エンド・オブ
香山瞬太の教室での一日は、大きなあくびから始まる。
それから、細身ではあるけれどまるで女子のように華奢という訳でもない、どこかまだ少年めいたしなやかさを残すからだをぐうっと伸ばして、ポケットにいつも入っているブドウ味のイーマを口に放り込む。
だから、朝一番に彼と話すと、少しハッカの混じった甘い匂いがする。
「香山くん」
私が声をかけると、香山はゆっくりとした動きでこちらを振り返った。まだ冷たい感じのする白っぽい日差しを受けた彼の顔を見て、やっぱり綺麗なんだよなと、どこか遠い温度で思う。
「今日、香山くんと私が日直だよね。私は日誌を書くから、黒板消しを香山くんに頼んでもいい?」
すらすらと、あらかじめ考えておいた台詞を口にする。その場で思いついたことを口にするのは私にとって骨が折れることだけれど、これならもう大方慣れた。何より、相手に不快な思いをさせずに済む。
「……ん、いいよ。分かった」
香山は、くしゃりとどこか人懐こい笑みを浮かべる。完璧な曲線を描く頬のラインが少したわんで、どこか取り澄ましたような雰囲気が一変する。けれども、取り澄ました、というのはあくまで外見上の話であって、実際の彼は割に色んなことに無頓着でよく笑った。
そのギャップもまた魅力なんだろうなと胸の内で呟いた時、心が、もう泣き疲れたというように一度だけしゃくり上げた。
もうすぐ、私たちは高校生というひとつの山を下りきる。
その長くも短くもない時間の中で、私はきっと人生で初めての恋をした。それも、成就することなんてない、ありふれていて、臆病な片思いを。
けれど今は、どちらかというと少し違う方向に思考の矢印は向いている。それは私だけではなく、周囲も含めての話だ。あと一週間もすればセンター試験があって、まだ苦手な数学の克服は終わっていない。私は国公立の文系の大学を目指しているけれど、正直なところ勝算はあまりない。
だけど、それを終えたら。
それを終えたら、私はもう一つの重要な課題をこなさなければならない。
私が私自身に課した、たったひとつの義務を、果たさなければならない。
香山は雑談に興じていた。二人の女の子と、一人の男の子。皆楽しそうに笑っていた。
手に強く握った単語帳のつるつるとした表紙が、少し歪んだ。
二月になって、いよいよ自分の進路が逃れようもないほどに目の前に迫ってくる。背水の陣で望んだセンター試験の点数は、なんとか目標点に到達した。あとは二次対策だ。
赤いチェックのマフラーを手に取り、他の多くの女の子達がしているのと同じ方法で首に巻きつけた。それでも、まだ身体は切実に寒さを訴えてくる。
そうだ、カイロ。一月に買っておいた分が、まだ引き出しの中にあるはずだ。
だらしのない私の、あまり統一性のない中身の詰まった引き出し。目的のカイロはすぐに見つかった。その奥で、紫色が安っぽい輝きを放っていた。私は目をそばめて掌を滑り込ませ、カイロと共に丸いそれを取り出す。
ブドウ味のイーマ。バカバカしい考えを抱いて衝動的に買ったまま、食べもせずにしまいこんでいたものだった。
私はそれをしばらく見つめた後、ゴミ箱に放り込む。
こんなものを持っていても、彼の好きな人にはなれない。
今日は二月一日。私たち三年生は、本当は学校に行かなくてもいい時期だ。それでも私は今日も制服を着て、午前八時過ぎの田舎の坂道を自転車で上っている。白く曇った吐息が、報われない誰かの魂みたいに宙へ登って、消えた。
「おっ、おはよう。雲井」
すれ違った、文芸部の顧問の先生が声を上げた。
「なんか意外だな。お前がわざわざ学校で勉強するタイプだとは思わなかった」
「そうですか?」
私は愛想だけの笑みを浮かべて、先生に言葉を返す。
