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君の屍が視える  作者: 紫音みけ
第一章
5/20

5.僕の心臓をあげる

 


 店の外に出て左右を見渡すと、車道に沿って伸びる石畳の先に、彼女の後姿を見つけた。

 長い黒髪を振り乱しながら、一心不乱に走っている。


 日はすでに没したようで、薄暗い街中には街灯の光がぽつぽつと灯り始めていた。


「待ってよ!」


 必死に張り上げた僕の声は、車の音に掻き消されてしまう。


 いくら叫んだところで、彼女の足が止まることはない。


 僕は彼女の鞄を抱えたまま、遠くに見えるその背中を追って駆け出した。




 大きな交差点に差し掛かると、彼女はそこに架かる歩道橋の階段を上った。


 彼女との距離を徐々に縮めながら、僕も数秒遅れでそこを上る。


 嫌な予感がした。


 高い場所――それも真下ではたくさんの車が往来する交差点。

 この場所から、もしも彼女が飛び降りでもすれば、助かる可能性はゼロに近い。


 僕はさらにスピードを上げ、息を切らしながら二段飛ばしで階段を駆け上がった。

 最上段に着き、そこから真っ直ぐに伸びる歩道橋の先を見る。


 すると視界に飛び込んできたのは、手すりの縁に片足をかけ、今にも車道へ飛び込まんとしている彼女の姿だった。


「駄目だって!」


 僕はすかさず駆け寄り、彼女の上半身を捕まえた。


 しかし。


「離してください!」


 彼女は泣きそうな声で叫び、イヤイヤと全身をばたつかせた。


「どうして私の邪魔ばかりするんですか。あなたには関係ないでしょう!」

「確かに、僕は赤の他人かもしれない。けれど……放っておけない」

「人助けのつもりですか!? 自殺なんて馬鹿げてるって……死んでも何にもならないって、そう言うんでしょう。みんなそう言うんです!」

「ああそうだよ。死ぬなんて馬鹿げてる」

「っ……!」


 手すりから身を乗り出したまま、彼女は首だけをこちらに振り返らせた。

 涙に濡れた美しい瞳が、僕の目を射抜く。


 きっと、あらゆる感情が彼女の胸を締め付けていたのだろう。

 けれどその感情を上手く言葉に出来ないのか、彼女は悔しそうに唇を噛んでいた。


 そうして数秒の沈黙の後、彼女は斜めに視線を逸らして言った。


「……どうせっ……どうせあなたも、私を愚かだと思っているのでしょう。死んだ人間の後を追うなんて、意味のないことだって……!」


 まるで自分自身を追い詰めているかのようだった。

 その発言の内容を聞く限り、やはり彼女は死んだ父親の後を追おうとしているのだろう。


「正直、愚かだとは思うよ」


 僕は率直な感想を口にした。


「さっき君が言った通りだよ。死んだ人間の後を追うことに、意味なんてないと思う。でも……君の気持ちもわかるつもりだよ。僕も、同じだったから」


 僕がそう言うと、彼女は不可解そうに眉を顰めて、ゆっくりとこちらに視線を戻した。


「僕だって、許されるなら母さんの後を追いたかった。母さんが死んだとき、最初は僕も自暴自棄になって、自分も死んでやろう、なんて思ってた。でも……できなかった。母さんの気持ちを考えると、そんなことは許されないんだって、思ったから」

「お母さんの……気持ち?」


 彼女は掠れた声で言った。

 少しだけ、こちらに興味を示したように見える。


 今なら少しは話を聞いてもらえるかもしれない――そう思って、僕は続けた。


「僕の家は、母子家庭だった。父親は僕が赤ん坊の頃に蒸発して、それからずっと、母さんが女手一つで僕を育ててくれたんだ。家計はいつも苦しかったし、つらいことも色々あったと思うけれど……それでも母さんは、最後まで僕を大事にしてくれた。自分の身を削って、自分の時間を割いて、そのすべてを僕に捧げてくれたんだ。……だから、そんな風に育ててもらった僕がもしも自殺なんかしてしまったら、母さんはどう思うと思う? それまでの苦労が、すべて水の泡になってしまうんだよ。母さんの必死の思いが、すべて無駄になってしまうんだ。……そんなのは、僕自身が許せなかった」


