二章 A
……知らない天井だ。
大工が作ったものではない、完全に手作りにしか見えない粗雑な作りの家。木材を不均等に並べて固定しただけの天井を、ぼんやりと眺める。
ゆっくりと、意識が覚醒していく。昨日あったことが、泡のようにふわふわと脳裏に浮かんでは消えていった。
霧の深いこの場所に異世界転生したこと。
霧の中に誰かがいたこと。
交渉を試みたが無視され、その人の家に入り、中を物色していたら、襲撃されたこと。
そして……。
「ん……うぅ……」
隣から、甘い声が聞こえる。寝巻に着替えた襲撃者が、そこで、俺と同じベットの上で寝ていた。
襲撃者……彼女は、名をレコと言うらしかった。
昨日は結局、しんどいから、と言われて何も聞けずに寝ることになったが……聞きたいことは、山ほどあった。
どうして俺から隠れたのか。そして何より、どうして俺の名を知っていたのか。
「寒っ……」
女の子と一人用のベットで寝るのは初めての経験で、流石に顔が赤くなる。鼓動が早まり、昨日は寝るのに苦労した。
普段より体温が随分高くなっていると思う。だが、それでもこの部屋は寒かった。
この辺り一帯は夜間、かなり気温が下がるようだ。壁が薄いこの家では外気の遮断など望むべくもなく、寒気はするりと壁を越えて、部屋に流れ込んでいた。
このまま二度寝しようか……そう思ったが、彼女の寝顔とはだけた胸元を見て、その考えは一瞬で霧散した。
一瞬にして、胸元に見える谷間に視線が吸い込まれてしまう。
揉みてぇ。
朝っぱらからおっぱいで頭がいっぱいになり、手をワキワキと動かしたが……流石に恩人に失礼が過ぎる。
理性(邪魔)をフル稼働させて制止し、理性(マジで邪魔)が機能するうちに、急いで布団から飛び出した。
レコに毛布を掛けなおし、自分はとりあえず家を出ることにした。
「風呂とトイレなら、玄関を右に曲がって、百歩ほど歩いたところにあるから。先に入っといて」
背中に声がかけられる。どうやら、起きていたらしい。
「……俺を試していたのか?」
「フフ。まぁ、ケダモノじゃあないみたいだね」
否定せずにレコはそう言った。……危ないところだった。
油断ならない人物だ。
……下着の件は、絶対に言わないでおこう。
何だか恥ずかしかったので、俺はさっさと部屋を出て、風呂場へ向かった。
今日は、昨日に比べて霧が薄かった。おかげで、迷うことなく辿り着くことができた。
川の上に丸太を並べて、中央に穴を開けたものがトイレ。空の桶が三つばかりと、石鹸、それにどろりとした液体が入った瓶が一つ置かれた場所が、風呂だった。どちらも、家以上に簡素な小屋で囲われている。
「……寒そー」
見ただけで、ぶるりと体が震えた。
川から桶で水を汲む。それから言われていた通り、ぽん、と音を立ててコルクを抜き、瓶を逆さにして上下に振った。
ぽちょん、と音を立てて、瓶の中のどろりとした液体が、水の張った桶に落ちた。すると、ぶくぶくと泡が生まれ始めた。
「すっげぇなぁ、これ」
息を吸い、息を止めて。言われた通り、頭頂部からその桶に顔を突っ込んだ。
深い桶だ。頭頂部から首まですっぽり入る。入れると同時に、不思議な音が聞こえてきた。
魚だ。魚が泳ぐ音が聞こえる。
何かが自分の髪を柔らかく噛む感触がする。鱗が頬を撫でる感触がする。
無数の魚の群れ。その中心に、自分の首から上だけがいるような……そんな感覚。
こらえきれず、息が苦しくなって、顔を上げて頭を桶から出した。桶の中には泡も魚影もなく、触ると、髪はずっときれいになっていた。もう、汗臭さやべたつきは感じなかった。
「不思議な道具だな……」
日本にあったら、妹なんか結構喜んだんじゃないだろうか。
アイツは母に引き取られたから、もう長いこと会っていない。だから、今は喜ぶのか分からないけど。俺の中じゃ妹はまだ十年くらい前に別れた幼稚園児のままだから、喜ぶと思う。
アイツ、風呂嫌いだったし。
「もっと使ってみたいんだがな」
それなりに値の張る消耗品で、髪を洗う以外には使うなと言われているので、身体は石鹸で洗った。と言っても、本当に少しだけで、身体の方はほとんど水で流しただけだ。
この寒さの中での風呂は、慣れるまでキツイものがある。
簡素の極致といった塩梅のこの小屋では、冷たい風がびゅんびゅん隙間から入ってくるのだ。
この風呂場の中に裸でじっとしているのは、とてもではないが耐えがたい。
ガタガタと身体を振るわせながら風呂場を出て、家に戻る。
その途中で、レコにすれ違った。
「おさき」「はい」
通り過ぎてから、背後から声がかかった。
「なんだったら、先にご飯食べておいて」
俺は手を振って答えたが……考えてみれば、この霧の中で見えるはずもない。
何だか間が抜けていて、少し笑った。
来客用の椅子に座り、ぼんやりと宙を見つめて待っていると、レコが戻ってきた。
「……先に食べてよかったんだよ?」
椅子を引き、レコは俺の目の前の椅子に座った。
「いや、悪いから」
そう答えてから思わず、失礼と分かっていながらも、彼女の顔をまじまじと見てしまった。
