「ああ、あの漫画、チェーンソー野郎、俺も好きで全巻持ってるっすよ」
「……」
返事がないときた。この調子では埒が明かないと俺は本題に入ることにした。ここへきてようやく鞄から赤い財布を取り出した。
きっと彼女にとっては喉から手が出るほど欲しい財布。それをちらつかせながら俺は言う。
「翔子さん、一つ質問していいですか?」
「質問……?」
「そんなに病院、メンタルクリニックにばっかり通ってるのはなんでですか?」
「見た!?」
翔子さんは驚嘆の声を上げ、しばらく固まった後。
「……見たわね」
と俺に対し鋭い視線を向けて凄んだ。でもそれも一瞬のことで途端に彼女は視線を外し、弱々しい声で告げた。
「そうよね、おかしいわよね……普通こんなに診察券持ってないもんね……」
俺が中身を覗いたことは咎めず、翔子さんは続けて言った。
「私、アスペなの」
「アスペ?」
「アスペルガー、ようするに発達障害。人付き合いが出来ないの。全然上手く喋れないし、すぐ相手を怒らせちゃうし、逆に私が怒って関係を終わらせちゃう。だから人付き合いが出来ないのよ。だからかな、上手くいかな過ぎて落ち込んで、うつ病みたいになるの。いや実際うつだった。それで精神科に通ってたんだけど中々自分に合う精神科がなくて転々としてしまったから診察券がやたらめったら増えてしまったのよ」
「そう、だったんですか」
少々想定外だったが、聞いてみれば成程合点のいく話でもあった。正直発達障害とかよくわからない、俺に知識はない。だが彼女が人付き合い苦手そうなのはこの数分のやりとりの内でもわかってしまう。何しろ話す時目も合わせてくれないのだから。
翔子さんは説明を続ける。
「それで他の診察券は原因不明の脇腹の痛みが出た時に色々なところで診てもらった時に作ったんだけど、私今無職の生活保護で医療費タダだから病院行き放題だしね……」
「治ったんですか?」
「いや、検査しても異常はないってどこでも言われちゃって、精神的なものじゃないかって……仕方なく痛みと付き合うしかないのよね……じっと座ってたら痛くなるけどそうしなきゃ平気だから」
そう言って翔子さんは一旦立ち上がった。痛まないように、ということなのか。そのまま彼女は冷蔵庫の前へ行って開け、ペットボトルのお茶を取り出して机に置いた。
「お茶、どうぞ。コップがないので申し訳ないけど……」
そのままキャップを開けて直で飲めと言うのか。それはちょっと非常識ではないかと俺は思った。それに飲みかけのお茶である。つまり翔子さんと間接キスってことになり――うら若き少年の俺には刺激が強すぎた。ただのお茶なのにまるで強いお酒のように見えて口にできない。
見かねたのか、翔子さんは自分でそのお茶のキャップを外し飲んだ。ペットボトルを吸う唇につい目が行く。やがて彼女はペットボトルを口から離して、呟いた。
「失礼、よね……」
今の非常識なふるまいを指して言ったのだろうか。俺は別段不快には思わなかったが翔子さんは申し訳なさそうに眉を八の字に曲げていた。
そしてぼそりと、物騒なことを呟いた。
「私、死にたいのよね……」
「えっ?」
今の、聞き間違いか? 翔子さん、死にたいって言った?
「なんでそんなこと言うんですか」
俺はすぐさま追及してしまう。自分でもよくない癖だった。それに対し翔子さんは答える。
「私は生きてるだけで害なのよ。生きてちゃいけない人間」
「そんなことない! 生きてちゃいけない人間なんていませんよ」
つい根拠のない反論をしてしまう。だが翔子さんは力なく嘲笑う。
「そう思うのはあなたの人生経験が足りないからよ……」
10年の歳の差を突かれると痛い。確かに俺は何も知らぬ若造だ。でも10年の間に彼女が得た人生哲学を容易には崩せないことくらいは知っている。
だから屁理屈で応戦することにした。
「でも翔子さんは今日まで生きてきたじゃないですか。まだ死んでないじゃないですか。死ぬ必要なんてどこにもないですよ」
「それよ……私は死にたがりの死にぞこないなの。ずっと死にたくて、でも死ねなくて。きっかけさえあれば死ねると思うんだけど……」
そんな後ろ向きなことばかり翔子さんは言う。そんなんじゃ駄目だ、と俺の価値基準が判断する。彼女をこのままにはしておけない……そしてこの場には彼女の他には俺しかいない、俺がやるしかない!