思わず、あ、と声を上げそうになった。
男子がふたり、並んでこちらへと歩いてきていた。図書室へ向かっているのだろう。その内の一人――香山が私たちの方を見て、ぺこりと頭を下げた。香山よりも背が高い荻野も、それに続いた。慌てて、私もちょっとだけ俯いてみせた。
心臓が落ち着きなくがなる音がする。
「へえ、お前、ああいうタイプの奴らとも知り合いなんだなあ」
先生がそう言ったのは、彼らと先生の間に何の面識もなく、その上、礼をした瞬間は先生が彼らに背を向けていたからだろう。確かに、私はどこからどう見ても地味なタイプで、彼らと仲が良さそうにはとても見えない。
「……クラスメイトです」
ふうん、と先生は頷いて、受験、あともう少しだから頑張れよ、とだけ言って笑い、去っていった。頭を下げて、小さく息をつく。
もちろん、私は先生なんかよりも、もっとずっと驚いていた。
彼らにあんな風に会釈されるような日常は、私のこれまでの学校生活にはどこを探してもなかったからだ。
冷たい水が、見えない刃先でそっと手の甲を撫でてゆく。目の下がぴくりと引きつった。不意に廊下の方から話し声が聞こえてきて、私は一瞬だけ動きを止める。
「はは、やべえ。正直な話、めっちゃ緊張した」
「瞬太はヘタレだもんな」
「うるせえ」
ころころと、苦笑交じりの香山の声が転がって、私の踵にとん、とぶつかった。
人知れずからだを強ばらせる私のいる女子トイレを少し過ぎた所で、彼らは立ち止まったみたいだった。確かあそこには、卒業生に向けた学校新聞が掲示されていたはずだ。
「へえ、すげえ。小説が載ってる」
「……文芸部の作品の方が面白い」
「ああ。お前、あそこの部誌いつも読んでるもんな。……くそ、俺は活字苦手なんだよな。文字詰まってると一ページ読むだけでもう疲れんだよ。どうしよ、なんか研人に負けてる気がする」
「そうじゃなけりゃ、あの子の作品も読めたのにな」
「……」
不機嫌そうにむっつりと黙り込む香山の気配に、私は気が気じゃなかった。話から察するに、香山の好きな人は文芸部にいるらしい。誰だろう。見目が良くて社交的な子が二人ほどいる。いや、案外大人しい子が好きなのかも知れない。はたまた、下の学年の子とか。
部員一人ひとりの顔が浮かび上がっては消える中、私はじっとりと思わずにはいられなかった。
ああ、その子がいなかったなら、
まだ。
どくり、と心臓が不穏にざわめいた。お前の想いは歪そのものだと、見えない誰かの声が聞こえた。
「なあ」
ふいに、真剣な香山の声がこだました。
「お前、俺になんか変な遠慮とかしてないよな」
「…………どういうこと?」
「もしもの話だけど。お前もあの子を好きなんだとしたら、俺のことなんか応援すんな」
思いもかけなかった展開に、私は息を詰めていた。胸元を抑え、耳を澄ませる。荻野は黙っていた。
「お前、俺が初めて相談した時からずっとその調子だろ。俺自分で言うのも何だけどかなり鈍いから、そういうの言ってくんないと分からないんだよ……。無理してたんなら、謝る」
「瞬太、考えすぎだよ」
優しいけれど有無を言わせない荻野の声が響いた時、私の目の前にあった蛇口からぽとりと一粒雫が落ちた。
「俺は、お前がうまくいけばいいって、心から思ってるよ」
彼らの足音が去っていったのを確認して、私は顔を上げた。洗面台に、満身創痍の私の顔が映っている。
目が赤い。私は乱暴に目元をこすって、リュックを背負った。
人気のない下駄箱。まだ一、二年生は授業中だ。こうしてこれまでには考えられなかった状況に自分がいるのを感じると、ああ、本当に私は『高校生』という枠組みから外れてしまうんだなと思う。
