008
高尾地下層第一層“滅多打ち雪原”。そこは遮蔽物の一切ない、どこまでも広がる雪原だ。ただし、眼前は常に強い吹雪で白く染まっている。すぐ目の前にいるはずの仲間たちの姿さえ吹雪に覆い隠されてしまいそうだ。
「んじゃあ始めるぞ。ピスティルは嬢ちゃんのほう見とけ」
蒼介と若葉には経験の差があるし、戦闘適性も合わせたこの分担は納得のいくものだ。
だが。
「んじゃあ今からテメェに地獄を見せてやっからな」
嫌らしく笑う半蔵を見ていると、どうにも不安感がこみあげてくる。ピスティルに教えを受ける若葉が正直羨ましかった。
「テメェ強くなるにはどうしたらいいと思う?」
それはここ数日、何度か蒼介のほうから尋ねた疑問だ。蒼介は二人の人間からその答えを得ていた。
「仲間を作る事です」
「違ぇーよ馬ぁ鹿。仲間なんざいたら逆に弱くならぁ」
一刀両断。ほとんど反射的に返された全否定の言葉に蒼介は唖然とした。
「じゃ、じゃあ経験を積んで……」
「三十点だ。そいつは必要だが、意識して積み上げるもんでもない。初心者たるお前がまず何よりも優先して考えるべきは他にある」
「それじゃあ、えーっと……?」
地下層を潜る小隊員を得る事よりも、実戦を重ねて経験を積み上げる事よりも大事なことがあるのだろうか。
「金だ」
あまりに簡潔な一言。どういう意図があるのか、と考えてみても解釈のしようもない。
「装備揃えるのにも呪文覚えるのにも、探険士にゃ金が要る。まず何を置いても金なんだよ。分かるか?」
「い、いやでも、金かけた装備じゃなくても工夫と努力で補っ」
「なんでそんな事する必要があんだよ。金さえありゃ補う必要がねえだろうが」
それは、確かにその通りだが。あまりに即物的な物言いに、抵抗感が生まれる。
それを半蔵は笑い飛ばした。
「金なんかで手に入れた強さは偽物だ、なんてキレー事言いたげだな? いいか、地下層じゃ全ては魔素で決まる。ハエほどのサイズの魔種を百トンの岩塊で潰そうと、ダメージはゼロだ。だが、魔素の通った攻撃ならば効く。呪文による打撃、斬撃、炎撃、雷撃は相応の効果をもたらし、同時にヤツらの身体を構成する魔素を削り取る。強力な呪文が込められた武器のほうが大きなダメージを与えられる。だから強い武器持ってりゃ強いんだよ」
触媒武器には攻刃。防具には防護。各々に地下戦闘の基本となる呪文が付与されているが、この呪文をより強力な形で長時間発生させられることが触媒武具の基本的な性能評価に関わる。強力な触媒を使用した武具ほど高価になるのは必然だ。
「まず戦う牙がなきゃお前は経験すら積めない。小隊に入ってもテメェはただのお荷物だ。装備を揃える事。これが初心者がやるべき最初の事なんだよ。弱さと経験の浅さを金で補うんだ」
確かに。蒼介だって資格取得の他に剣と鎧を買うための金をアルバイトで手に入れた。そのために高校時代の三分の二は費やされたのだ。その金がなければ地下層に入ることもできなかった。
「だからここに寄越した。俺の見立てじゃあここの魔種は灰被りの樹林と同程度。しかも都合のいい事に連中は一匹狼での奇襲戦法が基本でな。吹雪に紛れて獲物の首に喰らいつく。まずお前は魔種どもを狩って狩って狩りまくれ! そうすりゃ金が貯まる。ついでに経験もオマケでついてくる。まずは小隊員の足引っ張らない程度まで稼げ新入りぃ!」
「はい!」
蒼介は腰に差した代剣のショートソードを抜き放つ。
離れたところでは若葉がピスティルから講義を受けていた。
呪文で出現した岩の腕が包むように覆いかぶさり、即席のかまくらに変貌してその中に二人は身を隠していた。
「私のレベルは2。呪文書一本の発見と、十四回の脅威討伐戦に参加し、これを成功させた功績によりレベルアップが認められました」
十四という数字に若葉は息をのむ。ただ一匹の脅威討伐、その末席に加えてもらうだけでも苦労しているのに。あまりに遠い目標に思えた。
だが、だからこそやりがいがあるとも言える。
「発見した呪文がこれ――」
