こっちの僕と、あっちの僕
最終話。
ガタン
椅子を引いて立ち上がり、気配の元へと一歩一歩近づいた。
「よいしょ」
膝をついて、「それら」を触れた瞬間
スッ…
『ねぇ、僕を覚えてないの?』
『わたしたち、ずっと近くにいるのに…。』
まただ。僕の体ははっきり見えるのに、周りは真っ暗になってしまった。
『大人になると忘れてしまうという噂はよく耳にするんだ。自分がしたいことを、心のままにすること。自分を一番に考えること、大切にすること。』
『いつしか周りの顔色を伺うようになって、自分の考えを押し殺して、閉じ込めてしまうの。本当の心の声を、私たちを、無視してしまうの。苦しそうな顔をしながら…。』
『でも、大丈夫。僕らを見つけてくれたから。』
はっ。
目が覚めると、太陽が高く上がっていた。枕元にセットし忘れていた目覚まし時計を寝ぼけ眼で探して時間を確認する。お昼の12時。
よかった、待ち合わせには間に合いそうだ。
「そうだ」
バッグの内ポケットを確認する。
ない。
昨日確認した後しまったのに、ない。
部屋のどこにも無くなっていた。
ふと無意識に、6畳のこぢんまりとした部屋の角にある押し入れを開けた。上段にしまっていた段ボール箱をずずず、と手前に引き寄せた。なぜだろう、体が自然と動く。
「あれ…?」
そう、これは昨日見た小さい頃から大切にしていたぬいぐるみだったじゃないか。そしてこれは…昔よく遊んでいた玩具だ。剣の形をした音のなるそれは、大好きなキャラクターが装備しているものだ。僕は、引っ越す時に持ってきていないはず…。
どくん、と体が脈打つ。
突き動かされるほどの情熱、心躍るような好奇心、夢中になり楽しんでいたあの頃。そしてなにより、心の中の自分が必死に訴えかけていた悲鳴とも言える心の声。思い出した、あの感覚。忘れてはいけない、大切なこと。日常に置き去りにされていた、心の声。
「お前は…僕だったのか…ごめん…いつだってそばにいてくれたのに…苦しかったな…ごめんな…」
ぬいぐるみとなって、剣となって、心の自分は至るところに化身となって、自分自身に警鐘を鳴らしていた。ずっとずっと我慢していた。周りに合わせて、本音を隠して、敷かれたレールを歩いてきた。そうやって周りに溶け込んで、「普通」という鎖で自分を縛り付けていたのは、他でもない自分自身だった。
「その顔は…ちゃんとチケット使えたようだね!」
「無くしたかと思って焦ったんだからな。」
「ふふっ。すまんすまん。」
東の空に日が昇り、咲き乱れる桜の花びらがキラキラと輝いている。あの日の記憶を胸に、押し入れの戸にそっと手を当て、おはようと挨拶をした。その手を、今度は僕の心臓へ当てる。僕は今日も、自分の心の声に耳を傾ける。
全4話にわたる短編小説は、いかがでしたか?
初めてお披露目するのでとても緊張します。
*投稿作品に関しまして、無断転載及び自作発言はご遠慮ください。
苦しい時は、そっと胸に手を当ててみてください。
きっと、「僕」が、話し始めてくれます。
寒い日が続きますが、ご自愛くださいませ。