「翔子さん!」
俺は思わず大声を出す。相手は目を丸くしている。今だ、言ってしまえ。
「あの、その……俺に何か出来ることはありませんか? なんでもいいです、どんな些細なことでも。翔子さんのためになることならなんでも」
だから死ぬなんて言わないでください、とまで言い切ることはできなかった。
返事はない。しばし沈黙が流れる。少し気まずくなって俺はさらに話を続けるべきかと言葉を口に含んだ時、先に翔子さんが制した。
「ない」
「えっ」
「ないわ。残念だけど……」
それは拒絶。俺は項垂れる。そしてここに来てようやく赤い財布を彼女の手元へ返した。それで終わり。もう俺にはなすすべがなかった。
「お邪魔しました」
俺は立ち上がり背を向け廊下を歩きだし、扉の前でドアノブに手をかけたところだった。背後から「待って」と呼び止められた。
「あなた……名前は?」
そういえば急に押し掛けたもんだから名乗ってすらいなかったのを思い出した。
「俺? 陽介」
「陽介君、気が変わったわ。あなたに一つお願いしたいことがあるんだけど……」
「えっ? 何々? なんでもいいですよ」
「週末にでもちょっと付き合ってくれないかしら」
意外な誘いだった。しかし一転俺を頼ってくれたのが嬉しくて俺は「全然オーケーっすよ」と返事した。
そうして俺達は今週末に駅で待ち合わせることになった。駅でということは電車に乗ってどこかに行くのだろうか? 詳しい予定は翔子さんは未定と言って教えてくれなかったが。
ともかく翔子さんと知り合って間もなくデートまで決まって、俺は嬉しく思っていた。そこに恋愛感情があったかどうかはよくわからない。なにしろ母親以外の大人の女性の知り合いなんて初めてなのだから。
翔子さんのマンションからの帰り道は天にも昇る心地だったように思う。
しかし冬は厳しく、一年で最も寒い風が吹いていた。
土曜日。今日は曇っていて寒さに磨きがかかる一日だった。俺は通学でも使用している橙色のマフラーを巻いて防寒をし、駅で赤羽根翔子が来るのを待っていた。
待ち合わせ時刻の五分後くらいに彼女はやってきた。
「ごめんなさい、遅くなって」
「いえ、俺も今来たところですから」
張り切って30分前から来ていたことは黙っておく。
翔子さんは赤いコートを着ていた。財布の色は赤、この前も赤い服を着ていた、どうやら彼女は赤色が好みらしい。赤羽根だけに、赤。なんちゃって。
そんなしょうもないことを考えているうちに翔子さんは切符売り場に向かう。そこで俺の分の切符も買って渡してきた。
「えっ、いいんですか? 俺も金なら」
「いいのよ。生活保護といっても多少の余裕ならあるし、私が無理に付き合わせているんだし。それに陽介君が財布を拾ってくれたからあの一万五千円はあなたのものだと思ってくれていいわ」
そんな風に言われると厚意に甘えて切符を受け取るしかなかった。
俺達は改札を通りホームから急行列車に乗って、途中別の急行に乗り換えて約一時間弱といったところか、次の駅で降りると翔子さんが言ったので俺は席を立って車窓から外の景色を眺めた。緑豊かな自然と海の青が広がる美しい光景だった。
そんなところで降車し、駅のホームから改札を出て少し歩くとそこは遊園地だった。ここが翔子さんの目的地なのだろうか。
「一人では来づらいでしょ、遊園地なんて。陽介君がいてくれて助かったわ」
そんなことを彼女は言った。両手を大袈裟に伸ばしてみせたかと思えば背中で組んで、俺の方を向いた。
「嫌なら帰るけど……」
「いや全然、むしろ超楽しみっすよ! 遊園地なんて俺、小坊の時家族と来た以来っすから」
俺は無邪気にはしゃいでみせる。死にたいと言った翔子さんの、この世の終わりのような表情を掻き消したくて、彼女には笑顔でいてほしくて、そんな態度を取ってしまう。それを気取られないようにしないと……
今のところ翔子さんは普通に喜んでくれているみたいだった。この前よりも顔色を明るくして、遊園地の入場ゲートでチケットを二人分買っていた。
翔子さんからチケットを手渡され、俺は彼女の後に続いて遊園地の中に入った。
中は意外と空いていて人はまばらであった。それもそうか、他にディズニーランドやらユニバーサルスタジオやら大型テーマパークがあるのだから今日日普通の遊園地なんて流行らないか。
翔子さんは目的がハッキリしてるのかグイグイ進むので、遅れないように俺はついていく。すると目の前に広がるのはジェットコースターであった。その乗り場に向かっているらしかった。
ジェットコースターか……俺は好奇心は強いかもしれないが怖いのは苦手だ。だからこの手の乗り物は得意ではない。しかし翔子さんは言う。
「遊園地といえばジェットコースターよね……陽介君もそう思わない?」
「そうっすね……」
俺は翔子さんが乗り気なのを見て覚悟した。決して得意ではないが、これに乗るくらいで彼女が喜ぶなら、それなら――やってやろうじゃないか!