短く切られた薄紫色の髪。窓から入る陽光に反射して、仄かに光る金色の眼。――それは隻眼で、右目しかない。顔の左側は包帯で覆われていて、包帯の上には、濃い赤紫色で文様が描かれていた。
「ああ、これ?」
レコが自身の包帯を、きれいな指でなぞる。
そっと視線を逸らしたが、気付かれてしまったようだ。ばつが悪くて頭を掻きながら、ためらいがちに俺は聞いてみた。
「気になってたんだけど、それ、なんなんだ? 読めないから、文字じゃないよな?」
「……」
指を包帯から放して、レコは質問には答えずに、代わりに妙なことを言った。
「昔、私は未来が見えていたんだよ。――そう言ったら信じるかい?」
キシシ、と悪戯をする子供のように、レコが笑う。
「無論、信じるよ」
俺は即座にそう答えた。
「…………そんな風にあっさり受け止めたのは、景が初めてだよ」
呆れた顔で、レコはそう言って珈琲を飲んだ。
正確には、珈琲に似た何か、だが。
今日の朝食は、缶詰の魚をレタスと一緒に挟んだサンドイッチだ。塩味が強く、クセがある変わった味わいの魚だが、なかなかに悪くなかった。
「そうか?」
どうやら魔法があるといっても、この世界でも未来予知は、ありふれたものではないらしい。と言っても……。
「お前も俺のクラスメイトの、異世界転生者だろ? 俺以外の連中は別の世界に飛ばされたと思っていたけど、仲間もいたんだな。だからチートスキルだろ、その未来予知。誰だ、ユリか? それともアカリ?」
当然のように俺がそう言うと、レコが額に眉を寄せた。理解不能なものを見るような目で、
「――何を言っている?」
と、困惑した声音で言った。
「え?」
何も分からない、という顔で、レコが首をかしげる。
「だ、だって、お前、昨日俺の名前を言い当てたじゃないか。それで、ナイフを収めたんだし。 つまり、お前の仲間の――クラスメイトだから、俺を殺さなかったんだろ?」
はぁ、とレコが溜め息を吐く。
「言ったろう。未来が見えた、と。かつて未来を眺めていたとき、見えたんだよ。私が景といる姿が」
「俺が?」
「そう。だから生かしたの。――ところで、異世界転生って、何?」
「え」
どうやら、墓穴を掘ったのかもしれない。……いや、別に秘密にする必要はないか。
俺は、自分の事情を説明することにした。
「……ふぅん、チートスキルっていうのは、私も欲しいな」
話を聞いて、興味深そうにレコはそう言った。
「信じるのか?」
「景も私のことを信じたんだよね? なら、私だって信じるよ」
「名前を当てられたからなぁ」
まだちょっとクラスメイトなんじゃないか……と疑っているが、たぶん違うだろう。俺をこの世界に送り込んだ神の言い方から考えて、きっとこの世界にいるのは俺一人だけだ。――そう考える方が自然な気がする。
「未来が見えていたってことは、今は見えないのか?」
そう尋ねると、レコが立ち上がった。
胸元にある時計を模したペンダントと、白い、シンプルなドレスに似た服の裾が揺れる。
ごわごわとした素材の服で、俺が来ている服と同じ素材に見えた。
「我が奪われし左目は未来を視る。我が残りし右目は過去を視る」
顔の前に手をかざしながら、そんなことを言う。それから、
「……冗談だよ」
ちょっと顔を逸らしながら、席に座った。
「恥ずかしいなら、しなきゃいいのに」
「うるさい」
レコはまた珈琲を飲み、空になったコップをゆらゆらと揺らしながら、さきほどの意味不明な説明を補足してくれた。
「ようするに、左目に未来視の力があったってことだよ」
「そいつは残念だったな。でも、遺された右目には過去を視る力があるんだろ? 聞く限り強力そうだけど」
「……この力は二つで一つ。右目だけだと、自分の過去を思い返すときに便利ってだけだよ」
「……」
一気に胡散臭い話になったな……。見た目、俺と同じ高校生くらいの年頃に見えるし、中二病を患っているのか、コイツ? ……ちょっと話を盛っているのかもしれないな。
「しばらくウチに滞在するんだろ? 景は」
話がマズい方向に向かっている、と分かったんだろう。レコはさっと話題を変えた。
「できるなら、そうさせてくれるとありがたいな。行くところもないし」
「なら、近くの森にある集落に行ってくれないか? 二人で暮らすとなると、いろいろ物入りだから」
……まさか、そんなに簡単に許可してくれるとは思わなかった。
「いいのか?」
「いいよ。――いっとくけど、普通は許さないよ。でも、景だからね」
……レコは、いったい俺の何を視たんだ? 未来の俺が、何をするというんだ?
「というか、集落あるんだな。てっきり危険を避けるために、こんなところにレコは住んでいるんだと思ってたけど」
「うん、森はここよりは危険だよ? 実りがあるけど、それを狙うのは人だけじゃないからね。……でも、あえてここに住んでいる理由は違う。単に、私はあそこじゃ暮らせないのさ」
そう言ってレコは席を立ち、食べ終えた皿とコップを桶に入れた。
桶の中の魚が、すぐに皿に群がって、食べカスを食べ始めた。
「今日はゆっくりしたらいい。――明日、近くの里『クラムフォレスト』に行ってくれ」