三章 A
日が沈み始めたころ、空模様が急変した。
沈み、消えゆく陽光に代わり、大地を照らすはずの月光は分厚い雲に遮られ、まるで地上に届かなかった。
濃霧が重く垂れこみ、視界は最悪だった。覚えたばかりの遠見の魔術も、こうなると殆ど意味がない。
――そんな中、俺は門番に止められて待ちぼうけを食らっていた。
「ックション」
ズズ、と鼻をすする。寒気が、ゆっくりと体を包み込む。昼の暖かさがウソのように、気温は今日も急激に低下した。
「……いや、昨日以上だな」
空模様のせいか、これから寒くなっていく季節なのか、その両方か。気温は昨日よりさらに低かった。
借り受けたペラペラの毛布に包まり、パイプ椅子に似た、チープでメタリックな椅子に座って待つこと、体感二時間。
ガシャ、ガシャ、――と、鎧を着込んだ人間の足音が聞こえたのは、それくらい経った頃だった。
「いいよ、入っても」
同じように鼻をすすりながら、朴訥そうな顔の青年がそう言った。
「……ありがすう」
ずっと黙っていたので口が動かず、変な風に言葉が出た。青年は笑い、俺の座っていた椅子と毛布を受け取ると、半開きになっていた門の中へと案内してくれた。
「キミの手紙が本物だと認められた。――キミは、本当にあの巫女一族の来客なんだね」
不思議なものを見るような目で、青年が言う。
「巫女一族?」
「……そうか、手紙には行き倒れていた、記憶喪失の青年だって書いてあったんだっけ。ええと、キミを助けてくれたあの一家のことだよ」
困ったような顔をして前髪をかき上げ、青年が言う。青年は、アーメットヘルムを被らず、小脇に抱えていた。
「昔からあの辺りの荒野で暮らしている、変わり者の一族さ。詳しいことは知らない。ずっと引きこもっていて、たまに顔を出すのはいつも、顔を隠した使いの少女一人だけだから。その子も、一言も話さず筆談しかしないし」
一家……ねぇ。
レコは一人暮らしだったけど?
どういう理由かは分からないが、レコはこの町の人に顔を見せたことはおろか、声を発したことすらないらしい。
おまけに、家族で暮らしていると思われているようだ。
「どうして【巫女】なんて言うんだ?」
「さぁね。僕もオジジがそう言ってたから、そう呼んでるだけだよ。オジジもきっと、オジジのオジジがそう呼んでたから、真似ただけだよ、きっと」
さして興味なさそうに答え、青年が肩をすくめる。
話している間も、二足の靴がカツカツ、トット、と金属と石畳が、ゴムと石畳がぶつかる音をリズミカルに奏で、俺と青年は前へと進んでいた。
「僕はクゥネロ。キミ、当然だけどこの町にツテなんてないよね? よければ、今晩はウチに泊まっていきなよ」
どう答えるべきか困っていると、ああ、と呟いて、青年がブンブンと片手を振った。
「違う違う。大丈夫だよ、警戒しなくても、何もしないから。ただ……」
「ただ?」
「……宿屋のオバチャンがおっかない人でね。こんな時間から客を連れて行けば、アタシに夕飯を作り直せと言うのかィ! ……って怒鳴るんだよ」
だから今晩はウチで勘弁してくれないか、とクゥネロは困ったような笑みを浮かべて言った。
……この話の流れからして、宿屋に払うほどはお金を払わなくてもいい、ということだろうか? それならありがたい。いくら多めにお金をもらっているとはいえ、余裕はあった方がいいし、何よりレコに悪い。ただでさえ世話になっているのだから、使う額は少なければ少ないほどいい。
「じゃあ、ありがたく泊まらせてもらうよ」
場合によってはもっと泊めてもらおうかな、と内心思いながら答える。
まだ警戒は解けないけど。とりあえず、俺はクゥネロの提案を受け入れることにした。
クゥネロの家は、町の出入り口である門のすぐ近くにあった。一階建ての、木造の一軒家だ。それ以外のことは、まるで分からない。既に日は落ち、霧は濃い。ここに来るまでも町の様子なんて、全く見えなかった。
「フン、フンフン、フーン♪」
鼻歌を歌いながら、鎧を脱ぎ私服に着替えたクゥネロが先導してくれる。
その歩みに戸惑いはなく、濃い霧の中をスイッ、スイッ、と、視界も悪いはずなのに一切ひるまずに、リラックスした表情でクゥネロは歩いていた。
「よくこの霧の中を歩けるな」
魔術を使わなければ、一寸先も見えないのに。
「幼い頃からよく歩いた道だからね。これだけ視界があれば、十分だよ。重霧でもないし」
「重霧?」
「まるで視界が白一色で統一されたかのような、とっても濃い霧のことだよ。あまりに濃すぎて、目が全く使い物にならなくなるんだ。おまけに霧自体にも質量があって、ちょっと身体を動かすことにすら難儀する。――ごくたまに、そういう霧がでるんだ」
「俺からすれば、今日の霧も大概だけど」
疲れ切った顔で俺がそう言うと、クゥネロは笑った。
「ここ最近じゃ、確かに濃い方だね。でも、言うほどじゃないよ」
そのとき、ここだ、と唐突に呟いて、クゥネロは立ち止まった。
