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3.君との奇縁

 


       〇




 教えられた住所は、駅からバスで十分ほどの所だった。

 街の中心からはそれほど離れてはいなかったけれど、だからといって人気の多い場所ではなかった。

 山際の、緩い斜面になっている辺り。

 立派な一軒家が点在している一帯だった。


 ちょうど山の陰になる場所だったので、日が落ちた後のそこは深い闇に包まれていた。

 舗装された道の片側には街灯が等間隔で並んでいるものの、その合間合間では何も見えない黒い空間が存在する。


 時折、聞いたことのないような獣の声がする。

 鳥だろうか。

 山の上から、何かを警告するようにゲエゲエと鳴いている。


 そんな薄気味悪い道を、僕は一人で歩いていた。

 たまに足が何か硬いモノを踏みつけたりするのだけれど、道端に何が落ちているのか、暗すぎて肉眼では確認できない。

 人の死体でなければいいのだけれど――なんて、つい余計なことまで考えてしまう。


 やがて道の先に、一際大きな日本家屋が、ぬっと姿を現した。

 築数十年は経っていそうな、瓦屋根の一軒家だった。


「ここ、かな……?」


 スマホの地図アプリを何度も確認し、やはりここで間違いない、と確信する。


 木製の柵で閉め切られた門の横には、『橘』と書かれた表札があった。


 ここに、逢生ちゃんが住んでいる。


 つい勢いでここまで来てしまった。


 けれど、いざインターホンを押そうという段になると途端に迷いが生じた。

 こんな時間に、いきなり訪ねて良いものなのだろうかと。


(でも、住所を教えてくれたってことは……来てもいいってことだよね?)


 自分自身にそう言い聞かせるように問う。

 門前払いをするつもりなら、そもそも家の場所を教えなかったはずだ。

 だから……と覚悟を決めようとしたそのとき、ふと、人の気配を感じた。


 誰かの目が、こちらを見ている――そんな気がした。


 思わず辺りをきょろきょろとすると、一瞬だけ、どこかで視線が合った気がした。


 街灯の光がほとんど届かない場所。

 後方……いや、前方だ。


 木製の柵で閉ざされた、その向こう側。

 橘家の敷地内。


「っ……」


 僕は息を呑む。


 柵の間から、二つの目がぎょろりとこちらを見上げていた。


 想像以上に至近距離から、僕は見られていた。


「どなた……?」


 今にも事切れそうなか細い声で、その人物は言った。

 年配の女性らしかった。


 暗い陰になっている門の向こうを注視すると、闇の中で、ぼんやりと人のシルエットが浮かんでいた。


 腰の曲がった小柄な女性だった。

 家の敷地内にいるということは、逢生ちゃんの家族なのかもしれない。

 おそらくは一緒に住んでいるという、彼女の祖母だろう。


「あ、あの。僕、守部といいます。逢生さんに会いに来ました」

「守部……?」


 暗闇の中で、もぞ、と黒い影が動く。


「守部……、守部……」


 女性はその音を噛みしめるように、何度も繰り返す。


 そして。


「守部……――巴」


 小さく呟かれたのは、母の名だった。


 先ほどの電話でもそうだったが、彼らはなぜ、僕の母の名を知っているのだろう?


「ご……」


 僕が混乱していると、目の前で腰を曲げていた女性は、ぎょろりとした目をこちらに向けたまま、


「ごめん、なさい」

「え?」


 片言で、謝罪の言葉を口にした。


「ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」


 謝罪の声は段々と加速して、そして、やがてぴたりと止まった。


 そうして再び訪れた静寂の中で、どこからか、ケタケタと子どもの笑い声がした。


 僕が後ろを振り返ると、暗い道の真ん中で、こちらに指を差す幼い男の子の姿があった。


「あのおばあちゃん、また謝ってるよお」


 そう言ってにやにやと笑っている男の子の手を、


「早く行くわよ」


 と、気まずそうに引っ張る女性がいる。


 おそらく親子だろう。

 母と息子。

 近所の住民だろうか。

 彼らは二人手を繋いで、帰り道を急いでいるらしかった。


 ――あのおばあちゃん、また謝ってるよお。


 男の子の言葉を聞く限り、こうして目の前の女性が謝罪を繰り返すのは、普段からよくあることなのだろう。

 失礼な言い方になるけれど、とても正常だとは思えない。

 何か、心に病を抱えているのだろうか。


 と、そこへ敷地の奥の方から、ガラリと格子戸の開けられる音がした。


「来たのか」


 続けて届いた声は、聞き覚えのあるものだった。


 先ほどの電話の相手――おそらくは逢生ちゃんの祖父だ。


 土を踏みしめる彼の足音が、段々と近づいてくる。

 やがて暗闇から姿を現したその人物は、大方予想していた通りの年配の男性だった。


「君が、結人くんか」


 低い、警戒するような声で彼は言った。


「何をしに来た」

「え……」


 敵意を剥き出しにした目で、彼はこちらを睨みつける。


「我々を殺しに来たのか」


 そんな物騒な質問を投げつけられて、僕は狼狽えた。


「こっ……殺すだなんて、そんな。そんなわけないじゃないですか」


 一体何を言い出すのか。


「君は、我々を恨んではいないのか?」

「恨む?」


 わけがわからず、僕は固まっていた。


「……やはり君は、巴さんから何も聞いていないようだね」


 再び母の名が出され、僕はさらに混乱した。


「君の母親は、あえて我々との縁を切った。その方が君のためになると考えたからだ」

「僕のため? どうして……」

「それを知るには、再び我々と関わりを持たなければならない」


 至極当然のことを、彼は僕の前に突きつける。


 彼らの話を聞くためには、お互いに意思の疎通を図らねばならない。

 それはつまり、関わり合いになるということだ。


「いいのか? 君の母親はわざわざ君のために、我々との関係を断ったのだよ」


 今まで想像もしなかった母の過去を前にして、僕は固まっていた。


 橘という家系について、僕は何も知らされていなかった。

 母との間に何があったのかはわからないし、どうして縁を切ったのか、その理由も知らない。

 縁を切ったということは、余程のことがあったのだろう。


 せっかく母が良かれと思って切った縁を、ここで復活させてしまって良いのだろうか。


 およそ答えは出ないであろう問題に、僕は頭を悩ませる。


 でも。


「……僕が逢生さんと関わるということは、つまり、あなた方――橘家と関わりを持つということですよね」


 逢生ちゃんは橘家の人間だ。

 彼女と関わろうとすることはつまり、そういうことだ。


 なら、僕の答えは決まっている。


 ――関わりを持つのなら、最後まで。


 脳裏で、母の声が僕を奮い立たせる。


 僕は、逢生ちゃんとの縁を切るつもりはない。


「僕は、あなたたちと関わりたい。逢生さんのことが、心配だから」


 震えそうになる足に力を入れ、僕は言った。


 すると、それまで僕を睨んでいた逢生ちゃんの祖父は、


「……入りなさい」


 と、木製の柵をがらりと開けた。


 そうして暗闇の中で、言った。


「ようこそ、橘家へ」


 

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