もっとも乗ってみれば怖いのは最初の上りだけで一度下れば割と爽快なアトラクションだった。この遊園地のジェットコースターがたいしたことなかっただけかもしれない。だからか、
「ちょっとゆるかったわね、このジェットコースター」
そんな風に翔子さんは感想を述べた。彼女には刺激が足りなかったらしい。でもちょっと楽しそうには見えたので俺としては良かった。
「次はあれに乗る?」
翔子さんはメリーゴーランドを指した。こうなればとことん付き合う所存だ。
しかし彼女は一転してやめましょうと言い出した。なんで、と俺は理由を訊く。
「子供っぽいものね……ここの遊園地、動物園も並立しているからそちらを見て回りましょう」
翔子さんの提案で俺達は遊具のあるゾーンから動物のいるゾーンへと移動した。まず出迎えたのはなんとかという珍しい鳥、クジャク、たぬきとアライグマ。それからしばらく歩くとキリンがいた。
「すげー、めっちゃ首長いっすね首。見てくださいよ」
「そう、ね……」
「……」
そろそろ俺は自分の話術がたいしたことないのに気づき始めていた。上手く彼女を会話に乗せることができなくてもどかしく感じる。彼女が口下手な分俺がしっかりしないといけないのに。
動物園は遊園地部分よりさらに人気がなかった。パンダやコアラといった人気の動物がいないせいだろう。昼間だからのんびり寝ているライオンや虎を眺めつつ、俺達はゾウの前のちょっとしたベンチに座って小休憩した。
翔子さんが缶ジュースを買ってきて俺に手渡してくれた。彼女自身は缶コーヒーを口にしつつ言った。
「ねぇ、動物園の珍獣は幸せと言える?」
「珍獣?」
「そう。毎日餌がもらえる、生きていくうえで困らない夢のような生活。だけど毎日人から奇異の目で見られ、檻から一生出られない。そんな珍獣って幸せ?」
何かのたとえ話だろうか? 俺は「珍獣」とは翔子さんのことじゃないかと推測したが故にどう答えるべきか迷ってしまった。何も言えないでいると、そんな俺のことも見透かしたかのように彼女は溜息をついた。
「私には何が幸せかわからないわ……」
その話はこれっきりで翔子さんはがぶがぶと缶コーヒーを飲み、飲みきると再び歩き出した。俺も一気に缶ジュースを飲み干して後を追う。
その後もカピバラやらカワウソやらを見たりしたが途中でちょっとした建物の中に二人して入った。そこは所謂ゲームコーナーで色々なアーケードゲームが置いてあった。バスケットゲームやらレースゲームやら、それに小さめの赤い筐体があってこれを指差してやや興奮気味に翔子さんは言った。
「タイガーのギャラクティックフォース! 滅多にお目にかかれないレアシューティングゲームよ」
そういえば翔子さんの家にレトロゲーム機が沢山あったのを思い出していた。きっとこういうのが好きなのだろう。
「一クレやっていい? すぐ死ぬから」
彼女の言葉にぎょっとした。ここでの「死ぬ」はゲームオーバーを指すのだろうが、彼女から死という言葉が出てくると敏感にならざるを得なかった。俺はかろうじて笑顔を作る。
「いいですよ、好きなだけ」
「よし」
翔子さんは百円玉を筐体に入れてゲームを遊び始めた。戦闘機を操りながら3D空間で奥へ奥へと進みながら迫りくる敵を撃って撃って倒しまくる、というシューティングゲームだ。彼女はすぐ死ぬと言ったが結構上手く、二面三面へと進んでいた。十分くらいしてようやくゲームオーバーになり、筐体から彼女は解放された。
「面白かったっすか」
「うーん、難易度高過ぎるし、お世辞にも出来がいいとは言えないわ、でも音楽が素晴らしいのよね。小倉さんって人の曲なんだけど……」
そうしてしばらくこのゲームについて饒舌に語る翔子さん。やはりゲームは好きなんじゃないだろうか。そして好きなことについてはちゃんと話せる人なんだと俺は思った。
