003
その後の探険は順調と言えた。
混蟲迷宮は柔らかい土でできた層であり、そこに戦車蟻や蛇蟲、億千百足といった魔種がひしめき合い、己の縄張りを主張するように穴を掘り続けた結果、迷宮化したのだとされる。
そして現在、この縄張り争いに割って入る者がいる。探険士と呼ばれる人間たちだ。
蒼介たちが地下世界に潜って三時間ほどが経った。ここまでに倒した地下生体は戦車蟻が二十六体、蛇蟲が一体、億千百足が二体。
「どうも今日は静かだな。いつもなら戦車蟻が飽きるほど出てくるものなんだが」
鷲塚はのん気に言うが、蒼介たちはそんな悠長に構えていられるほど余裕はなかった。
戦車蟻が左右の通路から挟み撃ちを仕掛けてきたときなど、片側を鷲塚に抑えてもらっていたから蒼介たちは三人のみで戦車蟻に対処しなくてはならなかった。小隊の盾役を務める鷲塚のいない戦闘は緊張感が段違いで、攻撃の捌き方も分からない蒼介は何度も戦車蟻の牙に噛み付かれた。触媒防具に付与された防護が効いていなければ命を三、四つ落としていただろう。
「……堀井のおじさん、いい防具ありがとうございます」
身に着けているGMアーマーの触媒残量も十分。これならまだまだ戦える。
鷲塚を先頭にして小隊は混蟲迷宮の道をひた進む。降り始めた頃には探険士たちの手で設置されたらしき魔術灯が穴を明るく照らしていたが、奥に進むとその恩恵もなくなり、迷宮はさらに複雑に、無秩序に広がっていく。
「しっかし、一体どれくらい広いのかねぇこの巣は」
一村からあがったそんな疑問の声は皆が思うことだろう。
「地下層の測量はほとんど進んでいないんだ。というのも、地下へは天然に空いた穴からしか侵入できないからね」
それは、蒼介も講習の際に聞いた。
世界中どこでも、地表から百メートルほど掘り進むと硬質層と呼ばれる岩盤にぶち当たる。その先は地上のどんな技術を用いても掘る事ができないのだそうだ。
地下世界の入り口は、その硬質層に空いた小さな傷、亀裂のようなものだ。
「硬質層はいわば地下世界の殻みたいなものだと僕は思ってる。地上と地下を別つ壁という表現もよくされるな――と、話が逸れたが、そういった事情で大型の機械の持ち込みは難しい。魔種の存在もあるしね。混蟲迷宮に関して言えば、測量できたとしても蟲どもが新しい穴をせっせと空けてしまうから意味がないとも言えるな」
「吉祥寺ダンジョンは日本にある地下層では比較的規模の小さいものだと聞いていますが、私なんかにはそれでも途方も無い大きさに思えてしまいますね」
原野の言うとおりだ。吉祥寺地下層は現在発見されている最深部が八層。このとんでもないスケールの迷宮がまだ序の口でしかないのだ。この先にもどんな世界が待ち構えているのかと思うと、蒼介の胸は自然と高鳴った。
「ようし、混蟲迷宮中を踏破してやるぜ!」
意気込んだ蒼介の視界に、一村の真剣な顔つきが映った。通路の一本を注視して集中している。探険中、何度か彼はそういう仕草をしている。
「……敵か?」
邪魔にならないように声を潜めて聞いてみると、応えるように一村は通路の先を指差した。
それと同時に通路に影が出現する。
「また戦車蟻か! 何匹でも来いッ」
が、先ほどまでと様子が違う。何メートルか走ってきた戦車蟻は不意に歩みを止めた。そして壁に向けて頭を突っ込んだ。もぞもぞと頭を動かしている。なんだ?