ピスティルが愛おしげにかまくらの壁を撫でる。
「愛しの右岩腕。ちなみに呪文の名称は発見した人間がつける権利を持ちます」
きっと初めて呪文を発動させたときはあの岩腕に抱きついて頬ずりしたに違いないと若葉は確信めいた思いを浮かべた。
「初めて呪文唱えた時は感動のあまりよじ登って手のひらでごろごろして指にキスしちゃいましたよ。えへ」
想像を軽く飛び越えてきた……。
両手を頬に当てて照れくさそうに体をくねるピスティルを見て若葉はどう応えたものか、これまでにないほど悩んだ。
「ところでこの呪文、原典は“視線で指定した位置から腕状の岩塊が手のひらを上方に開いた格好で突出し、その後指を閉じる”効果なんですよ」
若葉の目つきが変わった。
「呪文改訂」
今説明のあった現象ではこのかまくらを作る事はできない。つまりピスティルは自分で呪文の内容を変えて効果を作り変えたのだ。
「そ。本職の識者には及ばないですけど、ある程度経験を積んだ探険士ならばけっこうやってますよね」
数多くの呪文書にその名を刻む“億千の魔術師”ガルダ=ツェルドによれば呪文とは魔術師によって造られる器であるという。
遥か遠き古代、人間は地下層へ挑み、魔素の神秘に触れた。だが当時はまだこの力が何をもたらすのか理解できない者がほとんどだった。魔素の流れを読み解き、その変化を操る者たちが現れ、地下には魔術師が誕生した。ガルダ=ツェルドを始め多くの魔術師が魔素を形ある力へと変貌させ、その過程を呪文として体系化し、呪文書として残した。現代の探険士たちはその足跡を辿るように、地下層に残された呪文書を発見している。
だが、呪文書に刻まれているのはあくまでひとつの用例に過ぎない。識者と呼ばれる職業の人間たちによって呪言語が解読されつつある現代、それを読み解く技能を持った魔術師たちは呪文を改訂して、威力、射程距離、発射数など好みに変化させるのだ。そうする事で戦術に幅ができる。
もちろん簡単にできる話ではない。単語の組み合わせを一つずらしただけでも正常に呪文は発動しなくなる。使い物にならない場合だってある。きちんとした呪文改訂には知識と幾度とない実験が必要なのだ。
「ワカバちゃんの得意は水の魔法ですよね」
「ええ。水針、水覆。あと、補助的に氷結させる呪文も覚えたわ」
呪文で生成された水や炎は魔素が尽きない限り発現した効果を終えるまで干渉を受ける事はないというのが通説だ。ただし、魔素が通った現象なら話は別だ。独学で戦い抜いてきた若葉はそこに目をつけて、水を凍らせる呪文を覚え、手札を増やした。
「そこまで自分でできているならあなたに新しい呪文は必要ない。その手で磨いてきた武器をさらに磨きぬく。それがワカバちゃんへの課題です」
「磨きぬく……」
「ええ。今、一番威力が高い呪文はなんですか?」
「水針の改訂。出す針を一本にして、それを太く長くして撃ち出してます」
「それで仕留められる獲物の大きさは?」
「……一番大きかったので、体長二メートル半の放浪石樹」
「じゃ、それ三倍くらいにしましょうか、まず♪」
顔の前で両手を合わせてあっさりと言ってのけるピスティルに目を見張る。
「詠唱から魔素収束、現象生成、発射待機まで持っていく時間を五秒以内に収めつつ、その程度の威力が出せる事。私の経験した中で最も弱い脅威を相手取るのに必要な条件です」
無茶を言う。今現在でさえ、発動のための魔素を集めきるのに四秒の時間が必要だ。それを全行程含めて五秒。しかも威力を三倍ときた。体内に蓄積された魔素の操作に熟練した魔術師ならば――ピスティルならばその程度、軽くやってのけるということか。
ならば、自分もできなくてはならない。越えなくてはいけない壁を明確にしてくれたのは、ありがたいことだ。
「何から始めればいいでしょう?」
