生贄の娘
それは彼女、マドレーヌが八歳の時のこと。
「おまえの婚約者はこの方だよ」
父親にそう言われた彼女の目の前には侍女服の綺麗な女性がいて、可愛い赤ちゃんを抱いていた。
マドレーヌは女で侍女も女性だから、女同士で結婚することはない。
だから婚約者というのは、その赤ちゃんのことだとマドレーヌにもわかった。
それから十五年の歳月が経ち、マドレーヌは二十三歳になって、すっかり嫁き遅れと言われる年齢になった。
あの時の可愛い赤ちゃんは、今は十五歳の王子様で、輝くばかりの美しい少年になっている。
これから数年もすれば、誰もが見惚れるような美しい青年になると思われる。
その頃には、彼に相応しい令嬢が選ばれて結ばれる。
まだ今は水面下で選んでいる段階だから王子の相手は決まっていないけれど、マドレーヌとの婚約解消は決まっていた。
「マドレーヌ」
マドレーヌの姿を見て駆け寄るルネ王子の声に、足を止める。
マドレーヌ自身の先のことを話し合うために登城したが、ルネと顔を合わせるつもりはなかったので、マドレーヌは少し困った。
彼は美しいだけでなく優しい少年に成長したので、もしマドレーヌの今後のことを聞いていたなら謝罪してくるかもしれなかったからだ。
けれど、王子に呼び止められて無視して行くわけにはいかない。
「ルネ殿下、ご無沙汰しておりました」
マドレーヌは応え、優雅に腰を落として礼をした。
「マドレーヌ、婚約のことだけど」
「お聞きになりましたか」
「聞いた。……僕は嫌だ」
謝罪ではなく拒否の言葉がルネの口から出て、マドレーヌは別の意味で困惑した。
婚約が解消されること自体は、もうずっと前から決まっていたからだ。
それこそ、初めから。
そもそもマドレーヌと彼の婚約は、彼に見合った年齢の、彼に見合った家柄や色々の、彼に相応しい令嬢の婚約者が決まるまでの仮のものだった。
何故そんな仮の婚約者が必要だったかと言えば、彼が国王の寵姫を母に持つ第二王子であったからだ。
彼の母親は正妃ではなく、寵姫は国王の愛妾である。
しかしルネ王子は国王により実子と認められていて、第一王子であり王太子であるセルジュ王子に次ぐ王位継承権を持っている。
この国では父親が我が子と認めたなら、婚外子であろうとも正式な夫婦の子と平等な権利を有するのだ。
そして国王は本来何人もの寵姫を持っているのが当たり前である。
正妻と愛人を養えるだけ裕福ならば、平民であっても愛人がいて不思議ではない。
そういう文化の国であり、半分の女性はそれを当たり前として受け入れている。
だが残り半分の女にとっては面白くないことで、貴族でも平民でも正妻と妾の間での争いの話は枚挙に暇がなかった。
そして国王の寵愛を争う正妃と寵姫の間でも、それは起こる。
当代の国王は一人しか寵姫を持たなかったのだが、それも逆に争いを煽ったのかもしれない。
権勢を誇る家に生まれ政略で婚姻を結んだ王妃と、大した力のない家に生まれ王に見初められた寵姫。
王妃の産んだ王子が一人目でありその年齢に四つ半の差があったので、次の王位は第一王子のものとして立太子も問題なく行われたが、第二王子がそのスペアであることは変えられない。
第一王子に何かあったなら、王位は第二王子のものになる。
こんな風に言ったなら寵姫やその一族がたいそう野心家であるように聞こえるかもしれないが、実際には寵姫の一族は至極控えめだった。
寵妃の実家は元々あまり強い出世欲のある家ではなく、彼らの不運の始まりは寵姫が国王陛下に見初められたことで王宮に入った時だった。
より攻撃的に権力を振りかざしたのは王妃とその一族だった。
国王の寵愛を得た寵姫を憎む気持ちもあっただろうが、攻撃は最大の防御であると考えたのだろう。
第二王子は母である寵姫に似て、生まれたばかりでなお輝く美貌への成長を予感させるに十分であったからだ。
