二章 D
「魔術や魔法は、純粋なエネルギーである魔力に命令を与え、動かし、変化させる術のことです。古い慣習や威力の大小、どこの誰が開発したのかによって魔術か、それとも魔法かが決まります。実際のところ、境界はとてもあいまいではっきりしません。ただ強いて言えば……」
「強いて言えば?」
俺がオウム返しで繰り返すと、ティアートが小さく笑う。
「――魔法の方が、魔術よりも上の術だ、とされています。ただし、例外や微妙な例が山のようにあり、日常会話においては殆ど区別されていません。――例えば、軽量化の魔術」
一呼吸おいて、ピッ、とティアートが人差し指をピンと伸ばす。
「体が軽くなり、一方一歩の移動距離が大きく伸びる、大変便利な術です。この術をより高度にしたものに紙氏の魔法、というものがありますが……これは体を紙切れほどの体重にする魔法で、軽すぎて不安定で、移動には使えません。術の難易度はともかく、実際の使い道は軽量化の魔術に大きく劣ります。――また、別の例として石弾の魔術」
ピッ、と、今度は中指をピンと伸ばす。
「銃が普及する前は広く使われていた魔術で、その同系統の魔法に、原始の砲、と呼ばれる魔法があります。ただし実際の能力は、原始の砲よりも石弾の魔術の方が高く、難易度もそう変わらない術なので、事実上は魔法の上位互換に位置する魔術になります」
「逆転してるな」
「はい。理由は分かりますか?」
尋ねられ、ちょっとだけ考えてみる。
魔法が作られた後に、より優れた魔術が作られたから?
最初のうちは、魔術の方が魔法より優れていると分かっていなかった?
「理由は簡単、大国のプライドです」
考え込んで黙ってしまった俺を見て、ふふ、と笑ってティアートは言った。
「強力な魔法を開発した、と周囲に喧伝していた大国は、より優れたものを開発した小国の術を表向きには認めなかった。なので、自分たちが生み出したものより下方にある力、ということにして魔術という扱いにしたのです」
「――くだらなっ」
大国の威信、というやつか? しょぼいプライドだ。
「誰かの行為は、それを理解できない人からすれば小さく見えるものですよ。――私は、そう聞きました」
「そうかもね」
フフ、とまた小さく笑い、ティアートは俺が握っている瓶を指差した。
「仕組みと名前のお勉強は、この辺でいいでしょう。次は、実技です」
そう言うと、カッ、とティアートが目を大きく見開いた。
「今、私は遠見の魔術を使っています。――感じられますか?」
「ええっと……」
慌てて目を凝らすが、何もわからなかった。
「分かりましたか? とりあえず、やってみてください」
へ、と思わず口から声が漏れる。困惑しつつ、瓶を握って思いを込めてみる。
霧を見る。……視界は、一ミリも変わらなかった。いや、これはダメだろ、という思いで瓶を握りしめていると、
「……うーん、魔力を完全に失った人族には、感覚で魔力を操れ、というのは酷なことなのかもしれませんね」
そう呟いて、ティアートが俺の人差し指を掴んだ。
ビリッ、と、静電気が奔ったかのような感覚。思わず、一瞬顔をしかめる。
「そんな顔をなさらないで。……やっぱり、魔力を通す門が閉じていますね。無理やり経路をこじ開けるので、痛いかもしれませんが我慢してください」
そう言って、ティアートが俺の身体に何かを流し込んできた。