「簡単なことです。最大威力の水針をなんべんも撃ってください。呪文詠唱をスムーズに、素早く、確実に。魔素収束を迅速に、効率的に、膨大に。現象生成のイメージを明確に、的確に、明晰に。剣を素振りするのと同じ。呆れるほど繰り返して慣れる事です。目標達成まで、他の呪文の使用を一切禁じます。手札一枚で、滅多打ち雪原を制圧してください」
かまくらの外には視界を塗りつぶす白の暴力が渦巻いている。これをただ一つの武器だけで切り裂けと。
「分かりました」
若葉は頷いた。
この程度で音を上げているようではきっと自分はさらなる深みには行けない。それどころか、後ろを追いかけてくる彼に、すぐにでも追い越されてしまうだろう。
それは嫌だ。背中を見るよりも、並んで同じ道を駆け抜けたい。
この日から毎日、吹雪の止まない地下層での二人の修行が始まった。
※
鷹城一真は組織に属さない。彼ほどの実力を持つ探険士となると、組合が保有する探索部隊など、多くの組織から声がかかる。だが、一真はそれらすべてを跳ね除け、ただ己の信じて集めた小隊員たちとのみ探検を続ける。日本最強の呼び声高い彼らの小隊は、国内外問わず多くの地下層で功績を上げてきた。
だが、その行動指針は実に不明瞭だ。探検途中の階層を放り出して別の地下層に向かったり、時には誰もが慎重にならざるを得ない場面を強引に切り開く。
多くの探険士たちは富と名声のため探検を行う。だが、彼らは違う。その名の通り何かを探し求めるかのように地下世界を放浪して回る。
吉祥寺地下層第一層“混蟲迷宮”。こんな初心者向けの地下層に一真の求めるものがあるのだろうか?
その好奇心が人を呼び、強襲蛇蟲討伐依頼には人が殺到した。
応募してきた探険士たちのプロフィールを眺めて支倉がため息をついた。
吉祥寺支部は小さな支部だ。配置されている人員も多くはない。それが今回の作戦の指揮を丸ごと預けられたおかげで職員総出で大わらわだ。支倉は交友関係の広さを買われて必要な人材の手配を任されていた。
この作戦は確かに支倉が一際大きく賛同した。が、実際、強襲蛇蟲を灰被りの樹林まで落とすためには様々な準備が要る。人員の選定は作戦の成否を決める重要な内容だ。
「戦うよりは楽だ、とは言えないけどね……。にしても、うーん」
タブレット画面をスライドさせながら支倉は考える。
準備のための人員。これは悩む必要はない。必要な能力を持った人間と護衛を適度に見繕えば良い。
本作戦実行のためにはあらかじめ灰被りの樹林で待ち受ける討伐隊――多数の小隊を集めた混成部隊になるだろう――の他に、囮役が必須だ。そして、それに適した探険士となるとかなり限られてくる。
「誰もが高井君みたいに這い出てこれるわけじゃないしね……」
ふと、別の報告書を開く。
そこに刻まれた八人分の名前。強襲蛇蟲に喰われた犠牲者たち。鷲塚らの生還によって早い段階で情報を入手できたおかげで何も知らない故の犠牲者は最小に押しとどめる事が出来たと言える。
だが、作戦如何でこの人数は増えていく。準備に向かわせる探険士たちにでさえ命の危険は付きまとうのだ。それを選ぶというのは、中々に堪える作業だ。
探険士なんて大なり小なり命知らずの連中が多いものだが、それでも死ぬ人間が減るほうがいいに決まっている。自分の采配ひとつでその確率は大幅に変わるのだと思うと、決して気は抜けない。
支倉は気合を入れ直し、タブレットと向き合った。
※
鍛冶師は触媒を用いた武具の製作を生業とする人間を指すが、その担当分野は実際のところかなり幅広い。剣、斧、槍といった武器から木材が主に使われる杖に、紙製の本、鎧も皮や鉄のものや、ローブや帽子など。職人によって武器の専門、布服の専門、いくつかの種類を請け負う者もいる。
浩太郎は金属製の武器が専門で、仕事場にも炉や金床が見られる。
「親父。磯貝さんから届け物だぞ」
「ああ、そこ置いといて」
振り返りもせず、浩太郎は槌を振り上げる。
灰潜犬の牙。蒼介から受け取った時には三十センチほどの長さだったそれは削られ、半分以下のサイズになっている。これを芯に、ファルシオンを溶かした鉄を巻いて、叩く。その途中で削った灰潜犬の牙を粉末にしたものを混ぜていく。