いずれ大人になった時の人望を、彼が野心を持った時のことを恐れ、早めに排除しておくべきと考えてしまったのだろう。
しかし王国にとっての平穏と利益を考えたなら、第一王子のスペアである第二王子を失うことが良いことのはずはない。
世継のいない国は乱れる。
この世には、事故も病もあるのだ。
人と死は近いものなのである。
なので暗躍する王妃とその一族の様子を察した、この国の宰相は考えた。
もしも国王と王妃の仲が良好で王妃が第二子以降を産める見込みがあったなら、国王を説き伏せて寵姫をどこかの貴族の妻に下賜し、王子もその際に臣籍降下させる方が無難だったが、元々政略結婚である国王の王妃への気持ちは冷え切っていた。
更には王妃の一族が寵姫と第二王子を狙っていることを、国王も理解している。
表だって国王は王妃とその一族を排除するというような強硬なことはしなかったが、寵妃とその一族を庇い、力を貸した。
寵姫の一族が権勢を誇る王妃一族にぎりぎり潰されることなく立ち回り、場合によっては毒や刺客のような直接の危険を潜り抜けられたのは国王の力あってのことだった。
だがそれが王妃の怒りを増しもする。
それに連れて水面下の争いも過激さを増していく。
誰の目にも、王妃から「次のスペア」の誕生が期待できないことは明らかだった。
それであれば、宰相は寵姫の後ろ盾を強化するより他なかった。
国王のためでもなく、寵姫とその一族のためでもなく、第二王子のためでもなく……もちろん王妃のためでもなく、自国の安定のために。
第二王子ルネを守り寵姫の家が潰されぬように、権力のバランスをとる。
第二王子に母の実家の他にも後ろ盾をつける。
その方法は第二王子の婚姻しかない。
王が直接肩入れするよりは、王妃の怒りは収まるかもしれぬとの目論みもあった。
更なる怒りを買い、王や第二王子に向かう怒りを肩代わりする可能性もあったので、それに対抗できる家を後ろ盾につけなくてはならなかった。
そんなわけでまだ乳児の第二王子に宰相は婚約者を宛てがおうとしたが……当然のように上手くはいかなかった。
王妃から疎まれることは目に見えているのだ。
立ち回り切れなければ自家が潰されるかもしれなかったし、婚約者となった娘は取返しのつかない危害を加えられるかもしれなかった。
苦労はわかり切っているのに見合うほどの見返りがあるかと言えば、王になるわけではない第二王子の妃では、おそらくそれはない。
宰相は生贄の娘を出すように王家と国への忠義を求めるしかなく、それに頷ける者はいなかった。
そして国のために生贄を求めるならば、じきにそれを出すべきは宰相家であるという論調になることも宰相は理解していた。
第二王子ルネに釣り合う幼い女児を持ち王妃の実家と対抗できうる力を持つ家に協力を求めて色好い返答が得られなかった時には、己の娘をそれに差し出すしかないことを。
そうして八つ年上のマドレーヌは、玉のような赤子であったルネ王子の婚約者となった。
「お嫌……ですか? ですが、国王陛下も王太子殿下も、ルネ殿下のお幸せを願っているのです」
赤子の時から近しく育ったルネとは、マドレーヌも気心が知れている。
二人でいる時には本当の姉弟のような親しさで過ごしてきた。
「それではマドレーヌはどうなるの?」
「わたくしは」
ルネは王妃には疎まれていたが、王には溺愛と言えるほどに可愛がられていたし、王太子である兄とも仲は良かった。
ルネが十五になって状況が変わり、この二人はルネに似合う年回りの良い令嬢を新たな婚約者にするべく、選定を始めている。
だが新しく婚約者を選ぶならば、速やかに前の婚約は解消せねばならない。
マドレーヌにはまずは父親から話を聞き、そして今日は国王と王太子セルジュからの命を受けるために城へと来た。
今はまだルネの婚約者であるが、夕方には違うはずだった。
「……わたくしの身の振り方は、国王陛下と王太子殿下がよろしいようにしてくださるでしょう」
