004
蒼介が話している間、若葉は片時も目を逸らさず蒼介のことを見続け、一言一句たりとも聞き逃すまいと黙って耳を傾け続けた。
「帰ろう」
そして、全てを聞き終えての最初の一言がこれだ。
「そんだけ?!」
「他に何があるの。脅威が出てきて、私は単独で、君は小隊とはぐれた1レベル。ここに留まるのは危険だよ」
「そうだけどさ、もっと感想とかないの? すごいな!――とか」
「どっちかっていうと、怖いね」
若葉が空を仰ぐ。空といってもここは地下で、空に見えるこの灰色は天井みたいなものなわけで、今現在その天井には穴が空いている。誰あろう、蒼介を飲み込んだ巨大蛇蟲の仕業だ。あの穴から巨大蛇蟲と蒼介は落ちてきた。
そう、落ちてきたのだ。巨大蛇蟲はその図体がケタ外れでも能力は蛇蟲のそれと変わらない。飛行できるわけではない。灰被りの樹林の上空は何もない空間だ。奴が上に戻ろうとするならば、地続きになっている場所を探さなくてはならない。
「それって、探険士も一緒なの。灰被りの樹林は上の混蟲迷宮よりも狭くて、歩いていけばいつか壁にたどり着く。私たちはその壁に空いた亀裂を使ってここと上を行き来している」
「詳しいんだな」
「ここは今の主狩場だし」
「いつも単独でやってんの?」
「うん」
魔術師は呪文が主な武器になる。呪文は広域に対して大きな破壊力を持っていたり、飛び道具として使えるなど幅が広いが、戦いにおいてはその詠唱が大きな枷になる。それに多様な呪文を扱うには主武装――多くは杖型や本型の触媒武器が好まれる――の他にも触媒を用意せねばならず、大半の魔術師は防護が薄い代わりに呪文の触媒としても機能する布や皮製の防具を纏うのが常識だ。
つまり、魔術師は攻撃力が高く汎用性にも富むが、脆く崩れやすい。単独での探険には向かない戦闘適正なのだ。
「それでも単独で活動する魔術師もいる。息を潜めて、敵に気づかれる前に一撃必殺の構えで狩りをする。だから今みたいに目立つ中にいるのは困るんだよね」
先ほどの灰鴉の襲撃も本来の彼女のやり方ではないのだろう。それでも慌てず対処できるのだからたいしたものだ。
「話を戻すよ。私たちは脱出するために壁を目指す。脅威は自分の領域に帰るために壁へ向かう」
「……遭遇の危険がある、ってこと?」
「何も考えずに進めばね」
その言葉は手立てがある、と言っているのと同義だ。
「さっき、高井君が飛び出した後、巨大蛇蟲は……西に向かった」
若葉が自分のエクスホンを見ながらある方向を指す。
「混蟲迷宮と繋がる亀裂はいくつも見つかってるから、私たちは反対側、東を目指そう」
「東って……」
蒼介が若葉の指と反対の方向を見る。西側の壁はここからでもその姿を確認できるが、東側は霞のようなものがかかって見通すことができない。
「ほとんど端から端まで横断するってことか? そりゃ、いくらなんでも時間がかかりすぎるんじゃ」
「うん。でもあの化け物と鉢合わせするよりはマシ。そう思わない?」
「……確かに」
「じゃ」
若葉が自分のエクスホンを蒼介に向けた。小隊を組むもの同士、相手の情報は知っておかなければならない。これは探険士同士の挨拶代わりの仕草だ。
「即席の小隊だけど、よろしく高井君」
「こちらこそ。深谷さん」
※
若葉も同じ1レベルであり、歳は一つ上らしい。探険士を始めて一年ほどで、蒼介と同じく学生をやりながら探険士としてのほとんどを単独で活動しているという。近しい年頃にも関わらずそれほどの経験を積んでいることに、蒼介は驚きを隠せなかった。
若葉は灰被りの樹林を知り尽くしている。この灰色の世界は生息する魔種までもが灰色だ。それゆえに騙される。いわゆる擬態を行う魔種が非常に多いのだ。
慎重に歩を進める若葉の足取りが止まる。何を、と思ったら蒼介に前に出て防御姿勢を取るよう指示して、呪文の詠唱に入った。