指先に奔った静電気が、腕、肩、胸、首、腹、と拡大していく。身体中が、ビリビリしてくる。
「目を閉じて。しっかり、感じてください。今、瓶の中身ではなく、私の体内魔力を景の体内に流し込み、循環させています」
そんなことを言われても、よくわからない。……そう思ったが、慣れてくると確かに、しっかり感じようとすると、少しだけ何かを感じることができた。
どうやら、ビリビリする静電気に似た感覚には強弱があり、その波は、ゆっくりと動いているようだ。
胸の辺りに感じた強いビリビリ感が、首の方へと昇っていく。ついには顔の表面から痛みを感じ、俺は痛っ、と小さく悲鳴を上げた。
「今です、魔術を発動させましょう」
と、ティアートが言い、再び、体中を衝撃が駆け巡る。今度は静電気ではなく、熱の塊だった。
熱い。だが、叫ぶほどではない。なんとなく、本当になんとなくだが、その熱さに俺は青色をイメージした。理由は分からない。ただ、この熱の塊に対し、青色の熱だ、と妙な感想を抱いた。
やがて熱は体中をめぐり、最後に瞳に辿り着く。そこで、静電気もろとも霧散した。まるで、最初から影も形もなかったかのように。
ツゥ、と涙が零れだし、頬を流れた。
「目を開けてみてください。遠見の魔術が発動しているはずです」
目を開ける。視界が涙でぼやけているので、指で擦って涙をぬぐう。
相変わらず、霧が立ちこめているせいで視界は悪く、前はよく見えない。ただ、確かに遠見の魔術は発動しているようだった。
手が届く範囲しかよく見えなかった以前と比べ、その倍は視界が確保されている。ここに来て初めて、目の前にある泉の全貌をよく見ることができた。
古びた遺跡の一部と思われるこの遺跡。視野が広がったことで、泉の向こうにあったものがようやく見えた。
それは石像だった。
石の肌が、若く、雄々しさを漂わせた一人の男を形作っている。
見るからに強そうな鎧を着込み、盾を胸の前に構え、射貫くような眼差しで天を仰ぎ、剣を上に突き出している。
像のあちこちにヒビが入っているため、かつての面影はない。ただそれでも、この像に彫られた人物が、古の時代、人々から崇められていたことは、なんとなく分かった。
「……魔術は、成功したみたいですね」
俺が背後の像を見ていることに気付いたのだろう、ティアートはそう言ってほほ笑んだ。
「うん、成功したみたいだな。……ところで、あの像は何なんだ?」
「遠い昔に忘れ去られた、在りし日の英雄の姿を彫った像ですよ。……知りませんか?」
俺が頷くと、ティアートはさもありなん、といった顔をした。
「人族からは、すっかり忘れ去られていますからね。……私達の先祖は、彼を忘れないように、彼の死後ここに住処を移したそうです。なんでも当時の妖精族には、彼を恋い慕っていた者が大勢いたとか」
「町のど真ん中に移り住んだのか?」
こうも人工的な泉があるということは。遠い昔、ここは森ではなく、町だったのだろう。
なんとなくだけど、妖精は森の奥深くに、隠れるように暮らしているイメージがあった。
「はい。勿論、全ての妖精が移り住みに賛成したわけではありません。森に残った者達も、大勢いたかと思います」
ティアートが像を見上げる。もはや風化して、顔すら朧気にしか分からなくなった、その像を。
「彼の名はまさる。――異邦よりこの地に訪れた、天の使いだったと伺っています」
――まさる?
――天の使い?