「他の男のところに嫁ぐの?」
「それは」
行先はもう、マドレーヌも知っている。
だがマドレーヌの口から告げるのは躊躇われた。
「国王陛下よりお伺いくださいませ」
マドレーヌと第二王子の婚約が、そのまま婚姻までいくと思っていた者もいただろう。
この国の常識からすれば女の方が年上であることすら珍しく、その上年齢はあり得ない程離れていたが、王妃が健在である限りルネの新しい後ろ盾に立候補する貴族が現れる見込みは薄かったからだ。
しかし忠義者がいないわけでもない。
そういった家に年回りの良い娘が生まれればマドレーヌとの婚約は解消され、ルネには次の婚約者を宛てがわれるはずだった。
だが残念ながらそういう家に女児が生まれたのは、つい先年のことだったのである。
マドレーヌは年上でルネと八つ離れており、その娘は年下でルネと十四離れていた。
十四の歳の差も、政略結婚や訳ありの娘が後妻に入るならばなくはない。
だが十四歳差の娘との話に、ルネは「その子が可哀想だよ」と首を振った。
その時、マドレーヌは二十二歳。
もうこの国では嫁き遅れの歳と言われるようになっていた。
ルネが新しい生贄となる娘に同情を向けたことでマドレーヌは解放される機会を失ったが、その時には内心で安堵した。
それは、嫁き遅れてしまったマドレーヌについて王と宰相の間で密約があったからだ。
ルネとの婚約を解消したとしても、年齢が高くなってしまったマドレーヌは初婚の男に嫁ぐことは難しかった。
まずマドレーヌと年回りの良い身分の釣り合う男は通常は既婚者で、婚姻がまだであっても婚約者がいる。
そこに愛妾として割り込ませることも、父親程の歳の男の後妻に納まることも、生贄の娘は最後まで生贄かと言われかねなかった。
ひいては王家は生贄になった娘に何も報いぬと、王家の面目にも関わることだった。
王妃とその門閥は目障りだった宰相の娘が落ちぶれることを喜ぶだろうが、彼らを喜ばせることにしか寄与しない結果など他の誰にとっても良くはない。
王の心が王妃から離れなかったならと周りの者は思っていたが、もはや寵姫とその子らを憎む王妃の心を救う手立てはなく、その憎しみを王が目の当たりにして心の距離を開ける悪循環しかない。
マドレーヌ自身は嘲笑に耐えることを含めて格下の家や次男三男に嫁ぐのでも良かったが、生贄の娘として王妃と宰相の対立の矢面に立っていた彼女を格下の者では守り切れぬかもしれないという問題があった。
そういうわけで、マドレーヌには、婚約解消をした後の行先がなかったのである。
あらかじめわかっていたその問題について、マドレーヌが二十歳を越えた時、王は王太子セルジュも納得の上でのことと提案した。
婚約解消した後のマドレーヌを王太子の寵姫にしようと。
王妃は憎しみに目が眩んでしまったが、その子であるセルジュは聡明に成長した。
マドレーヌが嘲笑されるような立場になっては、忠義厚い誠実な者ほど王家から心を離してしまうだろうと判断できるほどには。
そうならないように、マドレーヌに報いなくてはならない。
その時にはもうセルジュには婚約者がいたため正妃にする約束はできなかったが、貴族の愛妾とは違い王や王子の寵姫は通常は羨まれこそすれ蔑まれる立場ではないので、そうであればセルジュの寵姫にすることが最もマドレーヌの安全と立場に良いだろうとなったのだ。
そしてマドレーヌが二番目の立場を良しとせず正妻となることを望むなら、まだ婚約をしていない……つまりマドレーヌから見たなら大分年下の良い家柄の令息を側近に取り立て、その褒賞という形でゆくゆく寵姫マドレーヌを正妻として下賜する計画だった。
さてこの密約通りになるならば、マドレーヌはルネとの婚約解消後にはセルジュの寵姫である。
年嵩の貴族はマドレーヌの献身に王家が報いるために寵姫の立場に迎えたとして、それは王家の誠意でありマドレーヌの誉として考え、悪いこととは思わない。