唱えたのは先ほどと同じ、水針。圧縮された水の針を無数に飛ばして相手を串刺しにする。性能の関係上、小隊での運用には向かないが、集団でまとまっている敵を一網打尽にしたり、視認できない敵をあぶりだすのには最適なのだとか。今回のように。
たまらず出てきたのは灰色の毛並みを持つ潜灰犬だ。茂みに紛れて近づく獲物に食らいつくその魔種は反面非常に臆病で、先制攻撃で傷を負うと逃げの一手に集中する。
その毛皮――石のような質感を持つのに柔らかい不思議な皮だ――は結構な値段で換金できるそうだが、逃げる潜灰犬を深追いすると白葉蜘蛛の巣に誘い込まれる。非常に繊細に編まれた灰色の糸を木の葉状に展開し、触れた獲物を絡め取り、潜灰犬と共にゆっくりといただくのがこの蜘蛛のやり方だ。この二種は共生のような間柄にあるらしく、潜灰犬が逃げ腰で弱い魔種だと勘違いして多くの探険士が被害に遭うらしい。
先ほどの灰鴉にしても、普段は枝に止まって背景の枝葉に一体化して、目を凝らさないと気づくのが難しい。
蒼介が一番驚いたのは放浪石樹だ。なんと石の樹そのものが魔種で、これは本物の石樹とほとんど見分けがつかない。じっくり観察すれば呼吸――地下では魔素を吸い込むためあらゆる魔種が行う――の僅かな脈動が見て取れるということだが、蒼介にはついぞ見分けることができなかった。
「あれと、あれと、あれ」
若葉が細い指先で示したものが息を潜めている放浪石樹らしいのだが、指定されたものがどれなのかさえ見分けるのが難しい。
放浪石樹をやり過ごすのは難しいと判断した若葉は、これの討伐を提案した。
「位置関係的に巻き込めるのは二匹。一匹は次の詠唱前にこっちに来ちゃう。だから」
「俺は盾役になればいいわけだな」
「うん。軽戦士の高井君に頼めることじゃないけど」
「小隊の穴埋めは軽戦士の役割だろ」
軽戦士は重騎士や魔術師のように守備・攻撃に特化した戦闘適正ではない。速さでもって敵をかく乱したり、鋭い一撃で剣役を担ったり、時には盾役もこなす。単独でも小隊でも戦いようはあり、型によって十人十色の役割を持つ。それが軽戦士だ。良く言えば万能、悪く言えば器用貧乏。だがどう呼ばれるかは本人の技量次第だ。
「援護するから、待ってね」
そう言って若葉が唱えた呪文は水覆。蒼介の体を水が覆った。
「防護ほどじゃないけど、衝撃を吸収してくれる」
巨大蛇蟲から放り出された蒼介を助けるのに使われた魔法がこれだ。あの時、何重にも唱えた水覆を纏った若葉自身がクッションになって蒼介を受け止めたのだ。
今かけられたのは一回分。とはいえ、ありがたい援護だ。
「これなら何時間でも耐えてやるぜ」
「そんなには無理だよ。高井君の鎧はかなり触媒を削られてる。戦闘の最中に離脱は勘弁してほしい」
離脱は探険士の命を守る呪文であるが、戦闘の最中に例えば守りの要である重騎士がいなくなれば後に残された者たちには苦境が待つ。自動発動もいいところばかりではない。
「あ、そういえばさ。早く帰りたいなら自分で離脱を――」
「それは駄目」
若葉の応えは迅速だった。そういう手段、選択肢は頭の中に置いてあるのだ。
だが、若葉からしてみればそれは下策。緊急時の際の最後の手段だ。
「触媒残量が読めない状況で下手にダメージを与えたら、離脱が発動する前に鎧を壊すかもしれない。そうなったら帰還方法をひとつ失って、危険が増す」
「そっか……加減の仕方が難しいんだな」
「剣で斬っても呪文を唱えても触媒は消耗するしね。高井君と一緒にいた人は、最初から小隊の皆の触媒残量を量ってたんだと思う。もしそういう手段を取る必要が出た時のために」
だとしたら鷲塚には頭が下がる。彼は三人の新人を率いてそこまでの気配りを行っていたのだ。
「できるなら君一人離脱させて、私は歩いて帰るのが手っ取り早いんだけどね」