「……あれ、もしかして砲撃蟻じゃないですか?」
原野が顔を青ざめさせている。
「戦車蟻科の魔種で、敵を見つけるとああやって周囲の土や岩を口に含んで準備を始めるんです」
「準備? なんの?」
「攻撃の、だな」
鷲塚が三人の前に出て、女神の抱擁を正面に構えた。
「わ、鷲塚さん! 無茶ですよ、砲撃蟻が口から放つ弾丸は戦車砲並みと言われてるんですよ!?」
「なぁに。“鋼女”の防具は伊達じゃあないってところをお見せしよう」
鷲塚の獰猛な笑みほど三人にとって心強いものはない。彼の体が絶対不落の巨壁に見えてくるほどだ。
鷲塚以外の三人は鷲塚より後ろに陣取り、固唾を飲んでその時を待つ。
一瞬の静寂。それを打ち破ったのは砲撃ではなく、不可解な振動だった。
「揺れてる?」
「な、なんですかこれ??」
振動は大きくなっている。しかも急激に。混蟲迷宮そのものが揺れているようにさえ感じる。
「……ッ、一村君!」
不落であるはずの鷲塚の声音が震えていた。
「わかんねーよ! でも、アイツが来る時に似てる、ミミズ野郎……」
一村が叫んだ直後、通路の奥に居た砲撃蟻の姿が突き破るような爆音と共に足元からせり出した巨大な柱に呑み込まれた。
柱。そのように見える何かが、地面から突き出し、天井を破って走っている。とてつもなく巨大だ。通路を埋め尽くし、視界は柱でいっぱいになっている。
一村の言葉と経験から、鷲塚はひとつの答えを得た。
「蛇蟲!? だがッ……あまりにデカい!」
観測された世界最大の蛇蟲は全長八十二メートル、胴回りは一メートルほどの個体だ。だが目の前で今も――恐らく混蟲迷宮内を掘り進んでいるであろう蛇蟲は数百メートルを優に超える。通路は幅一メートルほどだが、両脇の壁を突き破るほどに胴体は太い。砲撃蟻は一瞬のうちに呑み込まれたに違いない。
「め、めめめめ脅威ぅぅ……!?」
絶望的な声音で原野が呟く。
脅威とは地下層内に現れる魔種の中でも、並の探険士では太刀打ちできない強力無比な力を持つ個体を指して言う言葉だ。発見された脅威は組合によって警戒警報が出されるとともに懸賞金がつく。
目の前に現れた蛇蟲は未発見の固体だが、この巨体だけでも紛れもなく脅威級と判断できる。
「嫌な予感が当たったか……どおりで浅い場所にまで蟻共が逃げてきていたわけだ! 全員、今すぐ――」
襲撃に最も早く気づいたのはやはり一村だった。
「上、来る!」
「ッ……散れぇぇぇッ……!!」
一村の言葉の直後、鷲塚があらん限りの大声で叫んだ。
鼓膜を破らんばかりの大音声、降り注ぐ岩土。その中で一瞬だが確かに蒼介は見た。
くすんだ砂のような色をした口内を暗黒の喉奥めがけて縦横無尽に埋め尽くす数千の鋭い牙。その何十本かには固着化した魔種の破片が引っかかっている。巨大蛇蟲の口は地獄への入り口だ。
鷲塚の言葉に反射的に体を投げ出し、呑まれることだけは避けた。だが、通過した際の衝撃だけで全身を包む防護が割れんばかりの悲鳴を上げ、鎧の触媒が急激に消費され悲鳴のような消失音と共に七色の粒子を噴き上げる。掠っただけで戦車蟻に噛み付かれた時とは比較にならないダメージを受けている。
一村、原野も同じく弾き飛ばされて転がっている。唯一鷲塚だけが女神の抱擁を地面に突き立て腰を落とし、膝立ちで耐えていた。
目の前で暴風が荒れ狂うような衝撃はたっぷり二分続いた。巨大蛇蟲の尻尾が消えた時には直系三メートルの大穴を取り囲む面々の顔色はどれも絶望に染まっていた。新幹線にひき逃げでもされた気分だ。
「走れ!」
鷲塚が呆然とした自我を引っ張り戻すべく叫んだ。
「入り口まで、とにかく走るんだ!」
鷲塚の声に叩かれるように三人は飛び跳ねた。一心不乱に元来た道を走る。
「一村君先行、前方警戒! 原野さんは地図を見ながら案内! 高井君は二人の間に立って、敵が出現したら始末するんだ!」
こんな事態だというのに鷲塚の指示は迅速で的確だ。さらに自分は殿を務めようというのか。背後に背負った破砕滅槌を引き抜いて、時折後ろを振り返りながら蒼介たちの後を追う。
「クッソ、アイツの振動がでかすぎてワケわかんねぇ……!」
激しい振動音はずっと続いている。ヤツはこの周辺の獲物を食い尽くす気だ。聴覚の優れる一村には騒音でしかなく、そのせいで他の敵の発見が遅れるかもしれない。
「わき道とかは俺が注意しますから、一村さんは耳に全力で!」