終わってしまう。全てのものにまだ与えられていたチャンスが、根こそぎ消え去ってしまう。
私の指先から落ちた革靴が、乱暴な音を立てて地面に転がった。
胸の中には怒りもあったけれど、それ以上に怖かった。
私はきっと、最後の瞬間まで怯え続けているんだろう。
それでも、図書室に通い続けるのをやめることは出来なかった。
だって、彼がいるから。今日もあのふたりは、仲良く並んで図書室へやってくる。
その事にほっともしたし、苛立ちも覚えたし、不安にもなった。女子たちが嬉しそうに彼らに話しかける。密かに雑談を交わす。私はただ、彼らの気配に神経を研ぎ澄ませている。
その日は、いつもよりも格段に寒かった。私はマフラーで顔の半分近くを覆って、赤本をリュックにしまい、下駄箱へと向かった。顔には平然とした表情を浮かべていたつもりだったけれど、その実不安でたまらなかった。
今日は、ふたりは来なかった。一人だけがやって来た。たったそれだけのことが、私にとってはこの上なく重大な出来事だった。
そんな環境では勉強も捗るはずがなかったので、早めに塾へ行き、英作文を先生に添削してもらおうと思っていた。
「雲井さん」
下駄箱で靴を履いた時、不意に名前を呼ばれた。その声に呼応するようにして、私の中をあるひとつの予感が閃光のように貫く。まさか、と思う。私は顔を上げた。
そこに立っていたのは、香山だった。
いつもとは違い、たった一人で図書室へやって来た香山。何か決然とした表情を浮かべていた。彼にいつも話しかけていた女子はなぜだか遠くに腰掛けて、どこか悲しそうな顔をしていた。
兆候は、きっとたくさんあった。
彼が口を開く。
私の緊張は、最高潮にまで高まっていた。
「おれ、雲井さんのことが好きなんだ。ずっと、言いたいって、思ってて……。あんまり話したこととかなかったけど、色んなことに気を配れるし、優しいし、すげえなっていつも思ってた」
私は、瞬きをせず、じっと香山を見つめた。頬をほのかに赤く染めて、恥ずかしくて逸らしそうになる視線を、それでも必死に私の方へ向けようとする姿を。
「こんな時期に言ってごめん。でも、雲井さんが持ってた赤本見えたんだけど、おれの志望してるとこと近かったから、だから」
彼は少し迷うように言って、それから、私の言葉を待つように黙り込んだ。
私は極力瞼を閉じないようにしながら、唇の端を吊り上げる。無理矢理に、笑おうとした。
そうでもしないと、たちまち涙が溢れてしまいそうだった。
「……ごめん。私、香山くんは良いひとだって知ってるよ。でも、そんな風には考えてなかった」
私は視線をうつむけ、しゃくり上げそうになるのを必死でこらえた。
「そっか」と、予測したよりもずっと優しい声で、香山は言った。弾かれたように顔を上げる。
香山は笑っていた。もちろん、普段浮かべているような屈託のないものではない。悲しそうな表情だった。でもそれでいて、私に申し訳なさを感じさせないように最大限注意を払っているのが分かる。
「受験、頑張ろうな。雲井さんは編集者を目指してるんだろ? 名前をどっかで見るの、楽しみにしてるから」
どこからそんなことを聞いたのだろう。でも、それも最早どうでもよかった。どうしようもないくらいの悲しみが、ただ私を支配していた。
こんなことがあるだろうか。
まさか、私、だっただなんて。
「うん、頑張ろうね」
ほとんど笑みにはなっていない歪な表情を浮かべて、私は足早にその場を去ってしまう。薄情な奴だと思われたかも知れない。それでも、限界だった。
坂道を下る。道には誰もいなかった。私は涙を流しながら、引っ張られるようにしてペダルを力なく漕ぐ。
どうして、こうも上手くいかないのだろう。
悲しかった。私の想いも、彼らの想いも、報われることは決してない。