「それは断る。先輩でもなんでも、こんなところに女の子一人置いて逃げ帰るってのは、格好悪い」
蒼介は毅然と言い放ち、水の皮膜を纏って石樹に向けて歩き出した。その後ろ姿を見ていた若葉の口端が緩んだ。
淀みない呪言語の詠唱と共に、若葉の手に握られた純白の杖へと体内魔素を集約していく。大喰魚の牙を芯にその骨材で覆った雫の杖は水を呼び起こす呪文の触媒として有能だ。生まれた無数の水の針の質は良好。高圧縮された水針は死をもたらす雨として放浪石樹に向けて飛んだ。
灰被りの樹林に住む魔種は見た目通り石のように硬い。だが、水針はその体を易々貫く。無数の針が穴だらけにした放浪石樹の体は一瞬にして崩れ去り、七色の粒子を撒き散らしながら地面に転がった。
難を逃れた一体の放浪石樹が擬態を止め若葉へと走った。根が二股に分かれて歩いて、いや走っている。上のほうについた大振りの二本の枝が前後に揺れているのは、あれは腕を振っているようなものなのか。ウロからは不気味な呻き声とも空洞音ともつかない音がもれ聞こえる。はっきり言って、不気味だ。どうやって敵を認識しているのだろう。目も耳もあるようには見えない。
多分、魔素だ。放浪石樹は一直線に若葉を目指している。たった今強力な魔法を解き放った若葉の周囲には濃い魔素の残滓が滞留している。それをどうにかして感じ取って、ヤツは狙いを定めているのだ。
「だけどな、注意しなきゃいけないのは深谷だけか!」
蒼介は放浪石樹と若葉の間に立ってファルシオンを振り上げた。叩きつける一撃は放浪石樹の右枝をへし折り、放浪石樹から苦悶するような音が轟く。同時に左枝がフックの軌道を描いて蒼介の横顔に迫る。反射的に体を捻り、左手に括り付けた円形盾で受けた。磯貝鍛冶店のトレードマークであるオウム貝の表面に透明な水の膜が揺れて弾けた。水覆がダメージを緩和してくれる。
左枝を払いのけ、幹にファルシオンを叩きつける。が、腰の入らない手打ちでは少々幹を削るだけで致命傷には程遠い。戦車蟻ならば間接の隙間を狙えたが、放浪石樹は全身が石の鎧だ。この太い幹を破壊するには純粋に力が足りない。
だが、それでも構わない。今の蒼介は盾役だ。剣役は後ろに控えている。
「水針……!」
鋭く染み込む様な詠唱の声音と、放浪石樹の断末魔は酷く不釣合いだった。
巨大蛇蟲に飲まれた時、荷物を失わなかったのはやはり幸運だったろう。燃鼠の皮袋に放浪石樹の固着した枝葉を押し込んで、二人は慎重な足取りのまま東を目指す。
途中、若葉は何度も魔種の足跡を見つけ、それを回避するように回り道を繰り返している。この三百六十度同じ景色ばかりが続く灰被りの樹林で、よく方向感覚を失わず進めるものだと、蒼介は感心ていた。
だが、若葉の表情は進むごとに曇っていく。進行方向を確かめるたび、後ろを振り向く回数も増えた。歩調にも、どこか焦りのようなものが感じられる。
「なぁ、何をきょろきょろしてるんだ?」
たまりかねて聞いてみると、若葉は顔をあげて、幾分か迷う様子を見せた後、口を開いた。
「魔種が多い」
「そりゃ、地下層なんだから」
「そうじゃない。こんな近い距離で白葉蜘蛛や放浪石樹の縄張りが接する事はないの。ここの魔種は臆病で、他の魔種との食い合いにも慎重だから。だけど今日は遭遇する回数も多すぎる」
「どういうことだ?」
「人も魔種も、考える事は同じってこと。考えてみれば当然だよね」
魔種は魔種同士でも食らい合い、その身に魔素を溜め込もうとする。自分の力量で敵わない強力な魔種が現れれば遠ざかろうとするのは、同じなのだ。
「逃げてきた魔種たちが密集している。彼ら同士で食い合うなら問題はないけど、もしこっちに複数の群れが目をつけるとまずい」