あまりにも、日本人くさい名前。遠い昔にこの世界にやってきた、異世界転生者なのかもしれない。
「なぁ、そのまさるって……」
「女王、……いえ、ティアート様」
詳しく聞こうと思った時、ティアートの背後に、二人の妖精が近寄ってきた。
杖を持った、キリリと目元の整った美人と、真面目そうな顔立ちの、ツインテールの少女。
「……お時間です」
心苦しそうな顔で、キリリと目元の整った美人が言う。
ふと周囲を見渡すと、太陽が大きく傾いていた。日が沈むまで、もう、そう時間はない。
「もうそんな時間ですか。…………永かった。でも、悪くはない時間でした」
そう呟いて、ティアートは羽織っていた服を脱いだ。
下着だけの姿になり、ティアートは空中で服を畳むとその上に王冠を乗せ、背後にいるツインテールの妖精にそれを渡した。
彼女は最初から、服を着ていなかった。受け取ったティアートの着ていた服を着て、王冠を被る。
「では、頼みましたよ」
ティアートがツインテールの少女の頭をなでると、彼女は頷き、ぎゅっとティアートを抱きしめた。
「……はい」
「――新女王、即位!」
キリリと目元の整った美人が大声で叫ぶ。
パチパチパチパチ、と周囲の妖精たちが一斉に拍手を始める。そして、歌を歌い始めた。
一分の乱れもない、人には不可能な、機械さながらの完璧な合唱だ。
我ら、共に在りし者
勇ましきものに、輝きを施す者
永久を紡ぎ、刹那に生きる者
今、新たな時代を築かん
短い歌が、何度も繰り返される。
「最後に、ちょっとだけお喋りをしましょうか」
パチン、とティアートが指を鳴らす。すると、ティアートの声以外、周囲の一切の声が聞こえなくなった。
突然の事態に困惑して、俺は茫然としたままティアートを見た。
王冠も既になく、下着だけの姿でありながら、彼女は恥じることなく堂々としており、宙を舞いながら、髪を風に任せて左右に揺らしていた。
ティアートは小さく笑った。
「儀式の時間になるまで、長話をするとは思っていなかったので。ごめんなさい、話していませんでしたね」
「王を……辞めたのか?」
どうして、と小さく呟く。
「――景は、ここに来て、妖精を見て、どう思いましたか?」
そっと、ティアートが両手を広げる。
「ここには、若い女しかいない。男も、年老いた女もいない」
「……そういう種族なんだと思ったが。女性だけの、決して老いることのない種族なんだと」
フルフル、とティアートが首を振る。
「違います。妖精族には、掟があるのです。一定の年を下回る少女以外、生ある者は他種族に姿を見られることまかりならぬ、という掟が」
そして、ティアートがじっとこちらを見た。
かちりと、目と目が合う。
「――――私がこの世に生を受けて、はや十日。定められた年齢を跨ぐため、今日をもって女王の座を退き、一介の妖精に戻ります」
寂しさと、達成感の入り混じった瞳。嘘をついていないことは、明らかだった。
だったら……。
「十日……」
絶句する。それは、あまりにも短い。虫の一生にすら劣る、短すぎる時間だ。
「女王の位にいたのは?」
「三日くらいですね」
「短すぎやしないか……?」
目を瞑り、胸の前で重ねるように手を合わせ、ティアートは首を振った。
「そうでもありません。……私には十分、永い時間でした」
その顔を見れば、その三日間がどれほど幸せなものであったのかくらい、会って間もない俺でも分かった。間違いなく、ティアートは幸せだったのだ。
「妖精族の寿命はせいぜい十五日。人族からすれば短すぎるとは思いますが、私達にはこれで十分なんですよ? 憐れむ必要はありません。寧ろ、私からすれば人族の方こそ大変だと思います」
「俺達が?」
「妖精族の短すぎる寿命では、個性なんて入り込む余地がほとんどありません。その代わり、敷かれたレールの上を走るように、大往生の結末へと突き進むことができる。でも、人族はそうではないでしょう?」
白い瞳がこちらを見る。黄昏時の陽光を反射しているからだろうか、その瞳は不思議な輝きを発していた。
「自由意思こそが人族の力。そして、人族に課せられた呪いです。己の意思のみを指針とし、己の足のみで生を歩むのが、人の正道。苦悩多き道です。……ですが、その道の果てには何も約束されていない。私たち数百世代分の、途方もない時間を苦難や苦悩で埋め尽くし、無念の死を遂げていく人も星の数ほどいます。――私は、その生き方は大変だと思います。さながら、伝承に聞く地獄のようです」
