三章 B
空気をも凍らせる冷気も底を付き、薄っすらと日が昇り始める頃。俺は目を覚ました。
「……んあ?」
瞼が重い。寝つきが悪かったせいだろうか、爽やかな目覚めとは言い難かった。
クゥネロの小さなベットに、無理やり男二人ぎゅうぎゅうになって横になったのも寝ずらかったし、埃まみれで、仄かに、いや、しっかりと汗の臭いがする布団は、俺から睡魔を追い払って寒気をもたらしてくれた。
レコのベットに寝かせてもらった時とは真逆だ。目覚めは、最悪と言っていい。
「……おはよう」
俺が起きた気配を感じ取ったのだろう。隣で、クゥネロも起き上がった。
「……先、風呂入っていいよ」
それだけを言うと、バタ、とまたクゥネロは横になった。そしてすぐに、いびきを掻き始めた。
「……頭いてー」
おまけに、貧血になったかのように体が重い。気怠いし、フラフラとしか歩けない。
なるほど、これが二日酔いか。
唐突に、口の中に酸味の塊が押し寄せてくる。重い体を無理やり動かし、トイレに駆け込む。
「おぇぇぇぇー…………」
ゲロがどぼどぼと便器の中に注がれる。
……ゲロを吐いたのなんて、いつぶりだ?
「吐くほど飲んだのかい? ペース、分からなかった?」
トイレから出ると、呆れたような顔でクゥネロがベットに座っていた。
「……」
思わず、ちょっと睨んでしまった。もちろん、ペースなんて分かるわけがない。
前世では高校生だったのだ、飲酒経験は殆どない。せいぜい親戚の集まりで、泥酔した叔父さんに何度かジュースと偽られて、酒を一口二口飲まされたことがあるくらいだ。
昨日は年の近そうなクゥネロが平然と飲んでいたから、こちらではそれが当たり前なんだろう、と、郷に入れば郷に従えの考えで何も言わずに飲んでみたが……おそらく、このクゥネロという男、うわばみ、というやつに違いない。
何も考えずに目の前の人と同じペースで飲んでいると、痛い目にあう。……それが、今回の教訓だろうか。
「次回からは、気を付ける」
「そうした方がいい。嫌なんだったら、断ってくれればよかったのに」
少し残念そうな声音で、クゥネロがぼやく。
「いや、別にそういうわけじゃない。確かに飲んだことは殆どないけど、だからこそ、ちょっと楽しみだった」
「とても楽しみにしているようには見えなかったけど……。景って、感情が顔や態度にあんまりでないタイプなんだね」
……前の世界でも友達から指摘された言葉を、まさかクゥネロからも言われるとは。
「かもな」
今もそれを聞いて「何だかちょっとカッコよくね?」と、ちょっとだけ愉快な気持ちになったが、そのことにクゥネロは気付いていないようだった。
もはや予想通りと言うべきだろう。風呂場も当然のごとく汚かった。
床や壁の黒ずみを見れば、もう長いこと風呂掃除をしていないことは明白だし、いつから放置されているのか、水のたまった洗面器にはプカプカと塵と虫の死骸が浮かんでいた。
「……というか、コレは一体何をやったんだ?」
もっとも、それらは正直コレに比べれば些事だと言っていいだろう。
風呂場の壁を斜めに走る、ペンキか何かの後。それ以外にも、同じような跡があちこちにある。……いったい、この風呂場で何をしたんだ?