「ここが僕んちだよ。まぁ、ゆっくりしていってくれ」
頷き、おじゃまします、と言ってクゥネロの後を追って家に入る。
「……」
無言で、部屋の中を見渡す。
パッと見た限り、部屋の中にあるものは、それほどレコの家にあるものと変わらない。食器洗いを代替えしてくれる、あの青と白の魚も、洗い桶の中をゆうゆうと泳いでいた。
違う点は三つ。
一つ目は、レコの家よりも、造りがしっかりしているということだ。素人の手作り感に溢れていたレコの家とは違い、職人が作ったことが一目で分かる、緻密な計算で造られた、立派な家だ。ツギハギや、建物から飛び出した木材がない。
二つ目は、風呂とトイレが家の中にある、ということだ。また、手洗い場に水を汲んだ桶ではなく、蛇口があることも地味だがとても大きな差だ。どうやら、この町には上下水道が完備されているらしい。
――そして、何よりも大きな差である三つめの違いは、ひどく、とてつもなく、部屋が汚い、ということだ。
足の踏み場がない……というより、そもそも床がどこにもない。足元にはゴミが蓄積し、その上に新しい床が誕生していた。
――――間違いなく、床の上に十センチはゴミが堆積している。
「悪い悪い。毎年四月を過ぎると、いつも汚くてね」
ハハ、と何でもないことのように軽く笑い、クゥネロは背負っていたナップザックをどさり、とその辺に置いた。
言い訳なのか何なのか知らないが、頼まずとも朗々と説明を始めた。
「今はもう十月だろ? 年の終わり、十三月の末には大掃除をするんだけどさ? それから一、二、三月は頑張って仕事の合間に掃除するんだけど、四月くらいからは面倒になってやらなくなっちゃうんだよなぁ。……悪かったよ。謝るから、だからそんな風に睨まないでくれ」
頭を掻き、クゥネロが片目を瞑り、顔の前でパン、と音を立てて手を合わせる。……どうやら、いつの間にか睨んでいたらしい。騙された! ……という思いが強かったし、別に悪いとは思わないが。
というか、コイツ朴訥そうなのは見た目と喋り方だけだ。案外、テキトーな奴だ。
「……やっぱり、宿をとっていいか?」
「た、頼むよ、それだけはさぁ~」
お願い、と言って、また手を合わせる。それから、伺うように上目遣いでこちらを見た。
「……」
「そ、そんな風に半眼で睨まないでくれよぉ」
情けない声を上げ、そうだ、とぽんとクゥネロが手を叩いた。
「代わりに、晩飯は奮発するよ。旨いもん食わせてやるから」
どこに行ったかな、と呟きながら、ゴミ山を踏みしめ、紙袋の山を漁る。
紙袋の中身は加工食品や野菜のようだ。……時折、クゥネロが投げ捨てた袋の中から、カビの生えた野菜が転がり出る。
そのうちの一つ、カビだらけのジャガイモが袋から転がり出て、ベットの下に入っていく.。
――そこに何か、身の毛もよだつ虫がいる様子が、チラリと見えた。
あの、黒く、テカテカと油で光る体。見間違えるはずがない。
こっちの世界にも、いるのかよ――!
戦慄している俺には気づかず、あったあった、と言ってクゥネロが満面の笑みで振り向き、紙袋からパウンドケーキを取り出した。
ラム酒だろうか? 何かとてもいい香りがする、茶色の大きなパウンドケーキだ。ところどころに、大粒のドライフルーツが練りこまれているのが見える。確かに、これは旨そうだ。
「先週、近くの売店で買ったんだ。これでも食おうよ」
そう言って、クゥネロが卓袱台に似た、背の低いテーブルを蹴る。
テーブルの上に乗っていたティッシュや雑誌、食べかすの付着した木皿が吹き飛んでいく。
俺が唖然としていると、まったく気にしていない様子で、クゥネロが近くの椅子に座った。
椅子に座れば、背を曲げないとテーブルの上の物に手が届かない。明らかに、サイズを間違えている。
「ほら、そっちに座りなよ」
レコが顎で指し示す。言われた通りそこにあったベットに座ると、埃が舞った。
「じゃ、乾杯しようか」
いつの間にか、テーブルの上に小さめの酒瓶が二つ置かれていた。
酒の用意だけは早いなぁ……。
「「乾杯っ」」
ぐい、と酒を呷る。この味は……おそらく、赤ワインだろうか?
前世ではロクに酒を飲んだことがないから分からないが、酸味のある味が口いっぱいに広がる。
というか、流れで飲んでいるが……未成年が酒を飲んでいいのか?
クゥネロも、俺とそれほど年が変わらないように見えるけど……この辺りじゃ、この年で酒を飲んでいいのか?
「うくっ」
どうやら、水と同じ感覚で飲むとマズいようだ。なんだか、頭が少しクラクラする。
……ここは流石に、明日には出よう。
何日もここに泊めてもらえるように頼み込む腹積もりを取り消し、絶対にそうしよう、と俺は深く心に誓った
力んだせいか足元が沈み、ぐにゃりという、不愉快な感触がした。
十中八九、腐った食べ物が、堆積したゴミの下に混じっているのだ。
――絶対、明日朝一で出よう。
強く強く、俺はそう決意した。