「そんなもん混ぜて武器が強くなんの?」
「これは触媒武器だからね。攻刃の呪文以外にも、こうして他の素材を混ぜ合わせる事で別の呪文を付与させる事もできる。斬った相手を炎で包んだり、魔素を蝕む毒を流し込んだり」
「狼の牙を混ぜたらどんな呪文が使えるんだ?」
「それはできてからのお楽しみだ。蒼介君にはぴったりだと思うよ」
「お楽しみって、地下層行かない俺には分かんないじゃん」
「ははは。蒼介君から武勇伝でも聞くといいよ……ところで浩平。ちょっと手伝ってみないか?」
「え、俺が?」
「お前も高三だし、そろそろ仕事も覚えてもらわないとな」
「いやいや。俺、家の手伝いはすっけど、店継ぐとは決めてないからな?」
「大学出る時に他にやりたい事見つけたらそれでいいさ。しかしこれはこれで楽しいぞ? ま、今回はお前の友達の武器作りだし、ちょっとやってみないか?」
父親の説得に浩平は不承不承といった態度で向かいに座った。実を言えば興味がないでもない、という本音を隠しているつもりだが、浩太郎は見透かしたような笑みを浮かべて息子へ槌を渡す。
「いいか。僕が骨粉を撒いたらそこの鉄を載せて、槌で叩くんだ。熱いうちに打つんだぞ」
「思い切り叩いていいか?」
「手加減したら出来損ないになる。全力でやれよ」
作業場に不器用なリズムで槌を振るう音が響く。
「なぁ、親父。これ完成したら蒼介のやつ、驚くかな」
「ああ、驚くぞ。使ってみてもっと驚く。想像してみろ。僕らが作った武器を蒼介君が使って、新幹線みたいなサイズの化け物を倒すんだ」
「……アイツにはもったいない場面だ。分不相応ってやつだよ」
「ははっ。でもなぁ、もし実現したら、ちょっと楽しくないか?」
「……ちょっとだけな」
もしもあいつが大金でも稼いできたら今度たかってやろう。そのためにもこの武器はきっちり仕上げないといけない。
浩平の振り下ろした槌は心地よい響きを上げた。
※
ほとんど乗客もない終電の中で、蒼介と若葉は魂の抜けたような顔で吊り広告を見上げていた。週刊誌の特集記事を謳う文面の隅に小さく、“4レベル探険士初心者向け地下層で無双!?”などと書かれていたが、気力の抜けきった二人は目に入っても認識できてはいないようだった。
半蔵、ピスティルによる特訓を受け始めて一週間が経った。半蔵曰く『まだ話にならねぇ』とのこと。ピスティルは『着実に上手くなってますよ』と言うがお世辞だろうと若葉は思う。
学校が終わったらすぐに高尾まで向かって、地下層に潜り、吹雪の中でひたすら敵を倒す。各々が一人でだ。一匹の魔種を倒すのがこれほどまでに苦労する事だとは思わなかった。
「……深谷さ、今日何匹?」
「……七匹」
「俺、六匹」
「やった……私の、かち」
強がりか、それとも冗談で場を和ませようとしたのか、とても勝者とは思えない気の抜けた顔で呟く若葉。
「深谷なら、もっとたくさん狩れるもんだと思ったけど」
「私は敵の不意を突いて奇襲するっていうのが主だったから……滅多打ち雪原では逆にどこから襲ってくるか分からない。すぐに詠唱に入れるよう常に気を張ってはいるけど、どうしても後手になる」
魔術師ほど不意の攻撃に弱いものはない。攻撃手段は時間の必要な呪文がメインになるのだから、当然だ。
「だからって詠唱を短くした水針じゃ威嚇にもならない」
滅多打ち雪原に生息する主な魔種は二種。
雪原を高速で滑り突撃してくる短矢人鳥、足は遅いが力と耐久力に優れ、この層の名の由来とも言われている豪腕白熊。どちらも身体能力を頼りに単純な攻撃しかしてこない魔種だが、それゆえに実力で劣る蒼介は追い込まれ、若葉は得意の搦め手を封じ込められる。
「要するにさ、“この程度の連中はねじ伏せないと脅威相手なんて無理”って事なんだよね」
「だな」
「目標は遠いね」
「……だな」
わずかに間を置いて、若葉は蒼介を振り返った。
「高井君さ、なんで探険士になったの?」
「え?」
