二章 B
レコの家を出て霧の中、荒野をゆっくりと進み、坂を下る。
この時期は早朝の小鳥が鳴き始めたころだけ、霧が晴れはしないものの、相当薄くなるのだそうだ。
レコから聞いた通り、霧は薄い。十メートル前後なら、どうにか視界を確保することができそうだ。
「急がないとな……」
霧が薄まる時間は短い。タイムリミットは刻々と迫っていた。霧が深まれば、土地勘のない俺では、生きてレコの家に戻れるかすら怪しい。
坂を下りきると、レコが野菜を育てているという小さな畑と、ゆるやかに流れる小さな川があった。上流にある、レコが風呂やトイレに使っている川が、ここまで続いているのだろう。
川には、丸太を並べ縄で固定しただけの、小さな橋がかけられていた。恐る恐る橋を渡り、それからすぐに、森に入った。
青々とした草木に満ちた、豊かな森。
人が一人ギリギリ通れるくらいの、道と呼ぶべきかすら悩むような道を周囲を確認しながら進む。
獣道の人間バージョン……というのが、一番しっくりくる表現だと思う。
誰かが自分が通るために、草を切って道を作り……やがてまた草が伸びてきた頃に、また誰かがやってきて、自分が通るために自分の周りの草だけを切った。
その果てしない繰り返しが作った道だろう。通りづらいが……それでも、辛うじてきちんと道として使えるようにはなっていた。
「こっちで、いいんだよな?」
顔に引っ掛かりそうな邪魔な枝を切りながら、思わずつぶやく。
地図はもらったが、正直なところ森の地図は情報が少なすぎて、俺にはよくわからない。
ビルも民家も、建物が一つとして見当たらない。……そんな地図を使うような経験を、日本ではしてこなかった。
霧は、森の中にも依然として立ち込めている。既に早朝と呼べるような時間は終わり、太陽が、少しずつ頭上に昇り始めていた。――そしてそれは、霧が薄くなる時間が終わったことを意味している。
「目印となりそうなものは……白いキノコの生えた林、巨大な岩、それに川か」
川そのものは、道から外れた所にある。ただ、
『迷ったら、川を探すといいよ。川を下っていけば、町に出るから』
そう、レコは言っていた。だから、最悪の場合は川を下っていけば、町まで辿り着くことができる。
「今は、川の音は聞こえないな」
霧が濃くなってきた今では、視界と同じくらい耳も頼りだ。
ゆっくりと、足を進める。
足元は、荒野と違ってどこかしっとりとしていた。小さな石ころは見当たらず、湿った土の地面だけがある。……いや、その地面の殆どが草木で覆われているので、自分が踏んでいるのは土ではなく、正確には雑草と木の根っこだった。最近雨が降ったのか水気もあって、見た目通り豊かな森なのだろう、と思った。
雑草の合間合間から、時折昆虫や蛙が飛び出てくる。……自分は都会育ちなので多種多様な外見の虫は新鮮で、驚いたしビビったが、すぐに慣れた。
父方の実家で頻繁に出没していた、カサカサと床を這う黒く光る例の虫の駆除は、俺の担当だった。その経験が生きているのかもしれないが、流石にちょっと複雑だ。
「お、コイツは何だ?」
頭が紅く、身が黒い虫。蛇行するように宙を飛び交うその群れは、俺が近づくとピタリと飛ぶのをやめ、木に止まった。
その虫は、身体の一番下の先端部分――尻が光っていた。
おお、と思わず感嘆の声が漏れる。ホタルだ。
前世も含めて、生で見るのは初めてだ。
ゆっくりとその場を通り過ぎると、再びホタル達は飛び始めた。それから呼吸をするかのように、何度か光を強弱させる。とても、幻想的な光景だった。
「ホタルについては、地図に書かれていなかったな」
この森だとどこにでもある光景なのか、それとも、生息しているポイントが頻繁に変わるのか。
……あるいは、この辺りの人には、まったく価値を見出されていないのか。
「三つ目の理由だとしたら、ちょっと悲しいな」
――いつでも綺麗な夜空を見ることができる人は、いちいち夜空の美しさに感激したりしない。
そう言えば、と、昔聞いた話を思い出した。
どんなに美しいものでも、身近にあると慣れてしまうものなのかもしれない。
「永遠に退屈しないものってのは、なかなか無いものなのかもなー」
人生で一つでも、そういうものを見つけられれば、それはとてつもない僥倖に巡り合えたということなのかもしれない。
そんなことを思いながら歩いていると、足元に白いキノコを見つけた。
サイズにはバラつきがあり、小指くらいのものから、手一つ分くらいの大きなものまで様々だ。傘が異様に大きく、しだれ柳の枝のように、大きく垂れさがっている。