「…………」


 手すりに掴まったままの少女は、黙って僕の声を聞いている。


 僕の言葉は、少しでも彼女の心に届いているのだろうか。


「君だってそうだろ。君がそれだけ父親のことを思うってことは、君の父親も、君のことをずっと大切にしてきたはずだ。その思いを、君は無駄にしてしまうのか?」


「……。……私は……」


 そう、彼女が何かを言いかけたとき。


 頑なに手すりから離れようとしなかった彼女の身体が、突如としてこちらに倒れかかってきた。


「! おわっ……!」


 突然のことに、僕は対処しきれなかった。

 そのまま後ろへ転がるようにして、僕たちは歩道橋の上に倒れ込んだ。


 僕は仰向けで大の字になり、その上に彼女の華奢な身体が覆い被さる。

 薄手のカーディガン越しに、やわらかな肉の感触と、確かな体温とが伝わってきた。


 まだ、生きている。


「……どうして」


 彼女は上半身だけを浮かせると、至近距離から僕を見下ろした。


「どうして、今の今になって……そんなことを言うんですか」


 消え入りそうな声で、彼女は言った。

 その麗しい瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。

 時折、僕の頬にもその滴が落ちてくる。


 そんな目の前の光景に、僕は半ば以上に心を奪われていた。

 こんなに近くで女の子の涙を見たのは初めてだった。

 そして、こんな状況下で不謹慎かもしれないけれど……美しい、と思わざるを得なかった。


 死の淵に立って涙を零す一人の少女が、こんなにも美しいとは思わなかった。


 しかしここまで盛大に泣かれてしまうと、次第に罪悪感のようなものが湧き上がってくる。

 そして、不安に思う。


 やはり僕は、彼女の心を傷つけてしまったのだろうか、と。


「えっ、ちょっと何あれ。何してんの?」


 そこへ、複数の戸惑うような声が届いた。


 声のした方を見ると、ちょうど階段を上ってきたらしい若い女子グループが、こちらを警戒するように眺めていた。

 やめよう、戻ろう――と、女子グループは慌てて階段を下り始める。


 どうやら変な誤解をされたらしい。

 夕闇の中、歩道橋の上で、若い男女が身体を重ねている――なんて。

 情事の最中だと思われたかもしれない。


 僕に覆いかぶさっていた彼女は、どこか気まずそうにふいと視線を斜めに逸らした。

 さすがに恥ずかしかったのだろうか。


「……すみません。もう、行きます」


 彼女はそう言うと、ゆっくりと僕の身体から離れていった。


「どこ行くの?」

「家ですよ。……帰るんです」


 本当だろうか。

 今の今まで自殺を図ろうとしていた女の子が、このまま無事に家までたどり着けるだろうか。


「本当に?」


 僕はその場に立ち上がって、その真意を確かめるように聞いた。


「本当です」


 そう言って、彼女はこちらに背を向けた。


 その全身を見る限り、確かに今、死相は消えている。

 よろよろと歩き出した彼女の身体は、ちょっと足元が覚束ない様子ではあるものの、五体満足で、どこにも怪我をする予定はないように見える。


 けれど油断はできない。

 彼女の自殺は口先だけのものではない。


 電車の駅でも、校舎の屋上でも、彼女は僕の目には死体として映っていた。

 それはつまり、彼女には本当に死ぬ気があったということだ。

 死んでやる、死んでやる、と言っていつまでも死なないような、口先だけの人間とはわけが違う。


「本当に、大丈夫?」


 しつこいと承知で、僕はもう一度聞いた。


「何度聞けば気が済むんですか」


 案の定、彼女は不機嫌な様子でこちらを振り返った。


「だって嘘っぽいから」

「じゃあ、どうすれば信じてくれるんですか?」


 意見を求められて、僕は悩んだ。


 一体どうすればいいのだろう。

 いくら口では大丈夫だと言われても、やはり不安は残ってしまう。

 このまま僕が目を離せば、彼女は一人でひっそりと死んでしまうような気がする。


「……明日」

「え?」

「明日また、ここで会えないかな?」


 苦し紛れに思いついたことを、僕は口にした。