それぞれの名誉は保たれる。
しかしマドレーヌは憂鬱な予感を持っていた。
セルジュの正妃となった令嬢はどう思うだろうか。
マドレーヌがそうであるように、高位の貴族令嬢は親に言われるがまま嫁ぐ。
だが幸せになりたい気持ちは、誰しもある。
そして、ルネに次の婚約者候補の娘が生まれた時、セルジュは年回りの良い令嬢と婚姻したばかりだった。
王家とその生贄の娘の名誉のためと言えど、婚姻してすぐに寵姫が迎えられるのはいい気分ではあるまい。
せめてもう少し時が経ってから……とマドレーヌも願っていたのだ。
そして、それから一年。
事態は急転した。
王妃の急逝という形で。
◆◆◆
たった一年か、されど一年か。
そして服喪の期間が半年。
去年よりはましだろうかと、マドレーヌは前向きに考えることにした。
「クルージエの娘マドレーヌよ、そなたの献身によって我が子ルネはきっと幸せを得られることだろう。その献身に報いねば、王家は謗りを免れぬ」
王の御前でマドレーヌは腰を深く落として礼をし、楽にするように言われた後、ただ王の言葉を聞いていた。
小さな謁見室で直接言葉を賜るだけでも、ただの令嬢には破格の扱いだ。
「マドレーヌよ、そなたの身は王太子セルジュの預かりとする。速やかに支度をして、王城に上がるように。王太子セルジュよ、そなたに献身の娘マドレーヌを授けよう。睦まじく過ごし、王家の者としてマドレーヌの願いを叶えるように」
王妃が急逝して半年が過ぎ、国中が喪に服す期間が終われば、人々には日常が戻ってきていた。
権勢を誇っていた王妃の一門が急に落ちぶれることはないが、王妃なくして前のように好き勝手はできない。
王太子に宛てがわれた妃は、王妃の息のかからぬ家から選ばれていた。
こんなに早く王妃が病に倒れるとは誰も思っていなかったので、王の意向で王妃の一門の権力を削るように王太子の周りは固められていたからだ。
これからゆっくりと前の王妃の一門は力を失っていく。
王族の服喪の期間は一般よりも長いので、だいぶ先ではあるけれど、ルネの母である寵姫はいずれ正妃の位を得るだろう。
分不相応な願いを持たなければ寵姫の一門もそれまでの労苦を報われ、それなりの立場が得られるはずだった。
聡明な王太子は後ろ盾が弱まるけれど、マドレーヌを寵姫に迎えれば、過去に幾度も宰相を出してきた宰相家であるクルージエがそれを補完する。
いずれは王太子が自らの力と人望で人々をまとめ、クルージエの力も要らなくなれば寵姫マドレーヌも不要になる。
その時には望めば家臣の誰かへの褒賞として、マドレーヌは下賜されるだろう。
人生の半分以上を王家に捧げるマドレーヌの最後の家となる場所では、マドレーヌが後妻として老齢の男に嫁いだり、夫に粗雑に扱われぬようにするという約束だ。
だからおそらくはルネよりも若い夫に嫁ぐことになるが、それはそれで夫は愛妾を持つであろうから悋気を起こさぬようにと――これが誰にも不幸のない形なのだと、マドレーヌは父親に諭されていた。
これでセルジュが正妃を重んじ、マドレーヌが形だけの寵姫になれば、無用な正妃と寵姫の間の争いもない。
ただマドレーヌにはこの先のどこを思っても、己の幸せは見出せなかった。
未来を思い過去を思い、無邪気に無邪気なルネの子守りをしていた十年ほども前が、マドレーヌの一番幸せだった時だったような気がした。
しかし貴族の娘ならば、望まぬ未来も当たり前なのかもしれなかった。
「国王陛下の御心、ありがたく存じます」
マドレーヌは顔を伏せ、もう一度深く腰を落とした。
◆◆◆
マドレーヌは命じられた通り、速やかに支度をして王城へと上がった。
肉親として他の者より長く、まだ母の喪に服す王太子に慶事は行えないが、寵姫はただの愛妾だ。
婚姻の儀式はないし、そのための披露目もない。
めでたくはないので大丈夫だということのようだった。
