愛しい狼には愛情を
それは学校が終わり、家までの帰り道でのことだった。もうすぐ家に着くというところで、なぜか目の前に犬が現れた。
いや、この言い方には語弊がある。正確には、ないはずの耳と尻尾があるように見える人間の男だ。
そう見えてしまう私がおかしいのかもしれないが、これは私の癖なので仕方がない。
すれ違った人たちを、犬っぽい、猫っぽいなどと、つい動物で何に似ているかを判断してしまうのだ。
好みの問題でいえば、私は犬が好きだ。犬だけにかかわらず、動物は好きだが、その中でも特に犬が好きなのだ。我が家で一緒に暮らしているのももちろん犬だ。
しかし、だからといって、犬のような男が好きかと聞かれれば、それは非常に難しい質問である。犬のようで思わず撫で回したくなるが、やはり人間ということでそれは戸惑われる。うん、実に惜しい…。
話が逸れつつあるので、そろそろ本題に戻そうと思う。つまり、私が何を言いたいのかというと、この非常事態をどう乗り切ればいいのかだ。
「…すまないが、もう一度言ってもらえるか」
私は長い沈黙を破り、目の前にいる人物に静かにそう言った。
「だから俺を飼ってくれないか?」
「……」
「俺を飼ってくれ」
「…そうか」
残念なことに聞き間違いではなかったようだ。最初からそう聞こえてはいたが、私の勘違いではないかと期待してみた。
ああ、言い忘れていたのだが、このおかしな発言をする人物は、犬のようであること以外にも付け足すことがあった。
私の記憶が正しければ、この男の名前は藤城 史狼。校内では知らない者はいないと思われる人物だ。
その理由としては、綺麗な黒髪に、耳にはピアス、そして平凡な私には眩しいほどに整った顔立ちをしているからである。
ふむ、これがいわゆる美形というやつか。私はその顔をじっくりと観察しながら心の中で呟く。
確かに美形であるが、なかなか鋭い目付きをしているため、冷たそうな印象を受ける。
しかも噂によれば、彼はその細身な体つきからは想像できないほどに、喧嘩が強いらしい。そのため女子から人気がありながらも、多くの者は彼を遠くから眺めているだけのようだ。
「…だめなのか?」
何も言わない私に彼は不安になったのか、悲しそうな顔で私を見つめてくる。
うっ…その表情は卑怯ではないか。食べ物を前にずっと待てをされ、早く頂戴と甘えるようにキュウン…と鳴いている犬にしか見えない。
「君は確か…藤城くんだったか?」
「史狼と呼んでくれ」
「……」
彼の表情は冗談を言っているようには見えない。言われたように下の名前を呼び捨てにして、殴られるような事態にはならないだろう。
しかし、彼と接触したこともない私にそんなことを言うとは謎だ…。そして初対面の人間をいきなり呼び捨てにするのは、やはり失礼な気がする。ここは無難に下の名前に敬称をつけるのが妥当か。
「では、お言葉に甘えて史狼くん。君の飼うとはどういう意味で言っているのだろうか?」
「そのままの意味だ。それから呼び捨てで構わない」
「……」
なかなか手強いようだ。名前のことにも忘れずに突っ込みをいれるとは…。しかし、それは置いておこう。今の問題は飼うということについてだ。
「ふむ…」
そのままの意味か…。つまり、餌を与え、躾をし、散歩をする。それから撫でて遊んで、可愛がって、本当の犬のように扱えということだろうか。
しかし、なぜそんなことを望むのだろう。彼は犬になりたいのか?それとも飼ってもらう、イコール、生活を保証してほしいということなのだろうか。
「…私の家に住みたいという意味なら、申し訳ないが無理だ。私の家はそこまで裕福なわけではないし、私も親に養ってもらっている身なので、それはできない。それから我が家にはすでに『マロン』という非常に賢くて可愛くて、しかし、クールな一面を持ち、時に私を振り回すが、立派に番犬を果たしてくれる愛犬がいるのだ」
つい、愛犬の説明に力が入ってしまったことは見逃してほしい。私のマロンへの愛が溢れてしまっただけで、悪気はないのだ。
「悠の家で犬を飼っていることは知っている。そして悠がマロンを可愛がって大切にしていることも知っている」
彼は私のマロンへの熱い語りを気にした様子もなく、淡々とそう言った。
ナチュラルに私の名前を呼び捨てとは、なかなかやる男だ。自分の名前が悠であったことを一瞬忘れてしまうほどだったぞ。
あ、申し遅れたが、私の名前は葉山 悠という。家族構成は、父、母、兄、姉、私、マロンの6人である。
人によってはそれを5人と1匹だという非常に残念な者もいるが、私は断固として6人家族だと主張させてもらう。
しかし、なぜ彼はマロンを知っている?いや、私がマロンを可愛がっていることを見抜けるとは、称賛に値するが…。
まあ、それはいい。また話が逸れてしまいそうなので、マロンの話はここまでにしよう。
「ならばこの話はなかったことに…」
「だからこそ悠に飼ってもらいたいんだ」
「……」
ますます何が言いたいのかわからなくなってきたな。これはもはや私の許容範囲を越えた問題に違いない。それなら私が混乱するのも無理はないはずだ。
「悠がマロンに接しているように俺にも接してくれ」
「それは…」
「どうでもいい存在なんかじゃなく、俺に意識を向けて、俺のことを見て、俺の言葉を聞いて、俺のことを知ってくれ」
「…ん?」
「それと同じだけ俺に教えてくれ。楽しかったことでも悲しかったことでも、悠が感じたことなら全部」
なんだか口説かれているように感じるのは気のせいだろうか?