傘の頂点には、薄茶色の点々があり、まだら模様になっていた。
白いキノコの群生地を突っ切っていけ、と、地図の横にそう書かれている。
「売れるから採っていけ、……って言われてたっけ」
レコから渡された、小道具や財布が入った麻袋を開けて、できる限りキノコを詰め込んだ。
レコにおんぶにだっこで生活するのも悪い。稼げるときに稼いでおきたい。
つーか、ヒモみたいで情けないし。
「これでよし……っと」
再び麻袋を背負いなおし、地図を確認する。
「これからまっすぐ行けば、巨大な岩があるはずだな」
よし、元来た道を引き返そう……と思ったところで、はたと気付く。
「…………キノコ採りに夢中になりすぎたかな」
ちょっと、森を舐めていた。
霧が濃く、風景は右も左も森が続くばかり。視界は最悪で、例え見えたとしても、周囲から得られる情報は殆どなかった。
「マズったな」
取り合えず、おそらくこっちから来た、という方向に向かって歩いてみた。
「さっぱり、分からんな」
戻ったからと言って、風景は何一つとして変わらない。とりあえず、近くにあった木にナイフで目印をつけて、それから歩き出した。
「……」
キノコをどかし、麻袋の中から水筒を取り出す。……焦りと不安のせいか、やたらと喉が渇く。水の減りが早い。
獣道の同然の道がある以上、この道で間違いないはず。それだけが心の支えだったが、森の奥へ奥へとと進んでいくほど、次第に道のかたちもぼやけ、進むべき道は分からなくなっていった。
「! 道が……」
ついには、道が完全に消えてしまった。もう、眼前にはただ草木が生い茂っているだけ。誰かが踏みしめて作った道なんて、どこにもなかった。
目指すべき次のチェックポイント、巨岩は影も形もない。
引き返すべきか……?
そう思い振り返ってみたが、道がどこにあるのか、自分がどう進んできたのか、まるで分らなかった。
ここにも、道はある。――それは妄想だった。自分は正しい道を歩んでいる、間違いはないと信じたかったが故に、草木の生えている位置がちょっと偏っているだけで、道だと思い込んでしまっていたのだ。
ざっと見ただけでも、草木の偏りから道に見えないこともない場所が三つもあるし、それらは途中で枝分かれしていた。
戻ることは不可能。最早、前に進むしかなかった。
進む方向を斜め前に変更し、草木をかき分け、枝を切って、前に進む。
喉が渇く。あっという間に、水筒は空になった。焦りや不安だけじゃない。既に、日が高く昇っていた。
朝や夜と比べて、気温が随分上昇している。それでも真夏には程遠いが……朝から歩き通しの身には、それなりに堪えた。
「――っ!」
ビクッ、と体が総毛立つ。獣の唸り声が、遠くから聞こえた。
とてもではないが、草食獣の鳴き声だとは思えない。
あれは――あれはきっと、人をも食らう獣の声だ。
走り出したくなる気持ちを抑え、深呼吸して息を整え。――目を閉じ、耳を澄ました。
「……」
風の音。鳥の声。揺れる草花や、木々の葉っぱ同士が擦れる音。
獣の声は、もう聞こえない。――代わりに、水のせせらぎが遠くから聞こえた。
獣の声が聞こえた方向とは、別方向だ。
『迷ったら、川を探すといいよ。川を下っていけば、町に出るから』
レコの言葉を思い出す。
川さえ見つけられれば、町に辿り着くことができる。
そろり、そろりと、背後を振り返りながら、川を目指す。
地面から突き出た小さな岩に足を乗せながら斜面を降り、時には立ち止まって耳を澄ませる。そんなことを繰り返していくと、少しずつ、川のせせらぎがよく聞こえるようになっていった。
ついに、ほんのすぐ近くに川があると確信できるほど音が大きくなったとき、俺は走り出した。
危険は分かっていたが、迷っていることへの恐怖がそれに競り勝った。
霧を切り裂いて走り、森を抜けるとそこには――泉があった。
川ではない。遺跡、という言葉がしっくりくる場所だった。
朽ち果てつつある、優美なデザインが施された、コンクリートで囲われた泉。それなりに大きくて、霧のせいで全貌はよく分からない。中央には、大きな噴水があった。この噴水が奏でる音を、川のせせらぎと勘違いしていたのだと悟る。
だが、そんなことはどうでもいい。
泉には、羽の生えた空飛ぶ小人――ゲームで頻繁にその姿を見かける、妖精の姿をした人々がいた。
「稀人来たれり。レコ様の客人ね、歓迎するわ」
その中心を飛んでいた、一人だけ違う格好の妖精が――水色の翅をもった少女が、そう言ってほほ笑んだ。