ついにその日はやって来た。
泣き声や、それをなだめる声、対照的に陽気な笑い声なんかが、そこらじゅうに反響しては消えていく。
胸に花をつけ、黒く細長い筒を抱えた生徒たちで廊下は溢れかえっていた。
私は教室で本を読んでいる。友人たちが寄ってきて、「校門のところで写真を撮ろうよ」と私に言った。
「うん、後で行くよ」
そう言って私は笑う。「先に行ってて」
彼女らは怪訝そうな顔を何度か翻しながらも、教室の引き戸を開けた。彼女らが去っていったのを見届けて、私はリュックを背負う。
渡り廊下はしんと静まり返っていた。中庭の方から、ぼんやりと滲んだ生徒たちの騒ぎ声が僅かに聞こえてくるだけだ。
私はある教室の前に立って、軽く息を吸い込んだ。
からからから、と引き戸を開ける。
油絵の具の匂いがした。
淡い光に包まれた美術室の窓際で、彼は絵を描いていた。こんな時に寄り添う友達がいない訳でもないのに、たった一人で。でもその事実にほっとする。誰もいない教室は、人に聞かれてはいけない会話をするのにはぴったりだ。
「荻野くん」
彼は、穏やかな瞳で私を見上げた。右手に握られた絵筆には赤い絵の具が付いている。
「びっくりした。まさか雲井さんが来るなんてな」
「絵を見るのが好きだから、最後にここに寄りたかったんだ」
彼は柔らかい声で笑って、手近にあった椅子を私の近くへと寄せてくれた。ささやかな優しさが嬉しくて、私の心臓はげんきんに跳ね上がる。
「荻野くんはどんな大学に行くの?」
心臓はばくばくと震えていた。理由は、私が彼にこんな風に話しかけるのは初めてのことだったから、だけではない。
「まだどうなるか分かんないけど、国立の美大」
「へえ、すごいね」
「雲井さんは?」
「国立大の文学部。私もどうなるか分かんないよ」
そうか、じゃあ一緒だな、と彼は笑みを浮かべた。その横顔はとてもきれいで、私はいつも見とれていた。
荻野に恋をしていた。背が高くて華やかな顔立ちで、派手なグループと接しながらも、真面目で言葉少なで、絵がものすごく巧い。彼は確か高校の間だけでもたくさんの賞をとっていたと思うけれど、それをひけらかしたり傲ったりといった様子を全く見せなかったのも、私が彼に惹かれた理由だった。
何より、彼は私を助けてくれた。
でも、もし私がそう荻野に言ったとしても、きっと彼は怪訝そうに眉を潜めるだけだろう。それくらいにあれは恐らくは些細なことで、でも私にとってものすごく大切な意味を秘めていた。
高二の春のことだった。私はある時、自分が友人だと思っていたクラスメイトから手酷い言葉をぶつけられて落ち込んでいた。内容に関してはもうあまり詳しくは思い出したくないけれど、「お前なんていてもいなくても同じだ」という意味の言葉だった。友達の少なかった私は、言われずとも密かに抱えていた痛い部分を容赦なく突き破られ、その日はとにかく早く家に帰りたかった。そしてベッドに潜り込み、意識を泥濘の中に沈めようと思った。
薄暗い色合いの階段を駆け下りる。それはまるで私の人生みたいに見えた。
何がいけなかったんだろう。
どこで踏み外していたんだろう。
かねてから不安に感じていたこと。
私は、本当は誰からも必要となんかされていないんじゃないか。
階段を降りきるか否かというところで、突然私の視界は何かに塞がれた。いや、前方数センチのあたりに人が立ちふさがった。
階段を降りてすぐ右、下駄箱の方から男子生徒がやってきて、そのまま階段を登ってきていたのだ。彼の視線は下を向いていた。
あ、ぶつかる――――荻野だ――と思った時、予想していたよりは重い衝撃とともに、私の視界は半回転した。
どさ。