そうかめでたくはないのかとマドレーヌも思ったが、もうどうでもいい気がしていた。
マドレーヌは王城の中、代々王や王子の寵姫の使う部屋の一室を与えられ、侍女に綺麗に洗われて夜を待つ。
初夜はあるようだった。
まるきり形だけというわけにはいかないようだ。
ルネとは先日に顔を合わせた後には一度も会わないままに、今日を迎えた。
煌めくように美しい少年王子の新しい婚約者の選定は、難航しているらしい。
今までルネを支え助けるために婚姻の相手に立候補する者はあの十四歳下の生まれたばかりの娘しかいなかったのに、王妃が亡くなって寵姫がいずれその地位に繰り上がるとみるやルネの婚約に多くの家と娘が殺到しているのだ。
マドレーヌには聞こえないように周りが配慮はしているようだったが、あからさまに八歳年上のマドレーヌはルネに相応しくないと蔑まれているのは本人にも察せられた。
速やかに王城に上がるようにという王の命は、マドレーヌが愚かで浅慮な者の手で排除されてしまわないようにという考えからでもあった。
今までは王妃一門からの危険があったが、彼らには立場的に大っぴらにしないくらいの知恵はあった。
暗闘は激しかったが、足がつくようなことはしなかった。
だがマドレーヌを疎む者が急に増えれば、数の暴力というものが発生する。
そして愚か者の行う行為は、愚かであるが故に予測が立て辛いのだ。
悪意はないのだと、そう信じられたから、諦めを胸に抱いて嘆くことなくマドレーヌも幸せにはなれない未来への一歩を踏み出そうとしていた。
王城に住まう部屋を持った、その最初の夜は更けていき……そして、夜半近く、静かに、扉が開いた。
「マドレーヌ」
聞き慣れた声に呼ばれて、マドレーヌは動揺していた。
ここにはいてはいけない人の声だ。
「ルネ殿下」
そちらを振り向いて、更に動揺する。
ランプのほのかな灯りの中に立っていたのは一人ではなかった。
セルジュとルネが並んで立っていたのだ。
「王太子殿下も……何故」
「マドレーヌ、君は私の寵姫になりたいか?」
自らランプを持ったセルジュが問う。
呆然と寝台に腰かけていたマドレーヌは、セルジュの問いにはっとして立ち上がった。
薄い寝間着一枚の姿だったが、マドレーヌは王太子を礼を尽くして迎えねばならない立場だった。
「申し訳ございません、わたくし」
寝間着姿でも膝を折り腰を落とすのだろうかと思いながら、自分があまり閨の作法を知らないことにマドレーヌは今更ながらに気が付いた。
「顔を上げてくれ、マドレーヌ。そして答えてほしい」
マドレーヌは顔を上げたが、すぐには答えられなかった。
何に、そして何を答えるのかがわからなかった。
マドレーヌは愚かではないつもりだったが、実は自分は愚かだったのかもしれない気がした。
「君は私の寵姫になりたいか?」
なりたいかなりたくないかなど、考えたこともなかったからだ。
思えば、ならなければならぬと諭されたことすらない。
父親に諭されたのは、マドレーヌが王太子にとって不要になった後の話だった。
寵姫になることは決まったこととして、意思の確認などされたことなどなかった。
侍女や従者の噂話を漏れ聞いて、きっと悪意を以て定められたことではないのだろうと自分だけで納得して嘆くべきではないと終わらせたことだった。
それがここに来て、この寝台の前で、訊かれるなどと誰が思うだろうか。
「私は君の王家への献身に報い、君の願いを叶えるように父王陛下に命を受けた。であれば、これが君の願いでないのなら、私は初手から誤ってしまうことになる。そんなことでは君の願いを叶えることなどできようか。なんと答えようとも、ここには君の言葉を咎める者はいない。なので正直に答えてほしい」
王太子が聡明であるとは聞いていたが、その評判は正しいものだったのだとマドレーヌは思った。