一村は振り返って蒼介に頷いた。こんな時だが、なんとなく蒼介はその事を嬉しく感じてしまった。
「やべぇ、後ろ、来る!」
一村の叫びは後方に位置する原野と鷲塚に届いた。二人が走る速度を上げると、鷲塚のすぐ後ろを巨大蛇蟲が貫通した。
鷲塚は衝撃に吹き飛ばされる事なく耐えながら、足を前に振り出す。原野は髪を振り乱して内臓全て吐き出してしまうような勢いで呼吸して、死に物狂いで駆けている。一村の表情にも悲壮なものが浮かんでいる。
蒼介だけだ、口角を釣り上げて、瞳を目いっぱい見開いて、笑いながら走っているのは。
恐怖もある、不安もある。頭の中は滅茶苦茶に考えが走って、冷静とはとてもいえない。だが、蒼介自身すら気づいていないが、確かに彼はこの事態を楽しんでいた。
今のところ奴の動きは全て縦だ。上から食い破って、下へ抜ける。蛇蟲は穴を通る獲物の不意を突くためにそうした動きをするのだという。いくら図体がでかくても、それは変わらないらしい。
だとするならば一度突撃さえかわせば、奴の口が再び襲ってくるまでには時間の猶予がある。逃げ切る余地はあるはずだ。
だが、蒼介は――いや、他の三人だってそこまで考えが至るはずもない。
ここは混蟲迷宮。空いた通路は全てここに棲む地下生体の掘った穴だ。それらは簡単に崩れるような出来ではないとはいえ、怪物の起こす振動と衝撃に耐え切れるはずもない。
不意に轟音と共に一村の右方向に伸びていた通路に巨大蛇蟲は現れた。それだけならば“ハズレ”だが、そのもたらした振動によって前方の通路が無情にも崩れ落ちたのだ。
「道が塞がった!」
「え、え、え、え、右に迂回路がっ……」
「右ィ!? 今化け物が通過中だぞ!」
「行くしかない! ヤツが通り過ぎた後に……」
「三メートルもある大穴をどうやって飛び越えるんすか!?」
鷲塚が言葉に詰まる。
詠唱者を地面から浮かせる浮遊は唱えられる。だが浮かんだ鷲塚が三人を抱えて穴を通過するにはそれなりの時間がかかる。今から彼らに呪文を教えたとしても、この精神状態では安定した発動は望めまい。そして、この後も出口まで巨大蛇蟲を避け続けられる保証はない。
ならば――。
「……すまん!」
蒼介は鷲塚が破砕滅槌を原野めがけて横なぎに振り払うのを見た。
原野は驚愕に目を見開きながら吹き飛んで……壁に叩きつけられた直後、その体が紋様光に包まれ消えた。
鷲塚による、触媒残量を見切った上での強制離脱発動。これが唯一彼らを生かして帰す方法だ。
「動かないでくれよ、高井君……!!」
鷲塚の行為は悪意からではない。むしろ善意だ。そしてこの絶対的絶命の状況からよくぞ思いついたと賞賛できるアイディアだ。でも、はっきり言って怖すぎる。屈強な鎧姿の鷲塚が背丈よりも大きな槌を振りかざすのだ。それで自分を殴るというのだ。
だが、それでも間に合わない。
鷲塚の頭上にある天井が破裂した。そこから現れたのは地獄の入り口だ。
降り注ぐ土砂と、数々の音が混ざり合い、誰かの叫び声も耳に届かない中で。
蒼介は振られた鷲塚の破砕槌を掻い潜ってその体にあらん限りの力で体当たりを仕掛けた。破砕槌を振り抜いた鷲塚はバランスを崩して転がっていく。硬い金属鎧に頭から突っ込んだ蒼介はうめき声のひとつも上げたい気分だった。
実際は、声ひとつあげる間もなく蒼介の体は巨大蛇蟲に呑まれたのだが。
※
蛇蟲は土砂を食みながら地中を移動する性質を持っている。その際に一緒に進路上にいる獲物を呑み込み、噛み砕く。これが同じ魔種ならばそうして魔素を取り込むのだが、他の異物は噛み砕くだけ砕いてその管状の体を通って後端の肛門から排出される仕組みになっている。口内から消化器官に至るまで、蛇蟲の体内にはびっしりと牙が生えている。この巨大蛇蟲は牙一つとっても人間大の大きさを誇る化け物だ。
だが、その事が幸いした。巨大な牙同士には隙間が多く、蒼介はその隙間に潜り込み蛇蟲の口にファルシオンの刃を突き入れて、口壁に張り付くようにして生存していた。
土砂とともに飲み込まれ、くしゃくしゃに掻き混ぜられながら口内を流される中で発見した一瞬の隙だった。
だが、激しく鳴動する口内にいつまでも留まり続ける事はできない。今も土砂や砕かれた戦車蟻の残骸などが蒼介の体にぶつかりながら奥へと流されていくし、呼吸する度に土が口に入る。体力が尽きてファルシオンを握る手を離してしまえば、辿る道は蛇蟲の排泄物だ。
ここから出る方法を考えなくてはならない。
けど、どうすれば?