正直、奴を舐めていた。風呂場をここまで汚すのは、凡人には不可能だ。もはや、天才の域にあると言っていい。
おそるおそる蛇口をひねる。幸い、水だけは普通だったので、軽く水を被って、おそるおそる石鹸に手を伸ばした。石鹸もまた、とてもキレイとは言えない状態だったが……大きく息を吸って覚悟を決め、無言で無心に、身体を洗った。身体を洗うタオルには、とてもではないが手が伸びず、素手で泡を作り、身体に擦り付けた。
「……上がった」
「おあがり~」
風呂を出ると、クゥネロが立ち上がった。。服を脱ぎ捨て、玄関前の洗濯物の山に放り投げ、別の山から服を取って風呂場へ向かって行った。
ベットに座り、荒く息を吐く。お湯が使えなかったので、身体が芯から冷えていた。そのせいか、二日酔いの頭痛が増した気がする。
うめき声を上げながら頭を押さえていると、クゥネロが戻ってきた。
何か忘れ物か? と一瞬思ったが、どうやらあっという間に風呂から上がったらしい。
不潔だ、と一瞬思ったが、お湯がなかなか使えない以上、こんなものなのかもしれない。
前世の感覚で風呂に入って、この寒さの中くまなく身体を洗っていると、風邪を引いてしまう。
「ここいらだと、薪をくべて、お湯で風呂に入らないのか?」
「たまには入るよ。毎日はできないけどね。薪がもったいないし、森には魔物が出るから。僕のような騎士ならともかく、市民が気軽に薪を取りに行けるような森じゃないからね」
「……そんなに、危険なのか?」
レコは割と軽い調子で俺をここに寄越した。危険だと分かっていたなら、多少は武器か何かくれたはずだが。
腕を組んで、クゥネロはうーん、と唸った。
「……答えるのが難しいな。危険がないと言えば嘘になるけど、騒ぐほどじゃない、というのも正しい」
そう言ってクゥネロは前髪をいじりながら、考えるそぶりを見せた。
「大物の魔物に遭遇すれば、騎士でも生き残れるかは五分もあればいい方だと思うよ。一般人なら、まず間違いなく死ぬ。魔物というのはそのくらい危険だ。……ただ、魔物は人里近くにはあまり出ない。ゼロじゃないけど、少ない。極力町から出ない方がいいけど、完全に禁止するほどじゃないのも確かだよ。今だって、どこかの町から商人たちが来ているだろうしね」
でも、とクゥネロが話を続ける。
「近頃は、魔物が町近くにまで近づいてくる例が増えているんだ。巫女一族の人達は最近町に来ていなかったから、知らなかったのかもしれないけどね」
そう言って、クゥネロが肩をすくめた。
話を聞いている限り、日本の山間の地域の話と似ている気がする。クマのような狂暴な獣が、魔物に置き換わったのだと考えれば分かりやすい。……ただ、日本の場合クマが人里まで降りてくる事例が増えたのは、食糧不足が原因だと聞いたことがある。ここの魔物たちも、同じ理由なんだろうか?
「なんで、突然そんな風になったんだ?」
クゥネロが左右に首を振る。
「分からない。だけど、森に何か異変が起こったんじゃないかな? 今は真白き終わりの時代だ。どんなことが起こるか、想像もつかない」
そう言って、そっと、壁に立てかけられた鞘を撫でた。いざとなったら、自分が剣を振るって皆を逃がす。……もしかしてもしかすると、そんな殊勝なことを考えているのかもしれない。
「……なぁ、その、真白き終わりの時代ってなんだ?」
不思議なものを見るような目で、クゥネロがこっちを見た。
「さぁね」
それだけ言って、昨日の酒瓶に僅かに残っていた酒を、口の上でさかさまにして飲み干した。
「……遠い昔は、今のように霧が世界に満ち溢れていなかったと聞いている。誰かのせいで、何かが失われて。世界は霧の海に閉ざされ、滅びの道を辿るようになったと聞いている。……あいにく、あまり学がなくてね。詳しくは知らない」
「霧が世界を埋め尽くすから、真白き終わりの時代、か……。だけど、たかが霧だろう? それで世界が滅ぶとは思えないけど」
空になった酒瓶をその辺の床に捨てて、クゥネロが立ち上がる。
「もちろん。霧は一番わかりやすい変化ってだけだよ。……年々、ゆっくりとだけど大地が枯渇し、世界からより一層魔力が失われていっているんだ。人も、他の種族も、伝承に記されている古い時代と比べて、もう随分と減ってしまったし、間違いなくこれからも減り続けるだろうね。僕の代ではないけれど――でもいつしか、世界に人間がたった一人だけの時代が訪れて、そして終焉を迎えるんだと思うよ。そう遠くないうちに」
どこか寂しそうな顔で、クゥネロは自虐的な笑みを浮かべた。
「…………そんな」
言葉が出ない。
END世界♯09657
俺をこの世界に連れてきた神が、この世界をそう呼んでいたのは、それが理由だろうか?
END世界。その名の通り、この世界は既にどん詰まりで、終わりに向かってひた走っているのだと、そういうことなのだろうか。
「……辛気臭い話はやめよう。苦手なんだ」
笑い声と共にクゥネロはそう言って、玄関の方へ歩き出した。俺の方からは背中しか見えなかったから、どんな顔をしていたのかは分からない。
「飯を食いに行こう。――景が記憶喪失だからついつい話しちゃったけど、よくなかったね。こんな話、するもんじゃない」
唐突に振り返って、小さく笑いかけてくる。
「――景ってさ、まるで別の世界からこの世界に紛れ込んだみたいだね」
くだらない冗談を言うかのように、おそらく意図せずに、真実を口にする。
「だとしたら、ちょっとかわいそうだね。――こんな、終わりきった世界に流れ着いてさ」
俺は、それに何と答えればいいか分からず、口をつぐんだ。