この聡明な人であれば、このままマドレーヌが寵姫になったとしても、きっと正妃と寵姫の間に諍いを起こさぬように自分を扱えるのだろうと。
今、マドレーヌがセルジュの寵姫になりたくなかったと言ったとしても、マドレーヌの立場がセルジュの寵姫というもの以外になる未来は考えられなかったが、ここで望まぬと告げて形だけの寵姫となることは可能なような気がしてきた。
婚姻して一年と少しで夫の王太子が年増女を囲うなどという不名誉を与えられる彼の正妃とも、あくまでも形だけとして諍いを防ぐことができよう。
今しかないのならば、答えねばならぬ。
「わたくしは」
この場にルネのいる理由は未だマドレーヌにはわからなかったが、マドレーヌは言わなくてはならないと口を開いた。
「王太子殿下の寵姫になることを望んではおりません」
緊張で口の中の乾きを感じながらも、マドレーヌは言い切った。
「なので――」
王太子妃のためにも閨は共にせぬ形だけの寵姫でありたいと、そう続けようとした時。
「兄上」
喜びに満ちたルネの声が王太子を呼んだ。
「ああ、マドレーヌが望まぬのなら、おまえの言う通りにしよう。だが私に与えられた命はマドレーヌの願いを叶えること。やはりマドレーヌが望まぬならば、力は貸さぬ。私はおまえに機会を与えるだけだ。願わせるのはおまえの力だからね」
「わかっています。僕の願いが叶ったあかつきには、お約束も果たします。けして兄上に損をさせたりはいたしません」
あらかじめ、ルネとセルジュの間には何か約束があったのか……と、続けようとした言葉を遮られたマドレーヌは、そう思いながら聞いていた。
それはマドレーヌに関わることのようだったが、なんなのかわからなかった。
やはり自分は愚かなのだろうかとマドレーヌは、僅かな困惑を感じていた。
「おまえの願いが叶うことを祈っていよう」
ランプを持ったまま、セルジュは踵を返した。
「あ……」
ルネを残したまま。
このままでは寝室にルネと二人きりになってしまうし、話は終わっていないつもりだったから、マドレーヌはセルジュを追って呼び止めようとした。
「マドレーヌ、聞いて」
だがそれをルネが遮った。
伸ばしかけた手を掴み、ルネは己の方にマドレーヌを引き寄せた。
青年のセルジュと比べればまだ華奢な少年の体付きではあるが、令嬢のマドレーヌではルネの力には抗えぬ。
「マドレーヌが望むなら、兄上は僕にマドレーヌをくださると言ってくれたんだ」
「ルネ殿下に……わたくしを?」
ずっとルネに次の婚約者ができるまで、クルージエ家がルネを支援する口実のための婚約でしかないと思い続けてきたから、マドレーヌにはルネの言葉は急には呑み込めなかった。
「これから兄上の立場にクルージエ家の支援が必要なこともわかるよ。だからマドレーヌを得られたなら、僕は生涯全面的に兄上に協力し続けることを誓った。クルージエ家は王家に忠誠を誓う家柄なのだから、僕と共に兄上を支えるという形でも問題ないはずだ」
それは問題はないだろうと、マドレーヌも思う。
貴族的な駆け引きと建前的に、支援の理由があった方がいいだけだからだ。
そしてそれは必須でもない。
「僕と婚約していた年月、マドレーヌが王家の生贄であったと僕は思いたくないけれど、誰もがそう言うのならそうなんだろう。だけど兄上を支援するため、王家の名誉を取り繕うためにマドレーヌを兄上の寵姫にするのなら、やっぱりこれからもマドレーヌは生贄じゃないか。そんなもの、褒賞じゃない。褒賞のふりをしているのが、もっと悪い」
「ルネ殿下……」
「どうせマドレーヌが生贄であり続けるのなら、僕が相手でもいいはずだ」
マドレーヌには、セルジュの寵姫になることもまた王家を支えるためのことだと、それを褒賞に見せかけていることにルネが憤慨していることはわかるけれど、ここでまた急にわからなくなった。
相手というのは、寵姫になる相手だろうかと、マドレーヌはぼんやり思う。