蒼介と若葉はたった二人の小隊だ。若葉の見立てでは対応できる魔種は潜灰犬三匹の群れ程度と見ている。それも、後ろから奇襲されたのでは勝てるか、あるいは逃げ切れるかどうか怪しい。
「とすると、まずいんじゃないのか? 時間が経てば経つほど、こっちに魔種が集まってくる」
「うん。慌てたら駄目だけど、できるだけ急ごう。ここからは戦闘回数ももっと減らす。戦闘音に気付いて襲ってくるほど度胸はないと思うけど」
“いざ”という時が来る可能性が高いと分かったのならなおのこと戦闘能力の維持は大事だ。
そこからは進行速度は上がって行った。だが若葉は周囲の警戒を疎かにはしない。魔種も魔種で逃げてきてすぐに森に潜むことはしないようで、移動途中のものや様子を伺うようにじっと動かないでいるものも多く見られた。放浪石樹がのそのそと歩くのを横目に見た時は滑稽だとさえ思ってしまった。
東の絶壁は確実に近づいていく。
もう少し、と蒼介の心に希望が差したその時、後方からけたたましい雄叫びが聞こえた。
「潜灰犬? でも、どうして」
森に潜み獲物の喉首を噛み千切る一瞬を伺う狩人が、存在を主張するように鳴くような事は滅多にない。
あるとすればそれは、仲間へ語りかける時。狩りの始まりを示す、合図だ。
「来る……!」
若葉が振り向き、雫の杖を突き出した。そのまま呪文の詠唱に入る。
蒼介はファルシオンを抜いて若葉と同じ方向を注視した。物言わぬままの戦闘体勢への突入。それは猶予のない事を示していた。
そのほとんど直後。灰色の茂みから三匹の潜灰犬が飛び出した。その威容を見て蒼介は思わず一歩、後ずさった。
大きい。三匹のうち先頭を切る一匹は、他の二匹よりも二回り大きな体を持っていた。体毛は触れたものを串刺しにするように鋭く伸び、大きく裂けた口からはおぞましく成長した牙が覗く。その右目は探険士によってつけられた傷によってか、塞がれていた。
魔素を食らい成長した魔種。ここまでの差異を生み出すものなのか。
考えている間に隻眼の潜灰犬が蒼介を丸呑みにでもするように大きな口を開いた。避ける、という選択肢はない。後ろには若葉がいるのだ。
この場で、受け止める――!
口に向けて円形盾を突き出す。構うものかと隻眼の潜灰犬は盾に齧りついた。紋様光が輝きめきめきと嫌な音を立てる。触媒が削れきっていないのに、盾そのものに圧力がかかっているのだ。恐ろしいまでの力だ。
さらに、両脇から取り巻きの潜灰犬も蒼介の体に噛み付いた。体をばらばらに引き裂かれる想像を払いのけながら、右手のファルシオンを逆手に持ち直し、潜灰犬の脳天へ突き立てる。
ぐたりと事切れた右の潜灰犬から刃を引き抜き、左に移ろうとした時、正面で嫌な音がした。陶器の割れる音に似ている。耳から耳へ貫くような鋭い破砕音。
防護が破壊される音だ。
円形盾の触媒が尽きた。魔法による庇護がなくなった木盾はあっさりと砕け、隻眼の潜灰犬の口へと消えていった。そしてヤツは蒼介の左腕に齧りつく。
GMアーマーにかけられた防護が尽きれば、その時点で蒼介の着ているのはただの鉄塊であり、魔素攻撃への抵抗力は一切なくなる。つまり、蒼介はこの潜灰犬の群れに食われる。
いや、それよりも恐ろしいことがある。
もしも今ここで離脱が発動したら――蒼介は逃げ仰せ、若葉は一人、ここに残される事になる。
魔術師である彼女が単独で戦闘を行うのは危険だ。蒼介以上に死の危険が大きくなる。
それだけは、避けなくてはいけない。
「くっ、のおおおお!!」
蒼介は左腕を押し上げた。僅かにだが、潜灰犬の口の隙間が広がる。中には鋭い牙が並んでいた。
だが、こんなものがなんだ。さっきまで慎重ほどもある歯に挟まれていたんだ、こっちは。
