二 幽霊
この部屋に居ると、日にち感覚がなくなっている気がする。検診があるからまだわかっているが、なかったらきっと半日でも一日二日経っている気がする。
検診のおかげでちゃんとわかっている。今日は目覚めてから三日目だ。いまだに体の冷えは続いている。だけど、その事を人にまだ言えていない。
時間や機会が無いわけではない。ただ、これを言っても良いものか判断がつかない。俺の頭がイカれていると言われたら、多分立ち直れない。
そんなわけで、今日も今日とて誰にも言わずに、発声練習だけしている。
この部屋は関係者以外入れないらしいから、話し相手もいない。なので、一人であーあー言うしかないのだ。
「あーーーー」
正直なところ、もう普通に話せるところまで来ている。筋肉も落ちているわけでは無いようなので、動くっちゃ動く。
そんな人間が思うことはたった一つ。
暇である。
これだけである。
いや、もう本当にやることがなさすぎる。健全な若者としては、外を歩きたいし、人と話したい。
医者さえ許してくれればな。もう自由に散歩しちゃうよ。カラオケとか行っちゃうよ。遊んじゃうよ。
一般病棟にはいつになったら戻れるのだろう。先生はすぐだよって言ってたけど、そう簡単に行けるのだろうか。謎だ。
あまりにすることがなくて、延々に足をバタバタとさせることしかすることがない。どうやらこれも筋肉低下を防ぐのに繋がるらしく、高齢者がやったりするらしい。
俺はじいさんと同列か。悲しすぎる。まだ若いぞ。
「ねえ。」
こんなところで人の声がするのも珍しい。看護師さんだろうか。でも、聞いたことのない声だ。
なら幽霊か。あり得そうで嫌だな。俺、ホラー系苦手なんだよな。うん、大丈夫、きっと幻聴だ。やることがなさすぎて、とうとう幻聴まで聞こえるようになったんだ。
「ねえってば!」
「やっぱり聞こえるー!」
怖い怖い怖い、え、ちょ、振り返らんとこ。幽霊とか勘弁してくれ。怖いよ、おかあさーーん。
「無視しないでくれない。」
「目の前に来てるうう!」
幽霊め、どんな手を使った!半透明の女がいるよお、こわいい!瞬間移動か!
「あなた、最近変わったことない?」
「今まさにこの瞬間ですが!」
「なんでよ。」
いやいやいや、幽霊と話すとかどんな奇跡だよ。俺に霊感とかそういうのは存在しない筈なのに!
「そういうのじゃなくて、あなたの体になにか異変はないかって聞いているの。」
「……へ?」
もしかして、この女の人は怖い人じゃないのかな。いい人なのか。俺の心配をしてくれているし。…話してもいいかもしれない。
「…最近、体が冷たい。多分表面体温は変わっていないと思う。」
幽霊だし、話したところで問題にならないだろう。なんか病気だったら怖いけど、幽霊はそんな風じゃないから平気だろう。
「……それ、誰かにもう言ってしまった?」
なにやら眉を潜めている。よくない状態なのか。もしかして本当に病気なのだろうか。
「いや、言ってない。」
そういうと、安心したように息を吐いた。
「絶対に人に言わないで。相手が私みたいに聞いてこない限り、絶対に。」
なにか鬼気迫る感じだ。言ってしまったら、なにかよくないことが起こると、全身から発している。
思わず頷いた。
その瞬間、幽霊は満足そうに笑った。俺の反応は正解だったらしい。
「約束してね。ただ、それを話した途端にあなたを付け狙う可能性がある人もいるから、そこは感覚で逃げて。」
「は?」
「頑張れ。」
「いや無理でしょ、どんな無茶ぶりだよ!」
「大丈夫、できるよ。」
そういうと、幽霊は徐に近づいてきた。よくよく見ると、端正な顔立ちをしている。幽霊じゃなきゃ、惚れていたかもしれない。
「あなたに幸多きことを。」
幽霊はそう言って、俺の左手をとり、小さく口づけをした。
「え、いや、なにしんの!?」
慌てる俺を気にした様子もなく、顔を離すと、よし、と呟いた。なにをしてるのか、俺の年じゃこんなことされたらテンションがぶち上がってしまうよ!
「手を見て。」
「無視か!」
冷静な反応につい突っ込みを入れてから、言われた通りに下を見る。触られた手が光っている。
手が光っている。
「どういう原理!」
「これであなたがこっち側だっていう印をつけたわ。」
「どういうことなの!」
もうさっきから叫んでばかりいる気がする。幽霊はさっきから気にした様子はない。
「それじゃ、気を付けてね。また会いましょう。」
そう言って、彼女はすうっと空気に溶けた。
「…なんなのか説明していってくれよ。」
残されたのは、なぜか手がピカピカした俺だけ。結局、なんだったのか。何に気を付ければ良いのか。なにもわからない。
「もーー!なんなんだ!もう知らん、寝る!」
いくら考えてもわからなそうなので、仕方がないからふて寝をすることにした。
――――――
全てが白い病室に、光が差し込む。窓からの太陽光は、一人の女に注がれる。光を受ける女は、ベッドに座っている。白の中に映えるぬばたまの髪が、彼女が動く度にさらさらと流れる。
女は、ふっと目を開くと小さく頷いた。双眸には、なにも映らず、漆黒が刻み込まれている。静かに佇むその姿は、今にも消えてしまいそうで、ひどく不安げだ。静寂が部屋を支配する。
「失礼しまーす。検診の時間でーす。」
がらりと扉が開き、看護師がカートを押しながら入ってくる。
その瞬間、空気が弾けた。
女は、パッと顔をあげると、「はーい」と、えらく可愛らしい声で返事をした。