「地獄?」
「景は、賽の河原、という話を知っていますか? 親よりも先に亡くなった人の子供が行くという、終わりのない徒労を与える地獄です。これは、人の生き方そのものではありませんか? 人は多くの場合、身に余る願いを抱き、あるいは自分の願いすら分からずに、迷走するかのように生を歩み、徒労の果てに志半ばに散っていくのだと、私達妖精はそのように理解しています。ほんの僅かな、塔が完成する可能性を夢見てただ生きていくのだと」
一呼吸の間をおいて、ティアートが問う。
「――景は、どう生きるつもりなんですか?」
「……」
その問いに答えるものを、俺は持たなかった。
当然だ。まだこの世界に来て、数日しか経っていない。まだ何も知らないのだから。
そう……だから、仕方がないのだ。例え、前世でも何一つ願いがなく、漠然とただ生きているだけだったとしても。
「いいのです。答える必要はない……それは、永い永い時間をかけて見つけるべき答えですから」
ティアートがクスクスと笑う。その背に、キリリと目元の整った美人が近づいていた。
「……時間です。もう会うことは叶いませんが、空の彼方からあなたの息災を願っています」
キリリと目元の整った美人が、ティアートの前で膝を折り、その薬指に指輪をはめる。
結婚指輪だ、とすぐに分かったが、その隣に、伴侶となる者はいない。代わりに、一輪の白い切り花がその手に渡された。
ティアートの身の丈ほどもある、それなりに大きな花だ。四つの花弁が四方に広がる様は美しく、甘く爽やかな匂いが、鼻腔をくすぐった。
「妖精族には男が滅多に生まれません。その代わり、妖精族は花さえあれば、子を授かることができるのです」
パチン、と再びティアートが指を鳴らし、魔術が解ける。
周囲の祝福の声が、耳に飛び込んでくる。
「おかえりはあちらから。今から太陽の沈む方角へしばらく歩けば、今日の内に町に辿り着けるでしょう」
ティアートが背を向ける。
「ま、待ってくれ!」
待ってくれ? ……自分で言っていて、理解に苦しむ。
――――そう、理解できなかった。
自由の一つなく、愛すべき伴侶は物言わぬ花で。
たった数日の命は、命を次の世代へと渡す、バトンとしての意味しかない。
どう考えても不幸だ。不幸でしかない。……だというのに。
――彼女は、幸せそうに笑っている。
それが、全く理解できなかった。
自分にできることはないし、できたとしても、望まれていることは何一つとしてない。……それが分かっていてなお、声をかけずにはいられなかった。
「――そうそう、一つだけ、私にも自由を許されたものがありました」
振り返る。さらさらと、ティアートの長い髪が左右に揺れる。
「あなたと会って。――名を、授かった。フフ、悪くないものですね。名があるというのは。自由というのは」
人の生も、想像していたよりは悪くないのかもしれませんね。
それが、彼女の最後の言葉だった。
花を強く抱きしめ、花のように笑いながら。
ティアートは重力に身を任せるように飛び立った。
ちゃぷん、と。
泉の中へ、水面と垂直に、落下するように飛んで、頭から落ちていった。
後に残るは波紋のみ。そしてそれも、すぐに消えた。
「去りなさい、人の子よ」
新しき女王が、厳かに言った。
「そして、できるなら。――姉さまのことを、忘れないでください」
その言葉を。新しき女王の、慈愛に満ちた顔を。
俺は、呆然と見つめていた――。
陽光が、稜線と重なり合う。そして、やがてその背へと消え始めた。
オレンジ色に包まれていた世界が、藍色へ、そして漆黒へと変わっていく。
美しくはあれど、何気ない風景。取り立てて、心を動かされることのない景色。
こんな光景でも、きっと妖精たちは美しいと感動し、ほぅ、と息を漏らし感動の涙を流すのだろう。なにせ、たかだか数日の命なのだから。
枝葉を押しのけると、ようやく、クラムフォレストの明かりが見えてきた。
安心して、ほっと息を吐く。思わず、ほんの少し涙が出た。
だからだろう。心の余裕が生まれて、俺は森を振り返った。
「……」
言葉は出なかった。語るべきことは、特にない。ただ……。
忘れない。決して、彼女のことは忘れない。例え、妖精たちからも忘れ去られようと。
――妖精たちが、人々から忘れさられた英雄を忘れないでいるように。
それだけが、消えていく者たちに、自分たちができる唯一のことだから。
俺は門番に挨拶し、町へ入った。