隙間にファルシオンを突き入れ、思い切りかき回してやった。魔種の構造がどうなっているかなんて知らないが、返ってきた感触は先ほど小型の潜灰犬に刃を突き立てた時より柔らかな気がした。それでも硬質な感触に、がりがりと何かの削れるような音。だが、口内を刻まれてなお隻眼の潜灰犬は蒼介から離れようとしない。口からゲル状の魔素を吐き出しながらなおも喰らいつく。我慢比べのつもりか。
「けどなっ……」
蒼介はそんなつもりはない。
今の自分は守備役。攻撃役が敵を仕留めるまで、戦線を維持するのが仕事だ。
「水ッ……針!」
大人しいイメージのある若葉にしては、張りのある声だった。そして飛んで来た水針は何度か見たものよりも太く、大量だった。きっと体内の魔素をかき集めて撃った、渾身の一撃だったに違いない。
腹に無数の水針を受けた隻眼の潜灰犬の全身にヒビが入る。たまらず蒼介から離れ、距離を取った。その隙に蒼介は左わき腹に噛み付いた潜灰犬を切り払う。
「サンキュー深谷!」
残る隻眼の潜灰犬は、だが、あの水針を食らってなお立っていた。闘志にも衰えがない。獲物を狩るそのためにじっと蒼介へ一つしかない目玉を向けている。その体はぼろぼろだ。若葉の空けた穴を中心に全身がひび割れ、粒子状、あるいはゲル状の魔素が漏れ出している。魔素が漏れすぎれば魔種は身体を維持できなくなり、死ぬ。攻撃のためには魔素を消費する必要があるから、魔種たちはいわば戦う毎に命を削っているようなものだ。
いずれにしても隻眼の潜灰犬は戦うことの難しい身体である。だというのに退く気配がない。
逃げ道は、ないのかもしれない。後方に下がれば他の魔種がいる。同じ潜灰犬同士だろうと魔種は他の個体を容赦なく食らう。蒼介たちを倒して先に行くしか、この狼に生きる道はないのだ。
だが蒼介とてここで死ぬわけにはいかない。ファルシオンを両手で握りこむ。片手では潜灰犬の硬い体毛を深く斬り裂く事はできない。
真っ直ぐに隻眼の潜灰犬へ突撃して、力いっぱいに刃を振り下ろす。だが隻眼の潜灰犬はそれを跳んでかわすと、続けざまに蒼介に飛び掛り、前足で鎧を薙いだ。紋様光が煌き衝撃が蒼介を襲う。だが、隻眼の潜灰犬は深追いせず、一撃をくれるとすぐに離れた。
戦いの様子を後方から見ていた若葉は、隻眼の潜灰犬の能力に驚くばかりだ。
体内に蓄積していた魔素の六割もを消費して撃った渾身の水針に耐える強靭な身体、溜め込まれた魔素量。そして、蒼介に長く噛み付けば反撃を食らうと学習するや、あの魔種は鋭く確実な一撃を与えて逃げるという戦法に出た。
恐らく、隻眼の潜灰犬は人間との戦闘経験がある。そしてその中にはあわやのところで離脱により取り逃がした獲物もあったのだろう。それを知っている。
奴は触媒防具というものの性質を理解している。削っていけばいずれは防護も尽きる。そうなれば後は脆い防具の残骸に、柔らかい肉があるだけだ。人間の肉体など易々噛み千切る事ができるはずだ。
蒼介は剣を振り回し、隻眼の潜灰犬に追いすがるが、手負いでも向こうの方が速い。斬撃をよけられてはカウンター気味に爪や牙による攻撃を受けてしまっている。そのたび紋様光が輝き、鎧から七色の粒子が飛び散る。
ジリ貧。そんな言葉が若葉の脳裏を過ぎった。
掠めるような攻撃だからこそ触媒の減りは緩やかだ。だが隙あらば大きな一撃を叩き込もうと隻眼の潜灰犬は常に狙いをつけている。対して蒼介はここまでの疲労から、動きに精彩を欠き始めている。
せめて、離脱が発動してくれれば――などという事を若葉は考えなかった。
若葉にも探険士としての矜持がある。探険士は地下層に赴き、魔種と戦い更なる深みを目指す。地上に叩き返される事は敗北を意味するのだ。
この場での勝利とは、潜灰犬を倒し、その戦利品を持って自らの足で地上に帰ること。
蒼介が戦い続ける以上は、二人そろって勝つための手段を模索する。それが若葉の務めだと思った。