文字で示そうとするとどうしてもありきたりなその二文字しか当てはまらない音を立てて、私は冷たい地面に無様に転がった。思ったよりも痛みはない。ただ恥ずかしさばかりが先行して、私は熱い顔をすぐに床から引き剥がして上半身を起こした。
『ごめん……』
何か言わなきゃ、と唇を開いたとき、気だるそうな声が背中にかけられた。
私は恐る恐る振り返る。
尻餅をついていた荻野は額をさすりながらゆっくりと起き上がると、何かを探すような目つきをしながら私を見た。そして、ぎょっと目を見開く。
『え、どこか打った』
『え?』
不可思議な言葉に、私は首をかしげた。その途端、つつっと頬を生ぬるいものが流れ落ちた。
『あ……』
知らない内に涙が滲んでいたらしい。私は更に恥ずかしいやら情けないやら悲しいやらで、再び涙が止まらなくなった。
『わ。あー、えっと、とりあえず場所変えよう』
その時は放課後だった。下駄箱に続く階段は人通りも多い。
困り果てた様子の荻野は立ち上がって私の腕をつかんだ。
どきりと心臓が跳ねる。なに、こんな時に、とパニックに陥りかけたとき、視界に見慣れたものが映った気がした。
一冊の冊子。
私が所属している文芸部の部誌だ。私は一篇の小説を載せた。この学校にはこういうものに関心のある生徒は少ないらしく、捌け具合はいつもあまりよくない。
誰が捨てたんだろう、と泣きっ面に蜂の思いで荻野に一言断って拾い上げると、彼が「あ」と声を上げた。
『それ、俺の』
『え』
端正な顔をした荻野は、確かにそのしなやかな指で、私の持つ薄い紙で出来た冊子を示していた。
『いつも読んでるんだよ』
ひょい、とさりげなく私の手から部誌を抜き取って、彼はどこか大事そうにすら思える手つきでそれを抱えた。
『雲井さん、文芸部だっけ。虹飴っていうペンネームの人を知ってる? 俺、その人の作品目当てにこれ読んでんの』
ちかちかと。
世界が忙しなく点滅しているような錯覚に囚われた。痺れているのだ。あまりの衝撃に。
虹飴というのは、一人でぼんやりと浴槽の湯船に潜っている時に考えた妙ちきりんな言葉だった。
大した意味も持たないその言葉を今、目の前で荻野が口にしている。あの華やかな空間で、私とは全く違う何かを吸い込み、放っている存在が。
それだけで、私の報われなかったすべては報われたような気がした。
『なに?』
さして興味もないような顔つきで、荻野は首を傾げた。
『ううん。あのね、どこも怪我してないから。ごめんね。……ありがとう』
本当に、と囁くように言って、私は踵を返した。荻野が視界から消える瞬間、彼がゆっくりと瞬くのが見えた。
『虹飴って、どういう意味?』
不意に声をかけられる。彼の聡さがちくりと背中で痺れた。彼のさっきの言葉が嘘でなければいいのに、と心臓が跳ねる。
『何の意味もないよ』
この日から私は、ずっと彼に恋をしている。
「文学部か。なら、俺は今後も虹飴先生の作品を読み続けられるかも知れないな」
皆には編集者になりたいと言っていた。けれど、本当は違う。大学できちんと就職に備えた活動をしながら、作品を書き続けたいと思っていた。例えそれが、実りある行動とはならなかったとしても。
荻野は本当に、興味のない人間のことまでもよく見抜いている。対して私は、好きな人のことを考えるだけでもう一杯になってしまうのに。
それでも一つだけ、彼のことで、恐らく私だけが知っていることがあった。
今となっては、知らなければよかったなんて思うことすらあるような、とても重たい秘密。
そうして、不安げな私がまた顔を出そうとする。
私が今日ここに来たことは、本当に正しかったんだろうか。
じわじわと絡み付こうとする恐れを振り切って、私は声を絞り出した。
「荻野」