確かにセルジュの寵姫でなくても、ルネがセルジュに従い協力するならば、マドレーヌはルネの寵姫になってもいいだろう。
しかしこれから正妃になる予定の婚約者を選ぶ前に、寵姫を持つのは如何なものかと思う。
「ですがルネ殿下、ご結婚なさる前に寵姫を持っては、婚約者選びが難航すると思います。その、一般的な貴族の令嬢は、先に愛人や妾がいる男性の正妻に嫁ぐことは嫌がりますので」
嫌だからと言って思い通りにはならないが、ルネの正妃になる令嬢には嫌がられることは間違いない。
けれどルネは首を振った。
「そんなもの、選ばないから問題ないよ」
「え、選ばなくては」
「本当なら、僕はマドレーヌとそのまま結婚したかった。それを僕に確認もなく、勝手に婚約解消したのが悪いんだ。もう婚約者ではなくなってしまったと言うなら、僕も今はあなたを寵姫にするしかない。僕と兄上のどちらがいいかは、マドレーヌに選んで貰うしかなかったんだけど……兄上の寵姫になることは望んでいないと、マドレーヌは言ったでしょう?」
「それは……そうです。だって、王太子妃殿下がお気の毒ですもの。まだ結婚したばかりなのに、王太子殿下が寵姫を迎えてしまっては、今度は王太子妃殿下の名誉が傷付けられます」
「マドレーヌは優しいね」
ぎゅっとマドレーヌの手を握る、ルネの手に力が籠る。
「では、僕でいいでしょう? 義姉上も悲しまない。兄上も困らない。僕も望んでいる。父上は僕に年回りの合う娘を娶らせたがっているけれど、僕が婚約者とは別に寵姫を持ちたいのなら構わないと言っていたよ」
「国王陛下もですか?」
ルネは肩を竦める。
「それがマドレーヌだとは言わなかったし、婚約者を選ぶ気がないとも言ってないけど。でも年の差だけでマドレーヌを駄目だと言うなんておかしい。それに寵姫から正妃にするのもよくあることで、父上は母上をそうするんだろうから、僕だけがいずれマドレーヌを正妃に繰り上げられないというのもおかしい。なら、婚約者は要らないでしょう?」
王はマドレーヌのことは片付いたと思っていて念頭になく、溺愛するルネが望むなら叶えようと言っているだけだとマドレーヌにも察せられた。
王の意向に沿わないなら、セルジュもルネも叱られて、話が変わってしまいそうな気がした。
「国王陛下がお認めになるのなら……」
しかし今はそう答えておくべきかもしれないと、マドレーヌは俯いた。
「マドレーヌ! ありがとう、マドレーヌ」
抱き締められて、気が付けば口づけられていた。
マドレーヌは初めてのことで恥ずかしさに目が回り、何度も繰り返されているうちに何もわからなくなった。
やがて口を塞がれる息苦しさから解放されると、ルネに腰かけるように促されて、奇妙な口づけの疲れに休まなくてはとマドレーヌは腰を下ろした。
ただ、そこが寝台だったことをすっかり忘れていたけれど。
「い……いけません、ルネ殿下」
はっと気が付いた時には押し倒されていた。
「わたくしは今は王太子殿下の」
「兄上の寵姫だってこと? 大丈夫だよ、王家の歴史では複数の王子に共有されていた寵姫だって何人もいたからね。子どもの決まりは「父親が認めたら」だろう? そういうことなんだよ。兄上が認めていれば、僕がマドレーヌを抱くのは今でも何も問題ないんだ。そして兄上があなたを僕にくれるために出した条件は、マドレーヌが望むなら、だ。同意の上で閨を共にして……」
押し倒したマドレーヌの上で跨り、美しいルネは妖艶に告げた。
その時、初めてルネの腰のベルトにロープがかけてあったことにマドレーヌは気が付いた。
「あなたが自ら僕を求めるようにすることが条件だった。兄上はマドレーヌの願いを叶えなくてはならないのだからね。マドレーヌが望んでくれなくては、あなたは僕のものにならない」
腰のロープを外し、両手で扱くように伸ばすルネの妖艶さにマドレーヌは呆然となる。
「これから、あなたを調教するよ……マドレーヌ」