「俺だけに触れて、撫でて、抱き締めてくれ…」
やはり口説かれているように感じてしまう。なんとなく彼の瞳の奥に何か熱いものを感じるからだろうか。まるで私がマロンのことを熱弁しているときのようだ。
彼は私から視線を逸らすことなく続けた。
「…そして俺に愛情を注いでくれ」
彼はそう言いきると、変わらず私をただじっと見つめてきた。彼が私に何を求めているかは、やはりわからない。
しかし、私を見つめる彼の瞳は、優しくて温かくて、けれどどこか寂しそうに見えた。
彼はきっと誰かにすがりたいのかもしれない。それがなぜ私なのかはわからないが、飼うことで彼の何かを満たしてあげることができるなら悪くない。…私はなんといっても犬好きだからな。
「…わかった。しかし、私は可愛いからといってただ甘やかしたりはしないぞ?時には厳しく躾もする。飴と鞭は使い分けるタイプでな。それでもいいのなら君を飼おう」
随分と上から目線な言い方になってしまったが仕方ない。これが私の正直な気持ちだからな。
「ああ、構わない。よろしく頼む」
「うむ…」
私がそう言って頷くと、彼は今までの真剣な表情から一変して、ほっとしたような照れたような顔で笑った。
そんな彼を見て、可愛いと思ってしまった時点できっと私の負けだ。
私は彼にそっと近づいて、背伸びをすると、私よりも上にある彼の頭をゆっくりと撫でる。
思っていた通り手触りのよい髪を、私は満足が行くまで撫でた。これだけサラサラな毛並みなら、ブラッシングの必要はなさそうだ。それはそれで楽で助かるが、残念でもある。
「今日はご飯を食べた後に、近所を散歩するぞ」
「ああ」
「適度な運動は大切だからな」
「そうか…」
史狼はそう返事をすると、私に抱き付いてきた。身長差という悲しい現実があるため、私が抱き締められているような格好になるのは致し方ない。
飼うからにはペットのじゃれつきぐらい、寛容に受け止めなければ飼い主失格だからな。
「いつまでも抱きついてないで行くぞ、史狼」
飼い主になったのなら史狼と呼び捨てにさせてもらうとしよう。
私がそう言うと、史狼は一度ぎゅっと力強く抱き締めてからやっと私を解放した。
「…悠」
「なんだ?」
「俺にはリードがないから手を繋ごう。放し飼いは危険だ」
「ふむ。確かにそれは一理あるな」
「だろう?ほら、手出して」
私は史狼が差し出してきた右手に自分の左手を重ねた。史狼はそれを見て満足そうに微笑むと、私の手を引いて歩き出す。
「こら、史狼!飼い主を引っ張って歩くとは何事だ?私から付かず離れず歩きなさい」
私は史狼の手を掴んで、一度立ち止まると、史狼の顔を覗き込みながら注意する。しっかりと目を見て注意するのが私の流儀だ。なんといっても躾は、はじめが肝心だからな。気を抜いていてはいけない。
「…厳しいな、悠。それが鞭ってやつ?」
「いかにも。飴と鞭は使い分けると言っただろう?」
「ふーん。じゃあ飴もあるってこと?」
「当たり前だ。鞭だけでは成長するものも成長しないからな」
「そっか。じゃあ飴に期待しとくか…」
「したまえ。私は飴と鞭の使い方が絶妙なんだ」
私が胸を張るようにそう言うと、史狼は少し意地悪な顔をしてにやっと笑った。なぜかその笑顔に嫌な予感がしたのは気のせいであってほしい。
……後に私は知る。彼の「俺を飼ってくれ」という言葉には、「俺の傍にいてくれ」という思いが、「俺に愛情を注いでくれ」という言葉には、「俺を愛してくれ」という思いが込められていたことを。
私も飼い主として当然、史狼を可愛がるのだが、なぜか史狼は不満そうだった。なぜだ!最高の飼い主として、何が私に足りないというんだ。
まあ…確かに躾については、少し失敗してしまった気もしないわけではないが…。
史狼は人目があろうとなかろうとじゃれついてきたり、スキンシップが激しくなってしまったのだ。これは計算外だ。
悩む私に史狼は「マロンだって悠の顔を舐めたりするだろ?それと一緒だ」と言ってくる。舐める場所が顔なのと唇なのとでは違うように思うのだが、甘えてくる史狼が可愛くて私もなんだかんだ許してしまう。
しかし、経験者として言わせてもらいたいことがある。人間を飼う場合には、肝に命じてほしい 。最後まで責任を持って飼わなければいけないことはもちろんだが、いくら躾をしても、人間の犬は狼になってしまうこともあるということだ。
この時の私はそんなことを夢にも思っていなかったのだが、それを知るのもそう遠くない未来のことだ……。
《End》