「せっかくだから陽介君もやってみたら?」
「そうっすね。よーし」
俺は彼女に代わって筐体に滑り込み、ギャラクティックフォースに挑む。しかし結果は一面でゲームオーバー、その難易度の高さに返り討ちだ。自分でもここまでゲーム下手だとは思わなかった……ちょっとショック。
「まぁ、難しいゲームだから……ごめんね」
翔子さんに謝られて気まずくなり、俺達はその場を後にした。
それから動物園ゾーンは一通り見て回ったので再び遊園地ゾーンへと向かっていた途中、森林部より開けた道から海が見えた。電車からも見えていたが今見れば波打ち際がすぐ傍にあってこんなに近づいていたとは。潮風が顔に当たってつい匂いを嗅ぐ。当たり前だが潮の香りだ。
この二月の寒空でなければ海水浴なんてのも良かったのにな、などとと考えている間にも翔子さんは明確な目的があるのかすたすたと歩く。遅れないように俺もぼんやりするのをやめて後に続く。
やがて俺達は巨大な観覧車の前に到着していた。勿論彼女は乗る気だろう。俺と二人っきりで――そう思うと少しドキドキした。
例のごとく翔子さんは二人分のチケットを買い、観覧車に乗り込んだ。彼女に促されて俺も乗る。そうして密室に二人閉じ込められた。
「翔子さん……」
俺は何か話しかけようとして、やめた。躊躇われた。あまりにも彼女の人を寄せ付けない雰囲気に。相変わらず目線を外し、ずっと窓の外の景色を見ている――その無防備さがかえって壊してはいけないという気持ちにさせる。
そんな調子で上りはただ沈黙が流れた。俺はなるべく彼女を見つめていたが、観覧車が頂点に達する頃、とうとう耐えきれず自分も景色の方に視線を逃がした。すると海が一望できて綺麗だった。
「いい眺めね……」
ようやく沈黙を破って翔子さんが口にした。この機を逃さず、俺は話を繋げようとする。
「マジ良いっすよね海。今度は夏に行って泳ぎましょうよ」
「……」
再び沈黙が訪れようとする。俺は慌てて質問を続けた。
「翔子さんは楽しいですか?」
「えっ?」
「今日色々乗ったり動物見たりゲームしたり……楽しかったですか?」
不躾な質問に困惑する翔子さん。彼女は少し考えてから、
「わからない……」
と言葉を濁した。さらにこうも言った。
「でも最後の思い出作りにはなった、かもね……」
最後、という言葉が引っかかる。勿論嫌な方向にだ。だから俺は彼女の手を取って言う。
「また来ましょうよ。夏にでも!」
「陽介君……実はこの遊園地、来月閉鎖するの」
「えっ?」
意表を突かれた。でもよくよく考えればこの寂れ具合じゃ閉鎖するのも致し方ないのかもしれない。しかし問題はそこじゃない。この遊園地がなくなること自体は大した問題ではなかった。
「じゃあ、他のところに遊びに行きましょうよ。遊園地だけが遊び場じゃないし」
「……」
これ以上は暖簾に腕押しであった。
結局再び沈黙の時間に戻り、そして観覧車は地面に戻ってきた。俺達は降車してまた歩き出した。見覚えのある道を通っていることから俺は入り口まで戻っていっていることを悟った。ちょうど空が赤く染まる頃だった。
遊園地を出た時にはもう仄かに暗くなっていた。今日はこれで帰るのかと思いきや、翔子さんは駅ではなく街の方に歩み始めた。
「今日はもう遅いから、泊まっていきましょう」
そんなことを彼女は言うが、まだ帰れる時間なのにと思っていたのは内緒だ。今日の俺はとにかく彼女に付き合うつもりなので素直に従うことにする。
やがて適当なビジネスホテルを見つけると、翔子さんは中に入って手続きを済ませた。俺も当然くっ付いている。ホテルの7Fの一室に転がり込んでようやく俺は今日の疲れをどっと感じた。