呼吸で精一杯なので呪文を使うことはできない。そもそも蒼介の使える呪文は講習時に習った灯火くらいのものだ。呪文を習うには別途講習料金がかかる。そこまで手が回らなかったし、講習を受けて探険に出られる時が延びるのを嫌ったのだ。
鷲塚が原野にしたように、鎧の触媒残量を削って離脱する手もある。だが、唯一の武器であるファルシオンは楔代わりに使ってしまっている。流れ込む土砂ではダメージには程遠い。自ら巨大蛇蟲の牙に身を躍らせれば――恐らく一撃で鎧と蒼介の体を貫く。
噛み砕かれる前に自分で鎧を傷つけて離脱する……土砂の濁流と上下に迫る無数の牙の中で果たして可能かどうか。
蒼介が意を決しようとファルシオンを握る手に力を込めたとき、違和感が襲った。
時間が止まったかのように、土砂流れと口内の鳴動が止んだのだ。
何があったのか。腹がいっぱになって休憩? 眠くなった?
どっちにしてもこれは好機だ。いつまた巨大蛇蟲が動き出すか分からない。蒼介はファルシオンを引き抜いて、土砂の上に降り立った。
進むべき道を確認するために周囲を見回すと、蛇蟲の体奥には想像していた暗闇とは少し違う光景が広がっていた。薄い七色の、なにか。光の塊のようなもの。それを見続けていると、心の内に何か不安感のようなものが沸きあがってくる。だが、同時に何か惹きつけられるような思いも感じる。
それがなんなのか気にならないではなかったが、蒼介の本能は生存への道を選んだ。後ろ髪引かれる思いを振り切って蒼介は出口に向けて歩き出す。
巨大蛇蟲が噛み砕いた土砂は柔らかかったが、それでも土を掻いて進むのは苦労する。
自分が今どのあたりにいるかは分からない。これが一本道の体内でなく枝分かれした混蟲迷宮の中だったら、心が折れていただろう。
だが、歩き続けて光を目にした途端、土を掻く手は力強さを増した。頬に強い風を感じて、外が近いことを実感する。
……強い風?