「明日、ここでまた会おうよ。もしも君がここに来てくれるのなら、僕は、君がまだ生きているということを確認できるから」

「……本気ですか?」


 正気ですか、の間違いだったかもしれない。


「もし、私が来なかったらどうするんですか?」


 彼女は不可解そうに僕を見る。


「君が来るまで、ここでずっと待ってる。だから君がもし来てくれなかったら、僕はそのままここで凍死するか、餓死するかもしれない」


 そんな僕の発言に、彼女は今度こそ呆れたように溜息を吐いた。


「一体何を言っているんですか? 私が来なかったら、あなたは死ぬんですか? 赤の他人であるあなたが、見ず知らずの私のために?」

「もう他人じゃない。少なくとも僕はそう思ってる」

「な……」

「僕の命は、君に預ける。僕の心臓を、君にあげるから」


 そんな突拍子もない僕の発言に、彼女は戸惑いの色を隠せないようだった。

 きっと、僕に対して色々な警戒をしているのだろう。


 一体どうすれば、僕はもっと彼女の心に近づけるのだろう? ――そんな考えを巡らせたとき、はた、と大事なことを忘れていたことに気づいた。


「そういえば、まだ名前を言っていなかったね。……僕は、守部もりべ 結人ゆうと


 僕が唐突に自己紹介をすると、不意を突かれたらしい彼女はきょとん、として、何度か目を瞬いていた。


 さすがに急すぎたかもしれない。


 けれど、ここで話を終わりにするわけにはいかない。


 そのまま黙り込んでしまった彼女に、


「君は?」


 と、僕は催促する。


 なんて強引なやり方だろう。

 我ながら呆れてしまう。


 けれど、もともとコミュニケーション能力の低い僕には、正しい友達の作り方なんてわからない。


 だから、駄目で元々。

 ごり押しでやり通すしか道はない。


 僕は彼女と関わってしまった。

 だから、もう引き返すことはできないのだ。


「……たちばな 逢生あい、です」


 と、彼女は意外にも素直に名前を教えてくれた。


「橘さん、か」


 ちょっとした達成感を味わいつつ、僕は呟くように言った。


「別に、呼び捨てでいいですよ。あなたの方が年上っぽいですし」

「そう? じゃあお言葉に甘えて、逢生」

「……なんで下の名前なんですか」


 そう言った彼女の声色は、心なしか、小さく笑いを含んでいるようにも聞こえた。




 そうして約束を交わした僕らは、二人並んでバス停の方へと向かった。


 家まで送ろうかと聞くと、あっさり拒否された。

 まあ、これは仕方がない。

 少し心配ではあるけれど、見送りは乗り場までにする。


「それじゃあ、また明日」

「…………」


 彼女は返事こそしなかったものの、こくん、と小さく頷いてくれた。


 明日また、彼女と会える。

 そんな予感が僕にはあった。






       〇






 彼女を見送った後、僕はすぐさま近くのトイレへと急いだ。

 実はもう我慢の限界だったのだ。


 十一月を目前に控えた夜の街。

 冷え切った風は僕の全身を刺すように撫でる。

 だから当然、トイレも近くなる。


 なんだか一仕事を終えたような気になりながら、僕はトイレの入口を潜り、さらに水道の前を通り過ぎしようとした。


 そのときだった。


「――……」


 悪寒のようなものが、走った。


(何だ?)


 何かが、視えた。

 視界の端に、それは映り込んでいた。


「…………」


 赤い、何かが視える。


 僕は一度立ち止まって、ゆっくりと水道の方へと視線を向けた。


 水道のすぐ上には、大きな鏡が取り付けられている。


 そして、その中央。


「あ……」


 鏡には、僕の顔が映っていた。


「なんで……?」 


 そこに映っていたのは、確かに僕の顔だった。

 けれど、今現在のものではない。


 そこにあったのは、血まみれになった僕の顔。

 頭から血を流し、顔全体にもひどい擦過傷を作っている。


 およそ七日以内に実現することになる、未来の姿――まぎれもない僕の屍が、そこに映っていた。



 

第一章 (終)

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