「日帰りはハード……一旦落ち着けて正解、でしょ」
そんな俺を見透かして翔子さんは言ったもんだから、少し気恥ずかしくなった。だが言葉に甘えてしばし体を癒すことにした。
翔子さんも同じように休憩していたが一旦抜けて下のコンビニに行き、大量のおにぎりを買ってきた。夕食としてそれを半分ほど二人で食べ、残りは朝食に取っておくことにした。
それから夜は翔子さんが備え付けのテレビずっと見ていたので俺もチラチラと見ていた。だが致命的につまらなかった。よくもこんなつまらない番組を見ていられるなと時折俺は彼女の方を見る。しかし彼女は俺の方を見ずただテレビに視線を注いでいた。
11時になると翔子さんはテレビを消し、順番にシャワーを浴びてから寝ようという話になった。
先にシャワーを浴びて寝る準備をしていたところ、シャワーの音が聞こえてきた――翔子さんが今、壁一枚隔てて裸になっている。その事実が俺を悶々とさせる。
翔子さんのあられもない姿を想像するのはいけないと自分を押さえつけようとするが、これが難しい。意識しないようにすればするほど意識してしまうジレンマ。よくよく考えると男女でお泊りというシチュエーションの時点でヤバいのではないかと思えてきた。
「お風呂上がったわ」
そんな俺の苦悩を知ってか知らずか、いつの間にか服を着こんだ翔子さんが声を掛けた。その姿に少しホッとしたような、でもちょっと残念なような……っておいおい何考えてんだ俺!
翔子さんは色とりどりの睡眠薬(飲まないと寝られないらしい)を取り出しては飲んだ後、部屋の明かりを消してベッドに入った。ここで問題なのだが、この部屋にはダブルベッドが一つしかなかった。つまり俺は彼女と密着して寝ることになるわけで――そんなのドキドキせずにはいられない。ちゃんと寝れるか不安だった。
しかし背に腹は代えられない。俺ももぞもぞとベッドに入ると、今日初めてかもしれないくらいに彼女と目が合った。
「ねぇ、陽介君……えっち、したい?」
その上そんなことまで言い出すのだから、こっちの心拍数は跳ね上がる。
「翔子さん、今俺の聞き間違いじゃあなければ、えっちしたいって言いました?」
「こういう時、普通のカップルならするのよね……どう? 陽介君は。したい?」
「俺は……その……」
「ごめんなさい。本当はえっちのやり方なんて全然わかんないし、怖くてできない……普通じゃないのよね、私」
拒否されて安心半分不安半分だった。何が不安かというと最後の普通じゃないという言葉の自虐的な響きに良くないものを感じ取れたからであった。しかし俺には彼女にどう言ってやるべきか言葉が見つからず沈黙する他なかった。
一方で翔子さんにとって俺は普通の性欲旺盛な男子高校生に見えているかもしれない、と思うとそれで不安がらせているならなんとかしないとと思えてきた。俺は行動を起こす。
「すみません、俺、やっぱ床で寝ますわ」
「陽介君!?」
俺は枕をベッドからはぎとると無造作に床に置いてそこに寝転んだ。俺は絶対翔子さんに対してえっちなことだとかをしないという意思表示である。
「寒くない? 大丈夫?」
「平気っす。暖房効いてるし」
「でも……」
翔子さんはまだ何か言おうとしたがやめた。いや言えなかったんだと思う。睡眠薬が効いたのかすぐ寝息を立てて眠ってしまったからだ。
口ではああ言ったものの実際少し肌寒かったので俺は自分のマフラーを取り出して、それを巻いて寝た。
その日の夢には翔子さんが出てきた。一日共にしたんだ。まぁ妥当だろう。
血の池地獄のようなところで俺と翔子さんは何故か綱渡りをしていた。
翔子さんがふらつく。俺は彼女の手を持って支える。この手を離せば、彼女は地獄に落ちてしまう……そんな気がして緊張感が走る。