地下で風が吹く事など、あるのだろうか。疑問に思いながらも、進む以外に選択肢はない。蒼介は歩き続け、ようやく口の縁に手をかけた。
そこで、土の混ざっていない空気を目一杯吸い込んだ後、絶句した。
目の前に広がっていたのは灰色の空と、石造りの樹林。
眼下に見える景色一面が石でできた樹で埋められていた。幹も、枝も、葉も、全て灰色の石でできている。
さっきまでいた混蟲迷宮ではない。地上でもない。一体どこにいるのか……いや。
「コイツ、空飛んでる!?」
そう、巨大蛇蟲が食事を止めた理由は明快だった。その進路上に土砂はない。空中を進行しているのだ。
だが蛇蟲に飛行能力があるわけではない。恐らく混蟲迷宮の底を食い破って別の層に飛び出た。灰色の空など地上にはない。信じがたいが、ここもまた地下層なのだ。
そしてもっと信じがたいことに巨大蛇蟲は今、この層の地面に向けて猛スピードで突っ込んでいる。落下しているのか、それとも蛇蟲の習性として地面に潜ろうとしているのか。
「冗談じゃないぞ!」
蛇蟲の進行上にあるのは無数の石樹だ。もしあれを食ってその破片が流れ込んで来たら今度こそ蒼介は耐えられない。それ以前に、今、口のすぐ傍にいるのだ。噛み砕かれる前の石樹に激突して死ぬ可能性のほうが高い。
だが、状況はまだマシになったといえる。
今この場から飛び出してしまえば、生還できる可能性はあるのだから。
迷いはほんの一瞬で済んだ。蒼介は巨大蛇蟲の口からその身を躍らせた。
GMアーマーの触媒残量は落下の衝撃に耐えうるだろうか。離脱が発動すれば良し、そうでなければ……高速移動する電車から飛び降りて石像に激突するのはどれくらい痛いだろうか。なんてことを考えながら目を閉じ、衝撃に備えるように体を丸めた。
浮遊感と風を切る感覚が長く続いた後、何かにぶつかる。だが、それは思ったような硬いものでもなかった。痛みも想像よりだいぶ少ない。冷たい、と感じた直後には何か暖かくて柔らかいものに包まれた、そんな感じだった。
蒼介の体は何回転もして止まった。目を開けると真っ暗だ。暖かくて柔らかいものに顔が埋まっている。クッションか何かの上に落下したのだろうか。
「大丈夫?」
人の声だ。女の子の声。
顔を上げると、声の主はすぐ目の前にいた。目と鼻の先。蒼介は見上げるような形になっている。頭巾が影を作っていて全容はうかがい知れないが、静かで穏やかな瞳だ。口を堅く引き結んで、蒼介の事を見下ろす。額にかかる髪から水の雫が垂れていた。
「大丈夫?」
二度目。その問いに蒼介は答えあぐねた。状況がわからない。自分が大丈夫なのかそうでないのか、一体なにがどうなったのか。とりあえず体に痛みはあるが、動けないほどではないようだ。
「うん」
短く答えると女の子はじゃあ、と繋げ、どいてくれるかなと言った。
それで、ようやく状況を察した。蒼介はこの女の子に受け止められたのだ。巨大蛇蟲の口から飛び出して、石造りの建物に激突する代わりにこの子の胸に飛び込んだ。蒼介の顔は彼女の胸に密着していた。どうりで柔らかいと思った。
「って! ご、ごめん!?」
蒼介は弾けるような勢いで起き上がった。その動作をじっと観察するように見てから、女の子も起き上がる。
不思議な印象を持った娘だ。立ち上がってみれば蒼介よりも頭一つ分背が低い。身に付けているマリン・メイジ製の頭巾と外套も落ち着いた深い群青色の品の良いデザインで、手にした杖は人真似樫の腕枝で造られる一般的な魔術師用のそれとは違い、白くてつるりとした質感を持っている。
上からの視線になると頭巾と長い前髪に遮られてよくわからないが、静かに佇むなあの瞳と相まって、彼女を見つめていると時間の流れが緩やかになったような錯覚を覚える。
よくよく見てみると二人ともずぶ濡れだと気づいた。周りには大量の水で濡れた形跡がある。池にでも落ちたのだろうか。だが、今いる場所は石の樹木の幹しかない。
「ありがとな」
礼を言ってから改めて周辺を見回した。どこまで行っても灰色の樹木、灰色の空。
「どこなんだ、ここ」
「吉祥寺地下第二層“灰かぶりの樹林”」
短く答えた少女は僅かに顎をあげて蒼介に視線を合わせた。
「私、深谷若葉」
「あ、俺は高井蒼介だ。よろしく」
「じゃあ、高井君?」
