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1.死んだ僕らの親

 


「……ただいま」


 バイトを終えて帰宅すると、静寂が僕を出迎えた。

 暗い部屋に灯りを入れると、荒れ放題になった景色がそこに照らし出される。


 投げっぱなしの書類に、散らばった洗濯物。

 キッチンのシンクには洗っていない食器やカップラーメンのゴミが山積みになっている。


 大学に入るのと同時に借りたこの部屋は、一年前まではそれなりに清潔さを保っていた。


 けれど母が入院してからは、そうはいかなくなった。


 母が闘病生活を送る間、僕はここに留まるよりも、病院にいることの方が多かったように思う。

 そうして荒れていくこの部屋を放置していたのが、今もまだ惰性で続いている。


 母の葬儀は、もう済んだのに。


「…………」


 壁際の時計を確認すると、午後七時十五分だった。


 夕食はまだ済んでいない。

 さてどうするか――と考えたとき、ふと、あのカフェのサンドイッチが脳裏を過った。


 昨日、一昨日と、逢生ちゃんと行ったあのカフェ。

 ……といっても、一昨日はただ偶然そこで鉢合わせただけなのだけれど。


 ――私、あの店にはよく行くんです。


 彼女の声が、僕を誘惑する。


 今日も彼女は、あの店を訪れているのだろうか。


「……行くか」


 一度はテーブルの上に放り出した財布を、ポケットに戻す。


 そうして僕はまた、秋風の吹く夜の街へと繰り出した。


 

 



       〇






 店に入ると、捜し人はすぐに見つかった。


 カウンターに一人で座る、髪の長い女の子。


 ちょうど隣の席が空いていたので、僕は迷わずそこへ腰を落ち着けた。


「今日も来てたんだね」

「!」


 僕が声を掛けると、不意打ちを食らったらしい彼女は手にしたコーヒーカップを落っことしそうになっていた。


「ゆ、結人さん……!」


 大きな目をぱちくりとさせながら、彼女は僕を見つめた。


「どうしたんですか。今日は約束してなかったのに」

「いや、君がここにいるんじゃないかと思って。会いに来たっていうか」


 僕が素直な気持ちを口にすると、途端に彼女の表情は強張った。

 そうしてほんのりと頬を朱色に染めたかと思うと、


「め、メニュー、ここにありますよ。何、食べますっ?」


 どこか上擦った声で言った。


 何か、気まずくなるようなことでも言ってしまっただろうか。


「ええと、昨日と同じサンドイッチにしようと思って。それから飲み物は……」


 彼女に見せてもらったメニューに目を落としながら、僕はちょっと迷った。


 ドリンクの欄にはコーヒーとカフェオレとが上下に並んでいる。


(今日こそは、コーヒーにするか?)


 僕が迷っていると、逢生ちゃんはそれに気づいたのか、


「……ふふ。無理して頼まなくていいですよ。カフェオレが好きなんでしょう?」


 そう、ちょっとだけ笑いを含んだ声で言った。


 そして付け加えた。


「コーヒーなら、私のを一口あげますから」


 

 



       〇






 サンドイッチだけでは物足りなかったので、ついでにサイドメニューもいくつか頼んだ。


 それらをすべて平らげてから、僕は改めて逢生ちゃんの横顔を見つめた。


 白くて美しい彼女の肌には、今はもうどこにも死相は現れていなかった。

 昨日まで視えていた大量の血や擦過傷は、もうどこにも見当たらない。


 それはつまり、彼女が死を回避したことを意味している。

 もしかすると、自殺のことも本当に諦めてくれたのかもしれない。


 その代わり、昨日の騒ぎで付いてしまった小さな擦り傷だけは頬に残っていたけれど。


「……どうかしました?」


 不意に彼女がこちらを向いた。

 ぱっちりとした瞳が至近距離から僕を見つめ返す。


 その無垢な眼差しに、僕はどきりとした。


「いや、別に。えっと……そのキーホルダー」


 咄嗟に、視界の端に見えたキーホルダーを指差した。


 彼女の鞄にぶら下がっている、例のキーホルダーだった。

 表面にシドニーのオペラハウスが描かれている、メダルのような形をしたそれ。


「それって、逢生ちゃんが買ってきたの? それとも貰い物?」


 何でもいいから話題を逸らしたかったのだけれど、図らずともキーホルダーに触れられたのは幸運だった。

 初めて会ったときから、ずっと気になっていたから。


「これですか? これは父から貰った物です。……というより、形見ですね。生前の父がずっと身に着けていたんです」

「そう、なんだ」


 父というワードに、僕は警戒した。

 あまり深堀りすると、彼女の負の感情を刺激してしまうかもしれない。


「それ、オーストラリアのお土産だよね?」

「ええ、そうです。父が言っていました。昔、修学旅行でシドニーに行ったんだって。……あ、でも生徒として行ったときじゃないんですよ。父は教師でしたから、仕事で行ったんだって」


 それを聞いて、僕はもしやと思うことがあった。


「修学旅行って、いつぐらいに行ったの?」

「え? それは……ええと」


 古い記憶を辿っているのか、彼女は斜め上を見つめながら暫く固まっていた。


「……二十年以上前になるんじゃないですかね。私が生まれる前に買ったみたいですから。それがどうかしたんですか?」


「いや、大したことじゃないんだけど……。僕の母親も昔、同じものを修学旅行で買ったんだ。僕の母親も教師だったから。……だから、もしかしてと思って」


「!」


 僕の言葉に、逢生ちゃんはハッと口元を押さえて目を丸くした。


「もしかして、同じ学校に勤めていたとかですかっ?」


 興奮した様子で、彼女は言った。


「わからない。でも、可能性はあるよね?」


 そんな予感が、僕にはあった。


「そうですよ。そうかもしれない……。もしそうだったとしたら、すごい偶然じゃないですかっ?」

「うん、すごいよね」


 彼女とは対称的に、僕は比較的落ち着いた声で答える。

 もともと色々な予感はあったから。


「私、家に帰ったらちょっと調べてみます。何かわかるかもしれませんから」


 かなりテンションの上がっている彼女はそう僕に約束して、さらに連絡先を教えてくれた。


「明日の夜、またここで会いましょう? 何かわかったら、すぐに報告しますから」


 彼女はそう、嬉しそうに言った。

 間接的にも父親の思い出に触れられたことを喜んでいたのかもしれない。






       〇






 彼女との約束を信じて、僕は翌日を楽しみに待っていた。


 けれど、当日。

 いくら待っても、彼女はその店には来なかった。


 代わりにラインのメッセージだけが届いた。


『ごめんなさい。今夜は会えません。』


 書かれていたのは、その一言だけだった。


 

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