だが蝙蝠のような何か黒い靄に襲われてつい俺は手を離してしまい――
真っ逆さまに落ちていく翔子さん。多分俺は絶叫していた。
そんな悪夢にうなされ――翌朝、目が覚めるとベッドの上に翔子さんの姿がなかった。
先に起きたのか。眠気眼を擦りながら、狭い部屋内を探して見回すがいない。もしや風呂場に、と思ったがシャワーの音は聞こえてこない。さてはコンビニにでも行ったのか。
と捜索を打ち切ろとした時、ベランダに人影を見つけたものだから冬の厳しい寒さも厭わず戸を開けた。するとそこには翔子さんの姿があった。低い柵の上に跨って片足を外に向かってプラプラとしている。7Fという高さのベランダでこんなことをしているなんて、理由はただ一つしか思いつかなかった。
俺は慌てて声を掛ける。
「翔子さん! 危ないからやめてください!」
「やめるって、何を?」
「それは、その……」
飛び降り自殺。そう直接的に表現することが怖くて憚られる。
きっかけさえあれば死ねるとかつて翔子さんは言っていた、そのきっかけってまさか、俺のことか? 想像して俺は青ざめる。
「俺のせい、ですか……? 俺、なんか悪いことしました? それなら謝ります。だからこんなことは」
「陽介君は関係ない。いずれこうするつもりだったの。陽介君は悪くないから。悪いのは全部私だから」
翔子さんは俺の考えを否定しつつ、自殺への強い意志を見せた。彼女の命は風前の灯火のように思えて俺は焦る。なんとかして思い止まらせないと!
「翔子さん、昨日は楽しかったじゃないですか……辛いこともあるけどそればっかりじゃないじゃないですか人生。俺でよかったら手伝いますから、楽しく生きていきましょうよ」
「楽しく生きる? そんなことが許される人間じゃないのよ私は。言ったでしょ。私は生きてちゃいけない人間」
「そんなの、誰が決めたんですか」
「それは……」
「俺は、まだ出会って間もない関係ですけど、翔子さんには死んでほしくないんですよ! もっと付き合わせてくださいよ! 春は花見に、夏は海水浴に、秋は紅葉狩りに行きましょうよ。だから生きてほしいんですよ、翔子さんに」
「陽介君……」
「だから……こっちに来い……」
俺は翔子さんににじり寄る。だが無理やりベランダから部屋まで連れて行くようなことはしなかった。あくまで翔子さんの意思でやめなければ意味がない。
しばらくじっとしていた彼女だがついに片足を内側に引っ込めて柵を降り、その場にへたり込んだ。
「陽介君がいなかったら、私、死んでた。誰も止めてくれなかった。誰も、止めてくれなかったのよ……」
そう言って翔子さんは泣き始めた。大粒の涙が彼女の眼から零れ落ちる。
「本当は人との繋がりが欲しくて……ひっぐ、でも怖くて、逃げて……ひっぐ」
俺は思いっきり彼女を抱きしめる。すると最初は困惑した風だったがやがて抱き返してくれた。
「陽介君、あったかい、人ってあったかいよぅ」
「そうなんだよ……だから人間捨てたもんじゃないんですよ翔子さん」
「うん……」
翔子さんはまた涙で顔をくしゃくしゃにしていた。俺は彼女に笑顔を取り戻してほしくてなんとか言葉を紡ぐ。
「翔子さん、俺でよかったらこれからも友達でいよう」
「友達……?」
「一緒に遊園地行ったりして遊ぶなんて友達じゃないですかもう。だから……」
そう言うと余計翔子さんの目から涙が止めどなく溢れる。
「私、財布を落としただけなのに、友達ができた……」
涙ぐみながらも、翔子さんは少し笑ってみせた。それを見て俺も嬉しくなった。
それは一際寒い冬の朝のこと。
俺と翔子さんは「友達」になった。それで死にたがりの彼女が生きていくことができるのなら安いものだ。
俺達はホテルを後にして帰路につく。最中、次の週末の予定を立てながら――