若葉が灰色の空を見上げた。
「逃げようか」
「へ」
灰色の森に灰色の空。灰色しかないこの世界はモノの見分けがし辛い。
その中に動くものがあった。鳥だ。三十センチほどで鋭い嘴を持っている。数十羽が羽ばたいて、こちらに向かってきている。
「今の騒ぎで灰鴉が集まってきたみたいだから、危ないよ」
すでに若葉は駆け出していた。灰鴉はのん気に野次馬に来たわけではない。蒼介と若葉を捉えている。動くたびに軋むような重たい音が響いた。羽ばたきの音なのか。数十羽が一斉に羽ばたくものだからちょっとした騒音だ。
駆け出した蒼介の背中めがけて、灰鴉の一羽が急降下による体当たりを仕掛けてきた。蒼介の足元、やはり灰色の地面に突き刺さる。体ごとの特攻。
鋭い弾丸のような体当たりだったが、石の地面に嘴を突き立てて、もごもごと脱出を図っている姿はどんくさい。
馬鹿じゃないかと蒼介は思った。今この状態ならば攻撃し放題だ。やってやる、とばかりに剣を振り上げた矢先、頬をもう一羽の灰鴉がかすめていった。
そうだ、灰鴉は一羽きりじゃない。上空の灰鴉は次々と翼を折り畳んで降下姿勢に入る。
灰鴉の特攻は自爆じゃない。複数の灰鴉による絨毯爆撃だ。しかも、他の鴉を避けている間に最初に突撃した灰鴉は嘴をもぞもぞ動かして地面から引っこ抜いて、また羽ばたく。連携が取れていやがる。
「灰鴉は集団で狩りをするの。三組に分かれて、突撃を時間差で繰り返す。体が小さくて素早くて数が多いから剣で相手するのは大変だよ」
前を走る若葉は冷静だ。淡々と作業のように灰鴉の突撃をかわす。それでいて走る速度が落ちない。ほとんど後ろを振り返りもせず、まるで灰鴉が自ら若葉を外して突撃しているみたいだ。
「でも、動きは直線的で、降下中に軌道を変えたりはできないから。逃げるのは楽」
「逃げるだけなのかよっ!?」
「もちろん、違う」
若葉はそれきり話すのをやめた。数秒ほどの詠唱。そして立ち止まり、振り返りざまに手にしていた杖を突き出した。
「水針」
ゆらめく水の球が杖から発射され、灰鴉の群れの中で爆発して鋭い針となって四散した。圧縮された水の針は灰鴉たちの体を易々貫き、砕き、断末魔の叫びを織り交ぜながら灰色のカケラがぱらぱらと地面に落ちていく。
走りながら、呼吸を乱さず、正確な呪文詠唱。そして確かな威力。呪文の扱いに熟達していなければできない攻撃だ。
が、全てが倒されたわけではない。二羽の灰鴉が水針を掻い潜って決死の特攻を仕掛けてきた。呪文を放ち、足が止まった若葉には避けれない。
「だりゃあっ!」
破れかぶれに蒼介はファルシオンを両手で握り、野球の打者のごとく灰鴉を打ち返した。灰鴉の羽が胴体から切り離されて制御を失い、地面に落下した。振りぬきざまに回転するようにしてもう一羽の突撃をかわし、地面に突き刺さった灰鴉をすかさずファルシオンで叩き斬る。羽をもがれて地面に這いずっていた一匹にも止めを刺し、空を仰ぐと残った灰鴉たちが逃げていった後だった。
「これで、さっきの借りは返したぜ」
若葉に振り返ると、彼女はこっちをじっと見ていた。
「灰鴉の相手、初めてじゃなかった?」
「見るのも初めてだったけど」
「そうなんだ……やるね」
一人で納得しているように頷いた若葉に、蒼介は首をかしげたが、どうやら感心されているらしい。
「君こそ、走りながら呪文の詠唱って、凄いな」
「呪言語を間違えず、体内魔素の集約を確実にやれば難しくないよ。むしろ前線で戦う軽戦士には必須の技能だと思うけど」
「そうなのか。いや、俺今日初めて潜ったもんだから。呪文もあんま使えないし」
「――はじめて?」
若葉が頭巾の下で目を丸くして、その後、怪訝そうに眉をしかめて蒼介に詰め寄る。
「1レベルの、初心者ってこと? そんな人がなんで脅威級の化け物の口から飛んでくるの。しかもこの灰被りの樹林に」
「それは、話すと長くなるっていうか、俺もまだ混乱してて」
「話して。詳細に」
「な、なんだってそんな事を君に話さなきゃいけないんだよ」
一方的な態度にさすがの蒼介も難色を示すが、若葉は引かなかった。
「借り、まだ返しきってもらってないよ」
「借り? 助けてもらったことなら、今助けた分でおあいこ……」
「私の胸は気持ちよかった?」
「…………話します」