「世間じゃ危険にわざわざ飛び込むなんて馬鹿らしい、って考えてる人も多いし、食べてくには実際辛い事多いと思うよ。まだ高校生だし」
それは、深谷も同じじゃないだろうか。
とはつっこまずに問われた言葉を改めて考えてみる。
「んー。第一に、探険士はカッコイイ」
若葉の顔の前に人差し指を立てる。
「第二に、一攫千金の夢がある。第三に、有名になれる」
言葉と共に立つ指を追いかけるように若葉の視線が揺れる。
「で、初めて潜って第四の理由ができた」
「それは?」
二人の視線が交錯すると、蒼介は子供の用に歯を剥いて笑った。
「楽しかった。ワクワクした。化け物をなぎ倒して、知らない世界を歩いて切り開く。俺はもっと色んな地下層を見て回りたいし、滅茶苦茶恐ろしい化け物を倒して、やったぞー、って達成感が欲しい。やる前から想像してたけど、地下層は俺の期待に応えてくれそうだって分かって、嬉しかった」
「……。高井君て、欲張りだね」
「え、そ、そうかな」
「そうだよ。だって高井君が言ってるのは、探険士っていう存在の全部だよ」
探険士になる理由は様々だ。未知を求める者、金銭を求める者、栄誉を求める者、戦いを求める者。
「高井君はその全部が欲しいって言うんだ。でっかい蛇蟲のお腹に呑みこまれて、死にかけても、まだ子供みたいに笑ってそんなこと言う高井君は、変だよ」
首を捻って唸る蒼介を見る若葉の表情は、柔らかいものだった。
「んじゃあ、そういう深谷は?」
「私? 私は単に、憧れだよ」
「探険士に?」
「どっちかっていうと、地下層に。高井君、この世界のことどれくらい知ってる?」
「世界? 五大陸があって、海があって、それを――」
「氷が囲んでる。地球っていう星の六割は氷に覆われてるって知って、がっかりしたんだ」
そう語る若葉の顔は、昔を思い出してか若干沈んだ表情に見える。
子供の頃誰もが見たことがあるであろう地球儀の半分以上は青一色だ。人間たちの住まう世界のなんとちっぽけなことであるか。星はこんなにも大きいのに、世界は狭すぎた。
氷の内側の世界は過去の人たちが調べつくしてしまった。教科書やDVDには隅々まで世界の事が載っている。誰もが知ってる世界。
「私は、それが退屈に思えたの」
「……」
「でもね、地下は違う。地下層は誰も知らない。世界各地で地下層は発見され、たくさんの探険士によって新層の発見がされてきたけど、底の底には誰もたどり着いたことがない」
若葉は静かに喋る。元々大きく感情の出ない娘だ。けれど、今語るその語気は波打つように、少しずつ彼女の心根に宿る熱を露わにしているようだ。
「未知に惹かれている、っていうのかな。私が探険士をする理由はそれ。焦がれたの。誰も知らない世界に憧れを抱いて、そこに足を踏み入れる探険士が羨ましかった」
先ほどの沈んでいた表情とはまるで違う。先に見る世界を見据えた、希望をを抱くそれは蒼介が浮かべたのと同質のものだ。
「でも、実を言うと無理かなって思い始めてたんだ」
憧れは強い動機として若葉は高校三年次、資格を取って地下層に挑んだ。だが初めて組んだ小隊の仲間は初心者の若葉を利用して搾取したクズだった。そんな事を数度繰り返し、一人でやっていく決心をした矢先に大きな怪我を負って若葉の向上心は挫かれていた。
「病院にいたときにはもうやめちゃおうかなって思ってたんだけどね。治ってからなんとなく地下層に足を向けちゃったんだ。そこで高井君に会ったんだよ」
蒼介との出会いは衝撃と言うほかなかった。
天井を突き破り現れた巨大な蛇蟲。そこから現れた少年。彼は初心者で、脅威を倒すという。
そんな荒唐無稽な一日が若葉の燻っていた憧れに火をつけた。
「深谷と組めて、良かったな」
「そう?」
「うん。お前なら今回みたいに、俺が滅茶苦茶やってもついてきてくれそうだ」
「調子に乗らないで」
若葉に腿を思い切りつねられて、蒼介は飛び上がった。
涙目で睨みつける蒼介の視線をかわしながら、若葉は心の中でだけそっと「私もだよ」とつけくわえた。