「ん?」
柔らかな色をした瞳が私を映すか否かという時に、私は呟いた。
「荻野は私を、恨んでる?」
沈黙。けれど、たった今まで淡々と続いていた平穏がぐにゃりと歪められる感触が、しっかりと肌に伝わった。
彼はゆっくりと筆を起き、私に向き直った。
「なんでそう思うの」
指先に力を込める。そうでもしないと、うっかり震えてしまいそうだった。
「香山が、私を好きだったから」
ちいさなため息が聞こえた。それは、どこか自嘲気味な笑いすらも含んでいるように思えた。
「雲井がそんなことを気にする必要はないよ」
それは、お互いにとって何の気休めにもならない言葉だった。
私はきゅっとスカートを握り締めて、荻野を見つめた。
彼は、この期に及んでもまだ優しい顔をしていた。
あの日から、私の視界の半分は荻野が占めるようになっていた。これが噂の恋というやつかと胸を躍らせていた私は、不意に一つのことに気を取られ始める。
ずっと見ていた。だから気づいた。
あらゆるものに平等に、平熱で触れる荻野が、唯一その静寂を乱されるもの。
彼の視線の先には、いつも香山がいた。柔らかな髪を揺らし、あどけないほどに屈託のない笑顔を浮かべる綺麗な男の姿があった。
ああそうか、とすとんと腑に落ちた。どうしようもなく胸が傷んだ。勝てる訳がない、と力なく呟きそうになった。
髪を切った。ブドウ味のイーマを買った。もちろん、そんなことで私が香山と対等になれるだなんて夢にも思わなかった。思えるはずがない。明るさも美しさも、性別も、荻野に与えるものの大きさも、全てにおいて私は違っているのに。
それなのに香山は。
穏やかな目で私を見つめ返す荻野に、私はすがりついてしまいそうになる。苦しいね、と思わず問いかけてしまいたくなる。
不毛だ。私たちは、どうにもこうにも断ち切れない苦しさでがんじがらめになっている。
「あのね」
何か、ないのだろうか。
荻野がほんの少しだけでも報われるような言葉は、私の中のどこにも転がってはいないのだろうか。
長い間考えた。
正解なんてない。荻野の気持ちを私が推し量れるはずがない。
けれど、私は言おうと思った。ともすれば、更に私たちを惨めにしてしまうかも知れない危険も知らないふりをして。
「私は好きだったよ。香山を大切にしている、荻野のことが」
あなたは間違ってなんかいない。傷つけないように、傷つかないようにしながらも想いを抱え込むあなたの姿は、本当にきれいだ。
荻野の茶色い瞳がふっと揺らいだ。
溢れ出したのは、ほんの一瞬のことだ。
昼下がりのあたたかな光にひどく輝いて見えたそれは、もしかしたら私が流したものと同じ温度を持っていたのかも知れないし、全く違うのかも知れない。
ああ、終わったのだな、と思う。正しいのかは分からない。ただ、私の高校時代はたった今終わったのだと、はっきりと思った。
私は、笑った。叶うならば、この顔に浮かぶ表情が、彼に対するすべての好意を伝えられる類いのものであって欲しいと思いながら。空回りしたわけではないのなら、かつて彼は同じものを私に手渡してくれたのだから。
「……ありがとう。本当に」
今日は二月二十七日。
私たちが、卒業する日だ。
自分の卒業式がこないだありまして、なんかタイムリーなのを上げたいなあと思ってアップしました。冬あたりに書いて文芸誌に載せようにも引退してるしなー……でお倉入りしてたやつです。
卒業式の日に告白というシチュエーションはあれだな、ロマンに溢れているなあ! と思いながら誰にも愛の告白なんかせずベルトコンベア方式で学校を出ました。現実なんてこんなもんだ。なにげゆるっと同性愛入ってますが、ネタバレにも繋がりそうなのでタグつけてません。不親切ですみません。