高井蒼介。彼は若葉も感心するほどによくやっている。三匹の潜灰犬に食いつかれながら、一歩も怯むことなく耐えた。巨大蛇蟲との遭遇がつけた度胸かもしれない。あるいは、若葉の事を信じてくれていたのかもしれない。おかげで最大の威力の魔法を叩き込む事ができた。
矛役である自分の役目は敵を倒す事だ。だが、隻眼の潜灰犬が蒼介の周りを動き回って、狙いを定めるのが難しい。
だったら、蒼介ごと巻き込むしかない。
若葉は詠唱を開始した。
幾度もファルシオンを振り回すが、毛先でさえ掠めることができない。だんだんと灰色の姿を正面に捉えるのも難しくなってきた。辛いのは相手も同じだ、などと心の中で嘯いてみせても現実にある差は明白だ。こちらの防護は確実に削られている。
敵の動きを上回ろうとした。先を読んで動こうとした。カウンターを狙った。だが、にわか仕込みでさえない思いつきの戦法で捉えられる相手ではなかった。蒼介には能力も経験も、この敵を倒すための全てが不足している。
せめて、この刃が届きさえすれば……。
曇りかけた思考に不意に刺激が舞い降りた。乱暴にぶつけられた冷ややかな、水。
頭上に出現した巨大な水球が弾けて、蒼介と隻眼の潜灰犬を覆った。
「水覆?」
若葉だ。援護してくれたのだろうか。だが、なぜ敵にまで? 狙いがそれたのか。若葉だってミスすることくらいはある。だが一撃入れるのすら難しいこの状況でさらに敵の防御力を強化してしまうのは、致命的な手違いではないだろうか。
思わず頭を捻って若葉を見る。
フードの下から覗く彼女の瞳は何かを訴えかけるように蒼介を真っ直ぐ見つめていた。そして、すでに次の詠唱に入っている。
違う。ミスじゃない。
何かを企てている。若葉には勝算がある。
蒼介に伝えないで実行したのは、そんな時間はないから。余裕がないから。必要がないから。
僅かな時間での付き合いしかない蒼介が自分の策を理解し乗ってくれると信じての行動だ、と蒼介は勝手に思うことにした。
どうせ打開策はない。最初から指示は全て若葉が出していた。だったら自分は役割を果たすだけだ。
蒼介の身体を覆う水の膜は隻眼の潜灰犬の爪と牙によって易々削り取られる。若葉は何度も水覆を重ねてかけた。中には狙いが逸れて地面に大きな水溜りを作ったものもある。蒼介と隻眼の潜灰犬が戦う足元は土砂降りの雨のあとのようだった。
やがて、水覆による援護がなくなった。魔力が尽きたのか。
いや、余計な事を考えるな。俺はただこいつに――!
噛み付かれる瞬間を狙ってファルシオンを振り下ろす。だが、毛先を削っただけで有効打には程遠い。蒼介の身体から水覆はすっかり消え去った。一方、隻眼の潜灰犬は分厚い水の衣を纏いながら悠々と蒼介の鎧を傷つけていく。
諦めるという言葉が頭の中から抜け落ちたように、蒼介は隻眼の潜灰犬の影を追い続けた。
もう何回目になる空振りの直後。
「氷結」
初めて聞く呪文。寒気がするような錯覚を覚えた。
違う。錯覚じゃない。寒気でもない。明確に、寒い。
水の撒かれた地面が凍りついた。空気中の魔素を反射してきらきら光る氷の床が一面に展開する。そして、水の鎧はそのまま氷の拘束具へと変化した。四肢の先まで水に覆われていた隻眼の潜灰犬は、今や氷によって地面に繋ぎ止められ、身動きが取れなくなっていた。
若葉の狙いはこれだ。周囲に水溜りをつくり、わざと潜灰犬を水覆で囲い、この場に繋ぎ止めた。何度も水覆を使ったのは足元に水溜まりを生み出すため、その狙いを悟られないため。
それだけではない。彼女は蒼介の水覆が剥がされる事も含めてこの作戦を取っていた。水覆が剥がされきった蒼介は足元こそおぼつかないが、自由に動くことができる。氷の拘束具に全身を絡み取られた哀れな潜灰犬にとどめの一撃を与えるには、十分だ。
「一対一なら、負けてたけど――悪いな」
剣を振り下ろす瞬間の潜灰犬の隻眼は、悔しげに蒼介を見つめ続けていた。